寛容 不寛容

寛容な人とか 不寛容な人とか いうけれど
寛容な人だって 落ち込めば不寛容になるし
不寛容な人も 元気な時は意外と寛容だ

ストレスがなければ寛容でいられるし
どんなピンチもチャンスに変えて
問題が起きても笑っていられる

ストレスを感じればバランスを崩し
傷つき 自信を失い 体調が悪くなる
仕事を続ければ失敗をしてしまう

ストレスが溜まればネガティブになり
楽しくなくなり 自分を責め 落ち込む
仕事ができなくなって追い詰められていく

ストレスで不寛容になるのは防衛本能の表れだから
危機的な状況で不寛容になって ‎自分を守っているのだ
ストレスをなくせば守ることもなくなり 寛容になる

不寛容になったら ストレスを減らす
心身が健やかなら衝突することもなくなり
トラブルも逃げていく

不寛容に気づいたら 休息をとる
反省などしてないで おいしいものをたべる
そして寝る
そうすれば 知らず知らずのうちに 寛容になっていく

もっともそれは一般論で
不寛容が心地いい僕は
寛容な人から離れるようにして日々をすごしている

**

それはそうと 寛大であるということが
 悪いことをした人を 厳しく咎めだてしない
ということだとしたら 寛大は
 悪くない人が 悪い人を 許す
ということになってしまう

許されることのない人に
寛大であるというのは
ただの思い上がりではないか

ただ違うというだけで 酷い目にあっている人に
寛大であるというのは
ただの間違いではないか

**

自分たちのことを寛容だと思いこんでいる人たちが
違うグループの人たちを
不寛容だと決めつける

もし寛容な私たちが
不寛容な人たちに 寛容でい続けたなら
私たちは不寛容な人たちに滅ぼされ
私たちの寛容も消えてゆく

もし必要ならば
たとえ力によってでも
不寛容な人々を抑制しなければならない

不寛容なあの人たちは
寛容な私たちの言うことを
欺瞞だといって批判する
議論に暴力で答えるかもしれない
だから寛容な私たちといえども
不寛容に寛容であってはならないという

自分たちが寛容だと思っている人たちが
不寛容には不寛容で立ち向かうという
不寛容と決めつけられた人たちも
自分たちは寛容だと思っていて
自分たちの寛容を守るために
不寛容と戦うという

寛容なんて はじめから
自分たちのコアに合ったものだけを許すということで
逆に言えば
自分たちのコアに合わないものは許さないということで
だから寛容などという言葉は
宗教のなかに閉じ込めておけばよかったのだ

寛容という言葉のように
正しい顔をして社会を歩き回る言葉が
社会を不寛容にして ほくそ笑んでいる
おぞましいとしか いえない

5 thoughts on “寛容 不寛容

  1. shinichi Post author

    Paradox of tolerance

    Wikipedia

    https://en.wikipedia.org/wiki/Paradox_of_tolerance

    The paradox of tolerance states that if a society is tolerant without limit, its ability to be tolerant is eventually seized or destroyed by the intolerant. Karl Popper described it as the seemingly paradoxical idea that in order to maintain a tolerant society, the society must be intolerant of intolerance.

    **

    Vol. 1 of The Open Society and Its Enemies by Karl Popper, published in 1945
    In 1945, philosopher Karl Popper attributed the paradox to Plato’s defense of “benevolent despotism” and defined it in The Open Society and Its Enemies.

    Less well known [than other paradoxes Popper discusses] is the paradox of tolerance: Unlimited tolerance must lead to the disappearance of tolerance. If we extend unlimited tolerance even to those who are intolerant, if we are not prepared to defend a tolerant society against the onslaught of the intolerant, then the tolerant will be destroyed, and tolerance with them.—In this formulation, I do not imply, for instance, that we should always suppress the utterance of intolerant philosophies; as long as we can counter them by rational argument and keep them in check by public opinion, suppression would certainly be most unwise. But we should claim the right to suppress them if necessary even by force; for it may easily turn out that they are not prepared to meet us on the level of rational argument, but begin by denouncing all argument; they may forbid their followers to listen to rational argument, because it is deceptive, and teach them to answer arguments by the use of their fists or pistols. We should therefore claim, in the name of tolerance, the right not to tolerate the intolerant. We should claim that any movement preaching intolerance places itself outside the law and we should consider incitement to intolerance and persecution as criminal, in the same way as we should consider incitement to murder, or to kidnapping, or to the revival of the slave trade, as criminal.

    The term “paradox of tolerance” does not appear anywhere in the main text of The Open Society and Its Enemies. Rather, Popper lists the above as a note to chapter 7, among the mentioned paradoxes proposed by Plato in his apologia for “benevolent despotism”—i.e., true tolerance would inevitably lead to intolerance, so autocratic rule of an enlightened “philosopher-king” would be preferable to leaving the question of tolerance up to majority rule. In the context of chapter 7 of Popper’s work, specifically, section II, the note on the paradox of tolerance is intended as further explanation of Popper’s rebuttal specific to the paradox as a rationale for autocracy: why political institutions within liberal democracies are preferable to Plato’s vision of despotism, and through such institutions, the paradox can be avoided. Nonetheless, alternative interpretations are often misattributed to Popper in defense of extra-judicial (including violent) suppression of intolerance such as hate speech, outside of democratic institutions, an idea which Popper himself never espoused.[citation needed] The chapter in question explicitly defines the context to that of political institutions and the democratic process, and rejects the notion of “the will of the people” having valid meaning outside of those institutions. Thus, in context, Popper’s acquiescence to suppression when all else has failed applies only to the state in a liberal democracy with a constitutional rule of law that must be just in its foundations, but will necessarily be imperfect.

    Thomas Jefferson had already addressed the notion of a tolerant society in his first inaugural speech, concerning those who might destabilise the United States and its unity, saying, “let them stand undisturbed as monuments of the safety with which error of opinion may be tolerated where reason is left free to combat it.”

    In 1971, philosopher John Rawls concluded in A Theory of Justice that a just society must tolerate the intolerant, for otherwise, the society would then itself be intolerant, and thus unjust. However, Rawls qualifies this with the assertion that under extraordinary circumstances in which constitutional safeguards do not suffice to ensure the security of the tolerant and the institutions of liberty, tolerant society has a reasonable right of self-preservation against acts of intolerance that would limit the liberty of others under a just constitution, and this supersedes the principle of tolerance. This should be done, however, only to preserve equal liberty – i.e., the liberties of the intolerant should be limited only insofar as they demonstrably limit the liberties of others: “While an intolerant sect does not itself have title to complain of intolerance, its freedom should be restricted only when the tolerant sincerely and with reason believe that their own security and that of the institutions of liberty are in danger.”

    In On Toleration (1997), Michael Walzer asked, “Should we tolerate the intolerant?” He claims that most minority religious groups who are the beneficiaries of tolerance are themselves intolerant, at least in some respects. In a tolerant regime, such (intolerant) people may learn to tolerate, or at least to behave “as if they possessed this virtue”.

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  2. shinichi Post author

    寛容のパラドックス

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/寛容のパラドックス

    寛容のパラドックス(paradox of tolerance)とは、カール・ポパーが1945年に発表したパラドックス(逆説)である。このパラドックスは、「もし社会が無制限に寛容であるならば、その社会は最終的には不寛容な人々によって寛容性が奪われるか、寛容性は破壊される」と述べる。

    ポパーは、「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」という一見矛盾した結論に達した。なお、ポパーは不寛容な哲学の発言を禁止するべきではなく、合理的な議論で打ち返すべきであり、拳固やピストルを用いて自説を押し付け反対者の自由を禁じようとした時に、不寛容に対して不寛容である権利を要求するべきであるとした。

    **

    哲学者カール・ポパーは、1945年に『開かれた社会とその敵』第1巻(第7章)においてこのパラドックスを定義した。

    「寛容のパラドックス」については、あまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。

    「寛容のパラドックス」という言葉は、ポパーの著作である『開かれた社会とその敵』の本文のどこにも出てこない。その言葉は第7章の注釈として、プラトンが「慈悲深い専制政治」に対する弁明の中で提案したパラドックスに対して登場している。

    プラトンの示すパラドックスは、真の寛容によって必然的に不寛容につながるので、寛容の問題を多数派の支配に任せるよりも、悟りを開いた「哲人王」の独裁的な支配の方が望ましいというものである。

    ポパーの著作の第7章、特に第2節の文脈では、寛容のパラドックスに関する注釈は、独裁主義の根拠としてのパラドックスに特化したポパーの反論をさらに説明することを意図している。それにもかかわらず、民主主義制度の外でのヘイトスピーチなどの不寛容な言論に対する超法規的な(暴力的なものを含む)抑圧を擁護するために、ポパーの言葉に誤った解釈がしばしばなされている。

    このように、文脈の中では、他のすべての試みが失敗したときに弾圧に同意するというポパーの譲歩は、その基礎の中では公正でなければならないが、必然的に不完全なものになるであろう憲法上の法の支配を持つ自由民主主義の国家にのみ適用される。

    1971年、哲学者のジョン・ロールズは、著書『正義論』において、公正な社会は不寛容に寛容であらねばならないと結論づけている。そうでなければ、その社会は不寛容と言うことになり、そうするとつまり、不公正な社会ということになるとしている。 しかし、ロールズはまた、ポパーと同様に、社会は寛容という原則よりも優先される自己保存の正当な権利を持っていると主張している。曰く、「不寛容な人々に対して、たとえ彼らが不寛容だからと言っても、不寛容を言い渡されて当然だということはないが、寛容な人々が、自身の安全と自由の制度が危機に瀕していると切実かつ合理的な理由から信じる場合に限り、不寛容な人々の自由は制限されるべきだ」

    マイケル・ウォルツァーは1997年の著作「寛容について」の中で、「我々は不寛容に寛容であるべきか?」と問いかけた。彼は、寛容の恩恵を受けている少数派の宗教団体のほとんどは、少なくともいくつかの点では、彼ら自身が不寛容であると指摘する。寛容な政治体制の元では、このような人々は寛容を学ぶかもしれないし、あるいは少なくとも、「あたかもそのような美徳を保有しているかのように」ふるまうかもしれないと述べている。

    第3代アメリカ合衆国大統領のトマス・ジェファーソンは、最初の就任演説で、既に「寛容な社会」という概念に言及していた。 合衆国とその連合を不安定にする可能性のある人たちについて、曰く、「…彼らを邪魔しないでおけ。理性が間違った意見と自由に戦えるような場所では、間違った意見に寛容であっても安全である、ということの証として。」

    イギリスの政治哲学者であるジョン・グレイは、リベラリズムにおいて啓蒙と寛容の伝統があるとしながら、フランス革命後のロベスピエールや20世紀のマルクス主義のスターリンや毛沢東を例示して、啓蒙は「おれが理性的だと思っている社会革命のビジョンに反対するやつは殲滅する」といった理性の独断化・絶対化を招いてしまうので、啓蒙よりも寛容の伝統を重視して、不寛容な政治体制や文化に対しても、寛容であれと述べている。

    日本のフランス文学者である渡辺一夫は、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」というエッセイの中で、寛容のパラドックスについて検討した。渡辺は「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない」と結論する。また、寛容が自らを守るために不寛容に対して不寛容になるのは「寛容の自殺」でしかないとも述べている。そして寛容と不寛容が対峙するときには、不寛容ははじめから終わりまで躊躇なしに暴力を用いるのに対して、寛容の武器は説得と自己反省しかないとして、寛容は常に不寛容に対して無力であり敗れ去るものであるという。さらに、不寛容は手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見えて、寛容は忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われるので、不寛容には寛容よりも魅力があることを指摘する。また、普通人と狂人の差は自身がいつ狂人になるか反省できるかどうかとして、秩序維持に当る、現在の秩序から安定と福祉を与えられている人々は、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきであると述べている。渡辺によると、「自己批判」を自ら行わない人は「寛容」にはなりきれず、「寛容」のなんたるかを知らぬ人は「自己批判」を他人に強要するという。

    Reply
  3. shinichi Post author

    「寛容」では差別消えない
    LGBT「理解増進」法案
    by ロバート・キャンベル
    東京新聞 社会時評(2021年5月18日)

     理解の増進を努力目標にしただけの法案なら、今現実に起きている差別的な扱いはなくならない。そもそも寛容な社会の実現を、とうたっているところから焦点がずれているのではないか。というのも、その趣旨だとLGBTの人たちがごく自然に、当たり前に、誰にも迷惑をかけずに過ごしている日々の実態が法律に反映されないからである。
     理解が深まって生きやすくする、そのためには制度も変えようというのなら分かるが、社会を寛容にするとはどういうことか。そもそも寛容の範囲がどこまでであって、その先、あるいは、その過程で不当な差別に遭った人をどう救えばいいのか、まったく見えてこない。
     寛容という言葉を辞書で引けば分かる。寛容であることの前提に、「他人の罪過をきびしくとがめだてしないこと」(『日本国語大辞典』)がある。目の前の人に過失があり、その過失を大目に見て、人を許すということである。
     しかし許されなければならないようなことがあるのだろうか。わたくしたちは、後ろめたいことを何ひとつしていないのに、寛容とはなにごとか、正直にそう申し上げたい。出発点からずれていると言ったのは、そういうことである。

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  4. shinichi Post author

    「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」

    『狂気について 他二十二篇』

    by 渡辺一夫

    岩波文庫

    ただ一つ心配なことは、手っとり早く、容易であり、壮烈であり、男らしいように見える不寛容のほうが、忍苦を要し、困難で、卑怯にも見え、女々しく思われる寛容よりも、はるかに魅力があり、「詩的」でもあり、生甲斐をも感じさせる場合も多いということである。

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