黒岩重吾

6世紀も終わりに近づいたころの大和では、仏教の礼拝を巡って、神祗派(廃仏派)の大連・物部守屋と崇仏派の大臣・蘇我馬子の2人が敏達大王を中心にして対峙・対立していた。
武勇の氏族の長たる守屋は、年長で知謀に長けた馬子と話すとつい興奮し、本音を吐いてしまう恨みがあった。2人の対決は次第に熱を帯びていく。
 
 

6 thoughts on “黒岩重吾

  1. shinichi Post author

    東漢氏

    Wikiwand

    https://www.wikiwand.com/ja/東漢氏

    東漢氏(やまとのあやうじ)は、「東漢」を氏の名とする氏族。倭漢氏とも記述される。秦氏などと並び有力な渡来系氏族である。

    『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。東漢氏は集団の総称とされ、門脇禎二は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。

    『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。

    また『続日本紀』延暦4年(785年)6月条によれば、阿智王は七姓(朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人)と共に渡来した[2]。

    また、『古事記』応神天皇の件に、「秦造の祖、漢直の祖、が渡来してきた」とある。

    漢氏 (あやうじ)は東漢氏(倭漢氏、やまとのあやうじ)と西漢氏(河内漢氏、かわちのあやうじ)の両系にわかれる[3]。西漢氏は王仁の後裔を称し、東漢氏とは同族であるが、氏は異なる[1]。

    その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)も加えられる[3]。

    阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした[1]。大和に居住する漢氏は東漢氏(東文氏)となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏(西文氏・西書氏)となった[4]。織物工芸に長けていたため、両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませている。

    出自

    東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している[5]。『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる。

    東漢氏と直接の関係は無いが百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段楊爾」と替えたいと百済は申し出ている[6]。

    氏族の特徴

    東漢氏は、先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術をもたらしたと考えられている。また、記紀などの記録から土木建築技術や織物の技術者が居たことをうかがい知れる。東漢氏の一族に東文氏があり、7世紀から8世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を出している。

    また、東漢氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。『肥前国風土記』によれば、602年の新羅征討計画の際には兵器の製作を担当した[7]。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂(たもと)を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。

    後裔

    阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。

    「掬」の代に東漢直姓を賜った。

    東漢氏は坂上氏、書(ふみ)氏(文氏)、民氏、池辺氏、荒田井氏などの直姓氏族に分かれた[3]。八色の姓では忌寸姓に改められている[3]。8世紀から9世紀には坂上氏が台頭し、宿禰・大宿禰を賜った[3]。

    坂上氏

    東漢氏の宗家ともいえる系統は坂上直姓初代坂上直志拏の兄で東漢直山木である。しかし、曾孫[注釈 1]である東漢駒が、蘇我馬子の指図もあって崇峻天皇を暗殺し、その後天皇の妃である河上娘と不倫関係となったので、東漢氏の宗家は没落した。そのため、東漢氏の宗家は次男の志拏の系統である分家坂上氏にもたらされたという。

    ただし、東漢直駒に関しては不明な点も多く、東漢直駒は坂上氏初代とされる志拏の子で坂上宿禰田村麻呂の直系の先祖にあたる坂上直駒子に比定する説もあり、その説によると、坂上氏が蘇我氏と袂を分かった理由は、蘇我馬子の命令を忠実に果たした坂上駒子を蘇我馬子が口封じに殺害したために坂上氏が蘇我氏に対して恨みを含んだからだとしている。

    坂上氏は東漢氏の宗家ではなく、東漢氏は末弟の東漢直爾波伎が継ぎ、東漢直角古、東漢直久爾、東漢直福因と続き、東漢直福因(倭漢直福因)は608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、大唐国は法式備わり定れる国であるゆえ、常に通交すべきである」と朝廷に奏上した[8]。

    坂上氏のほかに東漢氏から出た諸氏には、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、丹波氏、調氏、文部氏、谷氏、佐太氏、井上氏などがある。

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  2. shinichi Post author

    天の川の太陽
    by 黒岩重吾
    (1976年-1979年)

    (上)大化の改新のあと政権を保持する兄天智天皇の都で、次第に疎外される皇太弟大海人皇子。悲運のなかで大海人の胸にたぎる想いは何か。額田王との灼熱の恋、鬱勃たる野心。
    (下)鉄剣を磨き、馬を養って時に耐える大海人皇子はついに立った。東国から怒涛のような大軍が原野を埋めて近江の都に迫り、各地で朝廷軍との戦いがはじまる。

    **

    西暦六五八年、斉明四年の十一月初旬、大海人皇子は一人で深夜の岩風呂につかっていた。この南紀の湯(白浜温泉)に母斉明、兄である中大兄皇子、それに一昨年まで恋人であった額田王などと共にやって来たのは、十月中旬だったから、すでに二十日近い滞留になる。

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  3. shinichi Post author

    高麗神社

    https://komajinja.or.jp/

    高句麗からの渡来人 高麗王若光が主祭神として祀られている。その他にも、導きの神 猿田彦命、長寿にして長く朝廷に仕えた武内宿祢命が祀られている。

    高麗王若光

    天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始しました。高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣します。『日本書紀』には「二位玄武若光」の名が記されており、若光が使節団の一員として日本へと渡来した事が分かります。668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはありませんでした。
    その後、大和朝廷に官人として仕える若光の名が文献に表れるのが『続日本書紀』大宝3年(703)年3月「従五位下の高麗の若光に王の姓を賜う」です。姓(かばね)とは、それぞれの家柄を定めるために大和朝廷が授与する称号で、王(こきし)の姓は外国の王族の出身者に与えられていたものでした。

    高麗郡建郡

    若光の渡来から半世紀を経た霊亀2(716)年5月16日、大和朝廷は駿河(静岡)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、上総・下総(千葉)、常陸(茨城)、下野(栃木)の七国から高句麗人1799人を武蔵国に移し「高麗郡」を創設(続日本書紀巻第7の記述)。この時、若光は郡の長官に任命されました。若光は郡内の高麗人をよく指揮し、未開の地を開発し、この地で波瀾の生涯を終えました。郡民はその徳を偲び、その霊を祀り、高麗郡の守護神としたのです。

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