ICHI.PRO

自然の普遍的な法則の1つは、エネルギー消費の最小率の法則です。たとえば、ポイントAから放出される光は、ポイントBに到達するために、無限の数のルートの中で最もエネルギーを必要としないパスを選択します。これは、多くの場合、最速でもあります。
ポイントAとポイントBが空中にある場合、光はABラインに従います。これは、ABラインが、最小限のエネルギー消費で、ライトがポイントBにできるだけ早く到達する方法であるためです。点Aが空中にあり、点Bが水中にある場合、光はある点で屈折してAからBに移動します。これは、光が空中で速く進み、水中で遅くなるためです。そのため、光は可能な限り空中に留まりたいと考えています。
自然のこの最小のエネルギー消費法則は、しばしば物理学で遭遇します。私たちの美的知覚は、自然とその法則に由来します(他にどこにあるのでしょうか?!)。エネルギー消費が最小の法則は、美学にも適用されます。私たちはしばしばシンプルさに美しさを見出します。
文学、絵画、建築、数学では、どこにいても、不必要な混乱は楽しいものではありません。それは私たちを疲れさせるだけです。シンプルさは私たちの感覚にとって「楽しい」呪文であり、より効果的です。

2 thoughts on “ICHI.PRO

  1. shinichi Post author

    自然は美しさを望むのか

    http://geo.sgu.ac.jp/monolog/2012/129.htm

      自然には、誰が見ても美しいものがあります。その自然を理解する学問の理論にも美しいものがあります。もちろん、すべての理論が単純で美しいとは限りませんが、驚くべき単純さと美しさを持つものも確かにあります。それは、自然がそのような特質を持っているのでしょうか。それとも人が、自然の中にに美しさを望んでいる結果なのでしょうか。

    Essay■ 129 自然は美しさを望むのか

     自然科学において「美しさ」とはどんな意味を持つのでしょうか。たしかに自然には、目を見張る景色や、きれいな夕日、鮮やかな緑、澄んだ湖、整った結晶など、いろいろな「美しさ」があります。しかし、自然であれば、どんなに美しいものでも、近づいてみたり、解像度をあげたり、詳しく見れば、欠点もみえてくるでしょう。逆に、その欠点こそが、自然らしさでもあります。
      宝石の鑑定の話です。鉱物の合成技術が進んできて、人工の純粋な結晶が安価にできるようになると、それを宝石に利用できれば、安上がりに高品質のものができます。しかし、うなぎのように、養殖物と天然物で価格が何倍も違うように、天然のものに人は価値を見出します。もちろん味や味わいの違いがそこにはあるのでしょう。宝石では、天然ものと人工ものを見分けるために、手っ取り早い方法として、不純物や傷があることが天然ものの条件でもあるという話を聞いたことがあります。まあ、伝聞ですので本当かどうかは定かでありません。
      これは、天然のものに価値を見出し、そこに「美しさ」が加わると、その価値はますます上がることを意味しています。本来であれば、不規則、不揃い、傷や汚れがあるのが、自然状態でもあります。たまたま欠点が少なく、ある程度整ったものがあると、その「美しさ」が際立つのでしょう。
      では、自然を調べる科学、自然科学における美しさとは、どうようなものでしょうか。自然の中の規則性を一般化したとき、得られた法則が、美しいかどうかは不明です。自然はあるがままで、そこには美醜の存在の余地はありません。読み取った結果に対して、人が美醜の判断をするのです。人のわがままを自然は反映することはないでしょう。非常に手前勝手な評価をしているに過ぎません。
      地質学の例でいうと、プレートテクトニクスという理論があって、それによって大地の営みの多くが説明できます。しかし、自然は多様で複雑なので、すべてがきれいにプレートテクトニクスが説明できるわけではありません。いろいろな矛盾点や大小のズレ、多数の例外が出てきます。その多くは、自然の多様さ複雑さに由来するもので、それなりの理由や根拠がそこには存在します。そんな理論からのずれをつくろえば、より正確な説明になりますが、補足や例外的な理由など、つぎはぎが多くなり、見苦しくなります。現実の適用は、プレートテクトニクスの理論自体の美しさに比べると、あまりスマートではなく、泥臭いものに見えます。
      地質学の対極にある数学は、抽象化された学問体系です。数学は、自然科学でなく、純粋な思索的学問である哲学や論理学などの範疇に入るべき学問です。そこには、数、数字、線、面、図形、立体などの数学の対象となるものがあります。それらはすべて、一見具体的なものにみえますが、実は高度に抽象化さた概念です。つまり、人の中にある数学の対象となる抽象概念の世界における規則性を見出すのが数学という学問です。そこには美醜があってもいいかもしれません。美しい方程式、素晴らしい定理、見事な証明などあるはずです。確かにピタゴラスの定理やオイラーの式(e^iπ=-1)など、素晴らしいものがいっぱいあります。
      では、自然科学と数学の境界ともいうべき物理学は、どうなるのでしょうか。物理学では、自然の現象、運動、変化など、実際に存在し、起こる具体的な対象が存在します。その多くは、実験や観測、測定などが可能なものです。物理の法則や仮説、理論は、実験や観測によって得られた事実、数値、データと一致なければなりません。
      測定値は、多少の誤差が混入するため、理論とは少しのズレは、何度も繰り返せば、ほぼ理論通りの結果が得られます。もしズレが収まらなければ、その理論は間違っている可能性があります。それほど、理論と実験の一致が物理学では必要になります。
      ただそこには、理論と事実の一致と不一致が存在するだけで、理論の正否だけが問題となります。理論の美醜などの判断が入り込む余地はありません。美醜は、人の価値判断に過ぎません。
      それでも、得られた理論に、美しく思えるものが確にあります。ニュートンの運動法則(F=ma)、ボルツマンの式(S=klnΩ)、電磁気学の式(c=1/(ε0μ0)^1/2)、プランクの式(E=hμ)など、いろいろな例が挙げられます。ここで示した例は、単純な式ですが、自然の仕組みに秘められたの重要性が、単純な式によって浮き彫りにされています。そんな式をみると、自然の重要な属性として、「美しさ」あると思いたくなります。
      アインシュタインは「自伝ノート」の中で、物理学における理論(仮説)が満たすべき2つの条件を示しました。その条件とは、「理論は経験事実と矛盾してはならない」と「理論の前提の『自然さ』あるいは『論理的単純さ』」としています。あるいは、「理論の外的実証性」と「理論の内的完全性」と言い換えています。
      これには、少し説明が必要でしょう。
      一つ目の条件は、自然科学の前提でもあるのですが、実験結果(経験事実)と理論は、一致しなければならなということです。理論は、実証されなければならず、その実証とは実験(外的)によるものでなければならないということです。実験が先行しているときは、実験結果のすべてを理論は説明しなければなりません。一方、理論が先行しているときは、理論が予測する結果を、実験で得られなければなりません。
      2つ目の条件は、理論は単純であり、なおかつ自然で(むりな操作や手続きなく)、そして1の条件とも重なりますが、その理論は、美しくなければならないという意味です。
      確かに、E=mc^2 というアインシュタインが見つけた相対性理論に関する方程式は、単純で美しいものです。そして、エネルギーと質量が等質であること、その変換に普遍の速度をもつ光速が関わっているということ。この単純な式は、いろいろことを思い起こさせる美しさを秘めています。この式が正しいことは、いろいろな現象で確かめられてきました。
      単純さや自然さ、美しさは、人の価値観、あるいは人それぞれの感覚にもとづいています。そのためには、自然が単純で美しい論理のもとづいて営まれているという前提が必要です。自然界の物理現象のすべてにおいて、そんな美しさが宿っているのでしょうか。もしそうなら、そこに「神の作為」が働いているとも考えたくなります。アインシュタインは、「神はサイコロ遊びをしない」といいました。
      さてさて、自然は「美しさ」を望むのでしょうか。それとも、人が自然の中に「美しさ」を望むのでしょうか。

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