マーティ・フリードマン

最初は言葉の問題がありました。会話に関西弁が入るともうお手上げでした。でもツアー中は「わかるふりをしよう!」と決意して、演技に徹しました。今は関西弁も大抵はわかるようになりましたが、「言葉を理解しているふり」は上手になりましたね。それは大事なことだと思います。今でも、政治や経済、医学とかの専門用語が話題に出るとアウト。「なるほど」という顔で聞いています。

2 thoughts on “マーティ・フリードマン

  1. shinichi Post author

    【前編】マーティ・フリードマンに聞く – なぜ世界的に有名なギタリストは、一人でJ-POPに乗り込んだのか

    https://www.recruit.co.jp/talks/meet_recruit/2016/08/gl18-1.html

    日本に来て最初に苦労したのはゴミの分別!? 自ら機会を切り拓く、マーティ流の人生哲学

    とことん追求し自分のオリジナリティを編み出す

    ― ギターを始めたのは、何がきっかけだったのでしょうか?
    14歳の時です。学校の友だちがKISSのファンで、一緒にコンサートに行って衝撃を受けました。もう、自分は音楽をするしかない!と思ったんですよね。実はスポーツが大好きで、何かアメフトや野球をやりたかったんですけど、クラス一身体が小さかったので、アメフトをやったら細すぎて殺されちゃうなって(笑)。走るのは速かったんですけどね。KISSのコンサートでメンバーがステージで跳ねたり走り回ったりしているのを見て、「これだったら自分もできるじゃん!」って思ったんです。それで、母に1万円ほどの安いギターを買ってもらって、15歳でハードロックバンドを始めました。

    ― 今まで優等生だったのに、バンドを始めて不良に転身したそうですね。
    はい、今の方が真面目ですね。14歳から17歳頃までは超不良でした。どれだけ不良だったかは言えません。テレビの仕事が減っちゃうからね(笑)。音楽を始めたばかりの頃は、うまいとかヘタとか関係なく地元の人たちが見にきてくれて、ちやほやされて。15歳ですでにロックスター気分だったんです。楽しくて仕方がなかった。でもミュージシャンは、保証もなければ、競争も激しい。音楽で勝負するんだったら真面目に取り組まないとまずいと気づいて、それからは音楽に真剣に向き合うようになりましたね。

    ― 出身はアメリカのワシントンD.C.だとお聞きしましたが、お父様の仕事の関係でドイツとハワイでも生活された経験があるとか?
    9歳から11歳までドイツに住んでいました。ドイツといっても米軍基地内で生活していたので(マーティさんの父親は国家安全保障局勤務)、アメリカ人の学校に通っていました。でもドイツ語も勉強しましたし、地元のドイツ人とも接していました。その経験があるから、日本に住むのも違和感はありませんでした。18歳からハワイに住んだのも父親の仕事の関係です。

    ― 同じアメリカでも、ワシントンD.C.とハワイではまったく印象が違ったのでは?
    全然違います! ハワイはアメリカであってアメリカじゃないですね(笑)。僕はその頃、めちゃくちゃハードな音楽に情熱を注いでいましたから、ハワイに来て、南国のリゾートの雰囲気と真逆の気分だったわけです。時間通り物ごとは進まないし、誰も頑張らないし、すごい観光地だし、みんなバカンス気分だし、最初は辛かったですね。ロッカーはここでどうしたらいいのかって。

    ― ハワイに新しい音楽のムーブメントを巻き起こしたのでは?
    いいえ、地元の人にはかなり嫌われていたと思います。ハワイのカルチャーに合う音楽ではなかったですしね(笑)。でも、インディーズの世界で、ヨーロッパや日本でファンがついたんですよ。とはいえ、アンダーグラウンドでちょっと知られても、生活はできませんでしたが。

    ― 日本の演歌に出会ったのもこの時期ですね?
    そうです。日系人用の日本語のラジオ局から流れてきたのが演歌だったんです。ボーカルの歌い方がすごく興味深かった。何を歌っているかわからないけど、音だけで情熱的な感情が伝わってきたんです。演歌は「こぶし」が重要ですよね。これと同じことがギターでできたら、他のミュージシャンと異なる個性になると思いました。ハワイにいた時は時間がたくさんありましたから、演歌を分析してギターをかなり弾きこんでいましたね。

    日本語が上達したくて、大学の弁論大会に出場

    ― 日本語はいつから勉強し始めたんですか?
    ハワイでの生活を終えて、サンフランシスコで新しいバンドを結成したんですが、そのインディーズバンドが日本でライブをすることになったんです。日本に降り立ったら、無名のミュージシャンなのにスターのように扱ってくれた。日本のスタッフは非常に優しかったですし、予定表も用意されていましたし、何もかもが時間通りで、ちゃんとしていた。そんなの見たことがなかったから感激しました。そんな扱いはアメリカではされたことがありませんでした。僕たちのような無名のバンドにも、敬意を払ってくれて、大切に扱ってくれて、音楽もちゃんと聴いてくれた。「この曲のBメロは素晴らしいです!」って、そこまで聴いてくれたの?と感動しました。とにかく、その感謝の気持ちを伝えたくて、日本語で挨拶ぐらいはできるようになりたいと思ったんです。それと、周りの人たちは日本語で話しているから、僕たちはさっぱりわからなかった。それは僕にとって興味がある重要な内容かもしれないって思ったら、少しはわかるようになりたいと思ったんです。

    ― 大学の通信教育で日本語を勉強して、アリゾナ州立大学の日本語の弁論大会で準優勝されたそうですね。テーマはなんだったのでしょうか?
    テーマは国際結婚についてなんですけど、日本語の弁論大会って、みんなつまらないテーマを掲げるじゃないですか。日本のアニメや漫画、クールジャパン文化などなど。僕はまったく興味がなかった。でもせっかく日本語を勉強できる機会だし、大学で学生の前で話すんだったら深い話をしようと思ったんですね。アイルランド人と中国人、アメリカ人と日本人が結婚したりするじゃないですか。違うバックグラウンドで育ってきているのにすごいことだよね。でもこれが繰り返されたら、1万年後には肌の色も宗教も文化も政治的思想も混ざって、人種の違いなどの偏見がなくなるかもしれない。それが神のそもそものプランだったらって考えると面白いじゃないですか。人種としてのアイデンティティは失われるかもしれないけど、差別がなくなることで争いがなくなるかもしれない。どちらがいいか、観客に問題提起したかったんです。

    ― 日本人でもそのテーマで話すのは難しいです。そもそも弁論大会に出ようと思ったことがすごいですね。
    日本語が上達するいい機会だと思ったんですね。そのための下準備は本当に大変だったけど、そのことが力になりました。何事も何もしないよりもやったほうがいいという考え方なんです。日本に来てから、時々、テレビに出演させていただくんですが、テレビに出ること自体はそんなに興味はないんだけど、出ることによって日本語をちゃんと話そうというプレッシャーがかかる。それが日本語を上達させる。なので、テレビは出させていただいていますね。

    ― 日本語の上達のためには、どんなこともチャレンジしてみようと。
    ほら、音楽の流行って気まぐれじゃん。だからミュージシャンとしての僕は将来の不安を無意識に感じているんですよ。音楽活動はもちろんメインなんですけど、僕が音楽でできることは限られていますから。同時に日本語を使った(タレント)活動も感覚を鋭くさせていかないといけないですから、日本語は必須です。もっと上達できるチャンスがあればそれは挑戦しますね。音楽の世界もそうですが、上達するためにラクな方法をとろうとは思わないです。

    「外人カード」を使わずに、日本の生活に慣れる努力

    ― メジャーバンドでの成功を経て、2004年に日本に移住しようと思ったのは?
    日本の音楽が好きすぎて、もう日本の音楽シーンに入るしかないと思ったんです。アメリカにいてもずっと日本の音楽しか聴いていなかったんですよ。僕はミュージシャンですから、好きな音楽がたっぷりある国にいなきゃバカだと思いました。迷っている場合じゃないと。

    ― 日本の音楽のどういうところがお好きだったんですか?
    J-POPと言われている分野です。アメリカにいた時に聴いていたのは、小室哲哉さんやつんく♂さんのプロデュースしていた曲はもちろん、B’zなども含めていろいろですね。90年代のJ-POPは曲がよくて、プロデュースが現代的で、ギターの存在もあって、ポップソングのハッピーさもあり、テクノっぽい要素があるものもあって、めちゃくちゃ幅広い。日本ならではのオリジナルだし、すごく新しかった。僕の好きな音楽のストライクゾーンだったんです。オリコンチャートの1位から10位まで、常に9曲は好きな曲という状態でしたね。アメリカのミュージックチャートで好きな曲が1曲あるだけでもビックリするのに、洋楽よりずっと面白かった。

    ― その邦楽シーンで自分のやってきたことを生かしたいと思ったのですか?
    そうです。僕自身、かなり変な経歴ですから、何かしら僕にしかできないことがあるかなと。とはいえ、今までお付き合いがあったのは、レコード会社の洋楽部門の担当者だけでしたし、日本にコネクションはまったくありませんでした。今回は邦楽に関わりたくて日本に来たわけですから。

    ― 日本の生活習慣などに慣れるのは大変だったのでは?
    ツアーで来日した時は周りのスタッフが、食べる場所も、移動も、宿泊も何から何まで手配してくれて、何も心配する必要がなかった。でも日本に住むんだったら、自分一人ですべて対処できないとダメだと。そうじゃなかったらダサいじゃん。実際に住んでみると、日常のちょっとしたことのルールが、アメリカとは全然違っていましたね。家を借りるのに敷金礼金があるというのもびっくりしましたし、分別ゴミを知らないでゴミを出したら、ビルの管理人のおばさんに道の真ん中でガミガミ怒られて恥ずかしかった経験もあります。その後は分別ゴミをちゃんと調べて徹底しました。そういう時に、外国人だからわからなくても当然という、「外人カード」は使いたくないんですよ。分別ゴミのことを知らないでそのままいくより、一回、恥をかく方がずっといいです。

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    【後編】マーティ・フリードマンに聞く – なぜ世界的に有名なギタリストは、一人でJ-POPに乗り込んだのか

    https://www.recruit.co.jp/talks/meet_recruit/2016/09/gl18-2.html

    日本に来て最初に苦労したのはゴミの分別!? 自ら機会を切り拓く、マーティ流の人生哲学

    ゼロからの再スタート

    ― 日本にいらして一番最初は、相川七瀬さんのバンドのメンバーになられたそうですね?
    知り合いから相川さんを紹介されて、意気投合したんです。その時は一切音楽の話はしませんでしたが、次の日に彼女のマネージャーから連絡があり、「バンドに入ってください」と言われて、「やったー!」と。邦楽の仕事ができるのがすごくうれしかった。邦楽に足を踏み入れられたのはそれがきっかけでしたね。彼女とはうまくやれるという確信がありました。相川さんのツアーに同行すると、彼女のファンは「あのロン毛の外人誰?」って感じでしたね。邦楽を聴いている人は洋楽の世界を知らないじゃん。僕がいたバンドも、メタリカも、クイーンもジョージ・マイケルもみんな一緒だと思っているからね。気に入ってもらうためにすごく頑張らなくてはならなかった。でも、それが新鮮で楽しくて、新たなチャレンジでもありました。

    ― 日本の音楽界で仕事をするようになって、コミュニケーションや文化の違いなど、困ったことはありましたか?
    最初は言葉の問題がありました。会話に関西弁が入るともうお手上げでした(注:相川さんは大阪出身)。でもツアー中は「わかるふりをしよう!」と決意して、演技に徹しました。今は関西弁も大抵はわかるようになりましたが、「言葉を理解しているふり」は上手になりましたね。それは大事なことだと思います。今でも、政治や経済、医学とかの専門用語が話題に出るとアウト。「なるほど」という顔で聞いています。

    ― 今では驚くほど日本語が流暢ですよね。日本に何十年住んでも、日本語を話せない外国人はたくさんいます。
    そういう人は理解できません。「トイレはどこ?」って言えなくてどうしますか? レストランのメニューも、新聞も読めないじゃないですか。

    ― 日本語の新聞を読まれるんですか?
    当たり前。そんなことでびっくりしてほしくないよ。政治経済の専門の新聞は読めないですが、スポーツ新聞のちょっとエッチな欄なども読みますよ。興味のあるものは読めますね(笑)。アメリカで日本人が完璧な英語を話してもチヤホヤしてもらえませんが、日本で僕みたいな外国人が日本語を話すと、皆さんが感謝してくれるので、がっかりさせたくないんです。日本にいて日本語を話そうとしない外国人は理解できない。日本語がわからないと楽しめないこともたくさんある。日本人の友だちとメールのやりとり、超楽しいじゃん。ツイッターとかね。その楽しさがないのはもったいない。

    ― 日本での活動が幅広く、ユニークです。八代亜紀さんとも共演されましたね。
    あの時はびっくりしました。僕がテレビで演奏をしていたのを見て、「曲を書いてほしい」と頼まれたんです。うれしくて、死んでもいいじゃん!って思ったよ。あなたの声を分析しましたよって。神様のような声を尊敬していましたから。挨拶ができるだけですごくうれしいのに、そういった貴重な経験ができて感謝しています。

    ― ももいろクローバーの楽曲に参加したり、AKBの武道館ライブにも出演されたりしています。
    最近では、アニソン(アニメソング)のアーティストと一緒にやって、楽しかったですね。自分のソロ活動がメインではあるんですが、他のミュージシャンとのコラボは楽しいですし、「やってみたいな」と思うと実現したりして、恵まれています。

    ― 「空耳アワー」のようなマニアックなコーナーにも登場されました。
    実はアメリカで日本語を勉強し始めた時からツアーバスの中でよく見ていました。映像もあって、わかりやすいから楽しいんですよね。僕がギターを弾いている曲なんかも出てきていた。出演の依頼は光栄でした。視聴者が選んでくる曲はワールドミュージックからロック、ポップス、ヘヴィメタルまでバラバラで、どれほど日本人が音楽を愛しているか、興味があるかということだよね。アメリカ人はアメリカの音楽しか聴かないからね。イギリスで爆発的に売れた、オアシスやロビー・ウィリアムズだって知らない。それはちょっと恥ずかしいです。

    一度失敗したら、同じ過ちは繰り返さない

    ― テレビ出演といえば、日本の放送禁止用語をご存じなかったとか?
    前にNHKのラジオ番組生放送で、番組のパーソナリティの方に、「マーティさん、昨日のライブはいかがでしたか?」と聞かれたんです。僕は、「みんなクレイジーだったよー」という意味で、放送禁止用語を言ってしまった。そしたらスタジオがシーンとなって、あれ、自分、変なこと言った?って思ったら、「マーティさん、後で説明します」って。クレイジーだったらよかったんだけど、翻訳したらダメだったんですね。でも、こういうシチュエーションになったから、日本の放送禁止用語を知ることができました。「言っちゃダメな言葉を全部教えてください」って(笑)。二度と同じ過ちは繰り返しません。アメリカの放送禁止用語は下品な言葉が主なので、禁止される理由が違うんです。だから文化がわからないと難しいですよね。

    ― 昨今のJ-POPだけでなく、一昔前の歌謡曲もお好きだそうですね。
    あの時代の音楽はあまり詳しくはないんですが、山口百恵さんの曲と彼女のスタイルは好きですね。松田聖子さんも同様です。日本には歌謡曲の名曲が沢山あります。メロディ、コード進行など、日本にしかない音楽だと思います。その時代、洋楽の真似をしようとしていたらダサいじゃん。いい曲は現代のJ-POPにもつながっていて、昔の松田聖子さんの曲などとコード進行がほとんど一緒の曲があったりする。音が現代の解釈になっているだけなんです。 こういった、Made in Japanの音楽が僕は大好きですね。

    ― 今後挑戦してみたいことは?
    いっぱいあります。自分の中でもっと新しい音楽、未来的な音楽に挑戦してみたい。また、紅白歌合戦に出たいです。実は二回出演させてもらっていて、前回は石川さゆりさんとでした。素晴らしかった。あっという間に終わっちゃったから、今度はもっと長く出られたらうれしいですね。出演の直前、ステージのソデで石川さんと一緒に待っていたんですが、彼女はベテランだから落ち着いていて、料理のレシピとかガーデニングの話を僕にするんです。僕は、(今から紅白だよ!)とすごく緊張してドキドキしていました。紅白はハワイのテレビで放映していて知っていました。その頃は訳がわからなかった。演出も派手で、日本って変わっているなぐらいにしか思っていなかった。当時の僕にとって、日本は違う惑星みたいな感じでしたから。その番組にまさか自分が将来、出演することになるなんて思いもしませんでしたね。

    ― 自分の糧になることなら、どんなことでも挑戦するとおっしゃっていましたが、将来、どうやって生きていけばいいか悩んでいる日本の若い人たちに、メッセージをお願いします。
    自分が少しでも興味のある方向性に進んだ方がいいですね。経済的理由だけのために働くのでは、苦しいと思います。例えば、自分の理想の仕事でなくても、ちょっとでも興味がある部分があれば、逃げ場がある。それがもっと広がっていくかもしれない。例えば音楽がやりたいんだったら、ミュージシャンが難しければ、エンジニアとか技術者とかね。とにかく、ちょっとでも自分の好きなことに関わった方がいいと思う。理想の仕事なんてない。僕だって、妥協している。自分の好きな仕事をたくさんしているけど、それでも妥協は必要。少しでも好きなことがあれば、それをどう繋げていくかです。

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  2. shinichi Post author

    マーティ・フリードマン

    https://ja.wikipedia.org/wiki/マーティ・フリードマン

    マーティン・フリードマン(Martin Friedman、1962年12月8日 – )は、アメリカのギタリスト、音楽評論家、タレント。現在は日本に拠点を置き活動する。

    日本への移住

    カコフォニー時代にライブで初来日したマーティは、日本に対してそれまで以上の興味を持つようになり、90年代の半ば頃からメガデスの世界ツアーの移動時間を利用して、通信教育で日本語の勉強を始める。ある程度日本語を習得したことで、通訳なしでインタビューを受けることも多々あった。その後、アリゾナ州立大学の日本語弁論大会で2位を獲得。現在は日本の雑誌やメディアのインタビューはすべて日本語で対応しており、対談などでは通訳を務めることもある。

    2004年に、仕事も何も決まっていない状態で日本への移住を決める。保証人もいなかったため、最初の数か月は6畳のウィークリーマンションに住まざるを得なかったという。日本語の勉強になると割り切って、やりたくない仕事もやっていたが、間もなく友人の紹介で相川七瀬と知り合い、彼女のバックバンドにギタリストとして参加する。これをきっかけに日本でのミュージシャンとしての活動を開始する。

    その後、東京都新宿区に完全移住した。2005年にはX JAPANのPATAやLUNA SEAの真矢と共に、相川七瀬のコンサートツアーに参加した。5月から放送開始となった番組『ヘビメタさん』にもレギュラー出演している。また鈴木亜美のギタリストとして念願の『NHK紅白歌合戦』出場の夢も実現した。

    2006年4月より『ROCK FUJIYAMA』(テレビ東京系)にレギュラー出演する(2007年3月まで)。同年6月12日からは日本テレビの『歌スタ!!』に「ウタイビトハンター」として出演する。またこの年から4年連続『タモリ倶楽部』の年度末企画「空耳アワード」に出演し、2006年、2008年には逆空耳(日本語の歌が外国語に聞こえる)を2つずつ紹介した(2006年は2曲とも浜崎あゆみ、2008年はB’zとmihimaru GT)。さらに2006年から2008年まで鉄鋼業界の団体日本鉄鋼連盟の新卒採用PRのイメージキャラクターとなる。キャッチコピーは「メタルはイケてるのか?」、「メタルはイケてるぜ!!」。

    2007年、KOTOKOの7枚目のシングルで、OVA『マリア様がみてる』第3巻〜第5巻のエンディングテーマ「きれいな旋律」の作曲とギター演奏を担当。

    2008年3月1日に渋谷のNHKホールで開催された『平成19年度NHKのど自慢チャンピオン大会』では、オープニングでこの番組のテーマ曲をロック調にアレンジし、ソロで演奏した。またジェロのアルバム『COVERS』収録の「釜山港へ帰れ」に参加した。『2008年紅白歌合戦』では、石川さゆりの「天城越え」の伴奏者も務めた。その他、同年公開の映画『デトロイト・メタル・シティ』にジャック・イル・ダークのバンドのギタリストとして出演した。同じく2008年公開の映画『グーグーだって猫である』にも出演した。9月からは『ビッグコミック』誌上にて「邦楽の殿堂」連載を開始する(2008年9月10日号より)。

    2009年 5月3日、テレビ朝日『題名のない音楽会』のゲストとして、井上道義指揮、オーケストラ・アンサンブル金沢との競演で、バッハ作曲『ブランデンブルク協奏曲』第3番の第3楽章を演奏した。

    2009年10月14日に、テレビ朝日『ロンドンハーツ』の特別企画によって幕張メッセで開催された50TA(狩野英孝)の復活ライブにおいて、楽曲『ヘビーメタルステーション』のギタリストとして出演した。

    2010年6月16日、Sound Horizonのシングル「イドへ至る森へ至るイド」に参加する。また6月19・20日にSound Horizon『国王生誕祭休日スペシャル2010』のライブにも参加する。

    2010年8月25日、THE ALFEEの高見沢俊彦のソロアルバム『Fantasia』、楽曲「エデンの君」のギタリストとして参加した。2010年9月12日に東京国際フォーラムで開催された『Fantasia』のライブにおいて、アンコールで「エデンの君」のギタリストとしてゲスト出演した。

    2011年、東北地方太平洋沖地震と津波の被災者のためのチャリティ・オークションとして、メガデス時代のギターをすべてeBayに出品した。マーティは、自身の機材を手放すのはこれが初めてとのことである。

    2011年12月25日、『ももいろクリスマス2011 さいたまスーパーアリーナ大会』にのゲストとして、ももいろクローバーZと共演し、自身も参加している楽曲『猛烈宇宙交響曲・第七楽章「無限の愛」」と「行くぜっ!怪盗少女」をギター演奏した。

    2012年8月22日、Linked Horizonの1枚目のシングル「ルクセンダルク小紀行」に参加する。また、11月25日にはLinked Horizonも参加した「Revo Linked BRAVELY DEFAULT Concert」にも参加した。

    2013年1月2日、前年12月に結婚(再婚)していたことが報道された。妻は9歳下で日本人のチェロ奏者奥田日和。2009年の『題名のない音楽会』出演時に共演した際に知り合ったと報道されている。

    2014年1月4日、東京ドームで行われた新日本プロレスの興行WRESTLE KINGDOM VIIIのメインマッチ・IWGPインターコンチネンタル選手権試合の挑戦者・棚橋弘至の入場時にスペシャルゲストとして登場。棚橋の入場曲「HIGH ENERGY」を生演奏するというパフォーマンスを見せた。

    2015年8月29日、さいたまスーパーアリーナで行われた「Animelo Summer Live 2015 -THE GATE-」にて声優ユニット・七森中☆ごらく部とコラボ出演。「ゆりゆららららゆるゆりデス事件」を生演奏した。

    2016年11月、文化庁より「日本遺産大使」に任命された。2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向け、日本文化の魅力を国内外に広く発信するPR活動を行う。2018年5月、日本遺産のテーマソング「JAPAN HERITAGE OFFICIAL THEME SONG」を制作。音源がYouTubeで公開された。この曲はマーティが日本遺産大使である関連で日本政府より依頼されたもので、東京フィルハーモニー交響楽団とのコラボレーション曲となっている。

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