2 thoughts on “慈円

  1. shinichi Post author

    〈狭さ〉の美学
    草庵・茶室・赤ちょうちん
    フィギュール彩 87

    by 近藤祐

    第二章 茶室という小宇宙

    。。。

     もっとも信長を継いだ秀吉の時代において、利休は否応もなく、その権力や権威に吸収されていく。それは少なくとも「かたち」においては、「影にあって目立たない褻の姿を目指す」ことからも、「色彩的な感覚を超えたものの美の追求」からも遠い世界であった。秀吉は権力掌握の手段として、信長と同じく、あるいはそれ以上に茶の湯を利用し、また自身も茶の湯に没頭する。収集した名品を惜しみなく大名たちにひけらかし、一般大衆も参加させた大規模な茶会を催す。柱や梁に金箔を貼り、道具も茶筅と茶巾以外はすべて金製品という「黄金の茶室」までも作らせている。そのような秀吉に、利休はどのような思いで仕えたのか。

      慈鎮和尚御歌
      けがさじとおもふ御法のともすれば世わたるはしと成るぞかなしき
      右この歌を宗易老、常に口吟みにて候。世上、末の世になり、宗易を始め我等式まで
      茶湯を見過ぎに仕る事、口惜しき次第なり。

     これもまた『山上宗二記』の一節であり、禅の実践であり修行の道であるはずの茶の湯を、世を渡る「生業」としなければならない悔しさが、『愚管抄』の作者、慈円の歌に託される。そのような利休の煩悶を書き留める宗二自身、利休自害の十一カ月前、秀吉の怒りに触れ、耳鼻をそがれ刑死する。

    。。。

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  2. shinichi Post author

    慈円

    https://ja.wikipedia.org/wiki/慈円

    慈円(1155年-1225年)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されている。
    父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。

    **

    幼いときに青蓮院に入寺し、仁安2年(1167年)天台座主・明雲について受戒。治承2年(1178年)に法性寺座主に任ぜられ、養和2年(1182年)に覚快法親王の没後に空席になっていた青蓮院を継いだ(なお、覚快は生前に別の人物に譲る意向があったが、慈円の兄である九条兼実が慈円に譲らせようと圧迫したと伝えられている。また、行玄から覚快への継承に異論を抱いていた実寛も慈円への継承に反対したため、覚快・実寛両者が没するまで継承できなかったという)。

    建久3年(1192年)、38歳で天台座主になる。その後、慈円の天台座主就任は4度に及んだ。『徒然草』には、一芸ある者なら身分の低い者でも召しかかえてかわいがったとある。

    天台座主として法会や伽藍の整備のほか、政治的には兄・兼実の孫・九条道家の後見人を務めるとともに、道家の子・藤原頼経が将軍として鎌倉に下向することに期待を寄せるなど、公武の協調を理想とした。後鳥羽上皇の挙兵の動きには西園寺公経とともに反対し、『愚管抄』もそれを諌めるために書かれたとされる。だが、承久の乱によって後鳥羽上皇の配流とともに兼実の曾孫である仲恭天皇(道家の甥)が廃位されたことに衝撃を受け、鎌倉幕府を非難して仲恭帝復位を願う願文を納めている。 また、『門葉記』に採録された覚源(藤原定家の子)の日記には、没後に慈円が四条天皇を祟り殺したとする噂を記載している。

    また、当時異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方で、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護してもいる。なお、親鸞は治承5年(1181年)9歳の時に慈円について得度を受けている。

    歌人としても有名で家集に『拾玉集』があり、『千載和歌集』などに名が採り上げられている。『沙石集』巻五によると、慈円が西行に天台の真言を伝授してほしいと申し出たとき、西行は和歌の心得がなければ真言も得られないと答えた。そこで慈円は和歌を稽古してから再度伝授を願い出たという。また、『井蛙抄』に残る逸話に、藤原為家に出家を思いとどまらせて藤原俊成・藤原定家の跡をますます興させるようにしたという。『小倉百人一首』では、
    おほけなく うきよのたみに おほふかな わがたつそまに すみぞめのそで
    の歌で知られる。 越天楽今様の作詞者でもある。

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