フォーディズムは労働者自身が中産階級化し、消費を拡大することで、フォードT型車のオーナーになることで、工業生産をさらに拡大する=近代化向上スパイラルを維持するもの。
そうした構図がポスト・フォーデイズムでは一変します。完全なマニュアル世界となり、熟練工さえ必要としない、流動的な非正規雇用者のみを必要とする世界に突入する。つまり、相互に愛もなく、機械の部品のように取り換え可能、いわば記号化された労働者たち。
こうなるとフォーディズム時代、家計維持者であった成人男性の大半が非正規雇用者と化し、若い者の中には親に依存せざるをえない(=パラサイト・シングル化)、さらに親が死ねば、完全なワーキングプアになってしまうというわけです。
それではワーキングプアの方々をセーフティ・ネットで救えばよいのか、といえば、実は、社会全体が変化している。そのセーフティ・ネット自体がフォーディズムを前提しているのですから。
フォーディズムvs.ポスト・フォーディズム:自分が生きている時代を生き抜くためには“真の教養”を!
by 高畑由起夫
http://kg-sps.jp/blogs/takahata/2012/07/06/8295/
さて、以前にライト兄弟とフォード(ヘンリー・フォード1世)を取り上げ、ベンチャービジネスにおける発明者、創業者、そして企業化について触れましたが(「ライト兄弟とフォード:ベンチャービジネスにおける発明者、創業者、そして企業」2010年1月31日投稿)、今回はあらためてフォーディズム(=フォード社的生産体制)ならびにポスト・フォーディズムについて紹介したいと思います。
ちょっと前の記事になりましたが、『朝日新聞』の2010年2月22日の「論壇時評」に東大教授で社会経済学者の松原隆一郎氏が、“象徴的貧困 消費社会が変容させた「私」”というタイトルで、評論を書いています。
内容は、2010年度の卒業生の内定率が1996年以降最低になったことを踏まえて、「若者たち(=あなた方)」の「生き方」がいやおうなしに変わりつるある、ということです。
いまさら当たり前と思うでしょうが、松原氏の議論は、そうした背景にフォーディズムからポスト・フォーディズムへの変換があること、そして日本の社会全体がポスト・フォーディズムに対応していない、というのが骨子です。
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それでは、ポスト・フォーディズム社会とは何か? 松原は「パラサイト・シングル」や「婚活」等の流行語でも知られ、東京学芸大から中央大学に移った社会学者の山田昌弘の議論を引用して、工業化社会(=フォーディズム)では、(チャップリンの『モダン・タイムス』に皮肉られたとは言え)工場労働者にもそれなりの熟練が求められていたと指摘しています。そして、彼等はその“熟練ぶり”に誇りをもち、かつ企業もその熟練度を評価して、会社に長くひきとめようとした(=この究極の流れが、日本資本主義における終身雇用・年功賃金制につながることになります)。
たしかに、S・ターケルの労作『仕事!』(!』(#68;「あなたにとって、“仕事”とは何か? 陰陽師から漱石、そしてトム・ソーヤーからフランクリンまで;高畑ゼミの100冊Part 13-とくに卒業生の皆様へ」2010年3/18 投稿で既出)では、アメリカの労働者たちは、それぞれ己の職業にある種の誇りを持っています(製鋼労働者、スポット溶接工、補てん工、監督長、工場長等)。
しかし、もちろん、その言葉に疲れと苦味がまじらないはずはありません。以下は、彼らの口から漏れ出る“疲れ”です。
そういえば、クリント・イーストウッド監督の『グラン・トリノ』(映画番号#29)では、イーストウッド扮する主人公コワルスキーは、フォードの自動車工を50年勤めあげたポーランド系米国人として、年金生活にはいるも愛妻に先だたれ、子供や孫からも煙たがられ、英語も満足に通じかねないモン(ミャオ)の人たちに囲まれ、かつての朝鮮戦争での戦争体験に苦しみ、愛車グラン・トリノのみを誇っているという設定だったのを思いだします。
彼ら工員をそれなりに(=自分の流儀、すなわちパターナリズム[家父長]的に)慈愛をほどこそうとしたフォードは、「薪を自分で割れ!そうすれば、2倍暖まる」という有名なセリフとともに、工員に「8時間労働や1日あたり5ドルの賃金という厚遇」を与えました。アメリカ資本主義の理想から言えば、資本家と労働者の幸福な契約であり、工員たちが自らが作った製品=自動車を手に入れることができる(まさに、“グラン・トリノ”)、これがフォーディズムの一側面です。
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つまり、フォーディズムは労働者自身が中産階級化し、消費を拡大することで、フォードT型車のオーナーになることで、工業生産をさらに拡大する=近代化向上スパイラルを維持するものであり(ヘンリー・フォードのある種の偉大さがわかります)、そのシステム自体が崩壊しつつあるわけです。
そうした構図がスト・フォーデイズムでは一変します。完全なマニュアル世界となり、熟練工さえ必要としない、流動的な非正規雇用者のみを必要とする世界に突入する。つまり、相互に愛もなく、機械の部品のように取り換え可能、いわば記号化された労働者たち。これが松原の議論の骨子です。
こうなるとフォーディズム時代、家計維持者であった成人男性の大半が非正規雇用者と化し、若い者の中には親に依存せざるをえない(=パラサイト・シングル化)、さらに親が死ねば、完全なワーキングプアになってしまうというわけです。
それではワーキングプアの方々をセーフティ・ネットで救えばよいのか、といえば、実は、社会全体が変化している。そのセーフティ・ネット自体がフォーディズムを前提しているのですから。資本主義は、フォーディズムの展開にそって、緩やかなインフレーションをたどりながら、万民に幸福感をあたえてきた(かもしれません)が、それが過去の夢になりつつある=セーフティ・ネットの維持さえも難しくなる。
これは、皆さん方にとっても大変な事態かもしれません。つまり、これまでの社会が存在しえなくなるかもしれないのです。
その際に、皆さんが“浮遊”しないためにも、やはり、在学中にそれなりにお勉強しなければいけません。
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松原は内田樹の議論を引いて、オトナを磨くコミュニケーションの場、「互恵的・互助的共同体」の再興を唱えています(鎌田先生、細見先生のお仕事に繋がるかもしれません)。
かつて、そうした共同体は終身雇用制や集団主義として会社と一体化していた=社内運動会や社内旅行こそ、その象徴でしたが(=いわゆる社縁)、それが会社外でも実現可能かどうかこそ、「自らの幸福」を実感させるための大きな課題として議論を結んでいます。
しかし、それでは、現実の皆さん方はどうすればよいのか、真の「経世済民(「経済」の語源)」を実現するには、私からすると、松原のこの結論は目方がちょっと軽そうです。
私から皆さんに何かアドバイスをするとすれば、以下のようなごく当たり前=素朴なものかもしれません。
(1)真の教養を身につける事=ジェネラリストとしての価値を高める。それはどこでも応用可能なスキルです。それにはリサーチ・アナリシス・プレゼンテーション・レポートのテクニックですが、当然、基礎演習で身につけるものです。
(2)真の教養を身につける事2=まずは、統計・解析の技術です(上記のアナリシスに該当)。これはジェネラリストとしての価値を圧倒的に高めます。そして、キリスト教学から始まる異文化の理解です(いまさら、グローバル社会以前に戻れません)。
(3)最後は、自分の得意とする分野を見つける事=ジェネラリストにちょっとしたプラスを=プチ・スペシャリストへ(もちろん、とことんやってスペシャリストになれたら、その方が良いに越したことはありません)。