多くの患者と日々接する毎日である。その一人ひとりの患者を、病名ではなく、別の角度で書き直せば、もともと元気であったり、放っておいても勝手によくなったり、薬を飲んでも飲まなくても日々の生活に大きな変わりがながったり、一方で良くなる可能性が小さかったり、どうやっても死んでしまう、という人たちである。私が何か医療を提供すれば良くなる、という人たちは少ない。
ワクチンによる予防接種の効果は社会全体としては大きいが、個々のレベルではもともと元気な人が元気で居続けるだけのことだ。かぜを疑う患者の診療も、かぜに似た重症の病気を見逃さないようにするという点では大きな仕事だが、大部分は医療機関に来る必要もない人である。
高血圧や高コレステロール、糖尿病の患者も大部分は元気である。もちろんその治療により、将来の合併症が幾分少なくなっているという面はある。しかし、これも健診や予防接種と同様、元気な人が元気なままということだ。今の時点で元気な人に、放っておくと病気になってしまいますよと、定かではない未来の不幸の可能性を強調して、脅かしをかけているだけかもしれない。
いずれくる死にそなえない
by 名郷直樹
はじめに
1章 健康欲望から死の不安へ
2章 死について―まず電車の話で
3章 死について―死を待つものたち
4章 医療は高齢者に何を提供しているか―加齢と健康、そして死
5章 「寝たきり欲望支援」から「安楽寝たきり」へ
6章 死を避けない社会
終章 死をことほぐ社会
どこまでも健康、どこまでも長寿を重視するのは無力というより不可能である。ある時期に限って実現できるに過ぎない。どこまでもというのは不可能だ。死を避けることはできない。死を避けるのは不可能だが、避けなければ少なくとも無力ではない。死んでいく中で、何かできることがあるはずだ。自分自身の無力感も、人が死んでしまうから無力なのではなく、死ぬことを避けようとするから無力なのである。