尾藤誠司

「死」は、すべての人にやってくるにもかかわらず、厄災として現代社会においては取り扱われています。そして、「死」に向かうプロセス(かどうかは疑わしいのですが)としての「病気」「老い」「ボケること」「寝たきり」は、「死=厄災」のイメージと直結して人々の認識に植わっていきます。それは、「万人が避けようとする意志を持つ義務がある」かのように認識されているのが現代社会です。仏教でいう「生病老死」は、もともと「現生において避けることができない経験」と位置付けられていますが、その4つの中で「生」のみを切り取って「享受すべき素晴らしいもの」「前向きに上り続けるべきもの」とし、「病老死」を「避けられないが、“生”を豊かにするために避ける努力をすべきもの」と位置付けて、人々の意識と感情を誘導するビジネスが「医療」です。

One thought on “尾藤誠司

  1. shinichi Post author

    「大きな物語」に巻き取られずに生きていく(あるいは、死んでいく)こと 
    ――名郷直樹「いずれくる死にそなえない」感想文――

    by 尾藤誠司

    https://note.com/bitoseiji/n/nbb1480fa0ca9

    長年の盟友である名郷直樹さんが新しい一般向け書籍をドロップしました。「いずれくる死にそなえない」というタイトルです。まず、タイトルが最高です。今までの名郷さんの本のタイトルにあった「健康第一は間違っている」とか「検診・薬はやめるに限る」とかの言葉は、メジャーメッセージに対するわかりやすいカウンターであるためにかえってそれが名郷さんの思弁をわりにくくさせていた、という印象があります。今回のタイトルは、湧き立つ何かしらの強い欲望が整理されないまま、ぐしゃっとした形で言語化されているところが、名郷さんの頭の中と直接結びついている感じがありそれがとても分かりやすいのです。

     もう一つ、このタイトルは本書でもあり名郷さんがこの20年くらいずっと考え続けてきたことを実にエッセンシャルに伝えている言葉です。本レビューは、その解説文と思って読んでください。本の内容の細かいところには言及しないので、あまりネタバレはないと思います。

     感想文を書き始める前に、少し名郷さんと私の履歴について触れます。おそらく出会いは1999年ころで、Evidence Based Medicine (EBM) が日本の医療界に紹介され始めていたころにどこかで彼のプレゼンを聞いて、「ぶははは!この人ヤベエ!」と感服し声をかけなきがします。その後お互いを「気●い」とののしり合いながらも

     2001年― JIMでの「患者の論理、医者の論理」連載 ➡ その後「医師アタマ」に

     2011年― 「もはやヒポクラテスではいられない」21世紀医師宣言プロジェクト

     2016年― 「内省と対話によって変容する自己」 ➡ その後「うまから」に

     という、尾藤のアカデミックキャリアの中心的な仕事では常にコアメンバーとして絡んでもらっていました。なによりも、名郷さんの持っている問題意識に共鳴したことと、彼が常に「なんだかわけのわからない」という混乱を抱えながら物事に向かう姿勢を尊敬していたからです(彼の口癖は「なんだかわけのわからない」です)。

     その問題意識を一言でいうなら「イケていない現代医療を脱皮させたい」というようなモチベーションだった気がします。現代の医療(主に診療を指します)が持っている「大きな物語」の支柱である「元気で長生きこそがよいことである」とか、「まともでないよりも、まともである方がよいことである」とか、「人は、自立的であり自律的であるべきである」というような価値は、サイエンスという後ろだてによって、「ドミナント価値」として君臨しています。これらのような価値に対して。医療は「Problem Solving」という方法論を用いてアプローチしていくわけですが、この方法論と医療のゴール設定との相性は実に良好で、少なくともここ100年くらいはこの「ゴール設定+problem solvingの方法論」の組み合わせで医療は世界のメジャーな舞台で羽振りを効かせてきました。そして、医療的視座によってつくられる物語は、多くの場合「大きな物語」として関係性の中で位置づけられるようになりました。

     名郷さんと私が感じ続けている違和感と「脱皮」の対象は、以上の様な経緯の中で存在している「大きな物語」なのだと私は理解しています。そして、興味深いこととしては、名郷さんも私も、医療が持つこの特性にアプローチするようになったお里が「臨床疫学」とか「EBM」などのような、極めて客観性の高い医学の視座であったということです。

     私が臨床疫学について勉強をし始め、いわゆる「クリニカル・エビデンス」と呼ばれる文献情報などについて親しくなっていったとき、強烈に感じたことは「データと情報と理解と認識と価値はそれぞれ常に並列に立ち現れる。そしてそれらはそれぞれ尊重されるべきものである。しかし、それらは医療の世界において実に乱暴に扱われている」ということでした。特に私は「データ」から「情報」が生成される現場を実にたくさん経験したので、「データ」と「情報」がさも同じものとして取り扱われている医療の現場に対して何らかのメッセージを残したい、というモチベーションから始まり、その延長で「価値」や「文脈」に対する興味がわいてきた気がしています。名郷さんと直接話していると、やはり「そっちが入り口だったのね!」という感覚が自分の履歴とシンクロし、実に心地よい気分になることがしばしばありました。すなわち、「データ」そして「情報」の視座から患者と専門家で話し合われている(実際には患者が専門家のモノローグを一方的に浴びている)やりとりを観察したとき、本当は「どっちでもいい」ことが「どっちでもよくない」ことになってしまっているという認識のシンクロです。

     「いずれくる死にそなえない」という言葉は、医療の本質的な価値に立ち向かっているメッセージです。なぜなら、医療の本質的価値の一つが「近い、あるいは遠い未来にいずれくる厄災にそなえる」ことだからです。「一部」としたのは、例えば症状緩和であるとか、リハビリテーション医療の一部とかについてはその価値からやや距離をとっているような気がします。ただ、診察室で医師がクライアントに対して行っている介入の多くが「いずれくる厄災にそなえる」ための術に関するものだと私は思っています。その意味で「いずれくる死にそなえない」という言葉は、右辺に対する左辺からの投擲として実に明確に私に響きました。

     「死」は、すべての人にやってくるにもかかわらず、厄災として現代社会においては取り扱われています。そして、「死」に向かうプロセス(かどうかは疑わしいのですが)としての「病気」「老い」「ボケること」「寝たきり」は、「死=厄災」のイメージと直結して人々の認識に植わっていきます。それは、「万人が避けようとする意志を持つ義務がある」かのように認識されているのが現代社会です。仏教でいう「生病老死」は、もともと「現生において避けることができない経験」と位置付けられていますが、その4つの中で「生」のみを切り取って「享受すべき素晴らしいもの」「前向きに上り続けるべきもの」とし、「病老死」を「避けられないが、“生”を豊かにするために避ける努力をすべきもの」と位置付けて、人々の意識と感情を誘導するビジネスが「医療」です。その認識を社会に広く普及させるためのキャンペーンは大きな成功を収めましたし、その考え方については私自身も基本的には賛成です。まあ、賛成していなければそもそも医師にはならなかったでしょうし続けてもいなかったでしょう。

     ただ、「いずれくる厄災にそなえる」ために、人生の多くのエフォート率を消費するという生き方を推し進めていくようなアプローチは、人の人生に対する副作用が結構大きいと私は思っています。そこに充てる人生の負担を全くなくした方がいいとは私も思いませんし、私自身が「そなえる」恐怖心を持ちがちな性格なので、ついついそなえてしまいます。「いずれくる」と「厄災回避」を「ロジック」という魔法で料理すると、人生における「If/Then」構文が生まれます。「将来○○のようになりたくなければ、私のオーダーに従うこと」ということです。プログラミングで頻繁に使用される「If/Then」は、人生においては人の意識を客観に染め上げるための強力な呪文なのです。

    そんな時に「厄災=病老死」と「生」に差はないことを少しでも実感できれば、医療に代表される「大きな物語」に自分の人生が巻き取られてしまうことから少しは自由になれる気がします。そして、やはり「どっちでもいい」ことが尊重されることが、「大きな物語」に寄り添われてしまう状況においては大切にしたいことです。名郷さんが言い続けている「どっちでもいい」というメッセージは、全く投げやりなものではなく、むしろ強い責任とやさしさを感じさせるものです。

    一方、基本的には実に共鳴できるこの本の中でも、もちろん「この点は自分と考え方が違う」という部分は存在します。いくつかあるのですが、その中で一つ取り上げるなら「安楽」に対する考えかもしれません。名郷さんは、本書で「元気で長生きのために頑張る」という価値のカウンターとして「安楽」というコンセプトを提示していると私は理解しました。ただ、カウンターとしてのコンセプトもまたそれはそれで「まきとり」のシステムの中から生まれるものだという気がします。私自身は「安楽」であることはとても良いことだとは思うのですが、一方で「苦痛を感じ続けていること」や「じたばたしていること」も「安楽」と同じくらい人生において大切なものだと思っています。これは、最近私が澁澤龍彦に再度触れて影響を受けているからかもしれません。いずれにしろ「OOであることは善いことだ」という規範を必ずしも受け入れなくても(どっちでも)よい、ということなのだと思っています。私自身はなんらか「じたばた」しながら死ぬのではないかと思っている(ちなみに、この「じたばた」は「死にたくない」ことを欲望する「じたばた」とは遠いところにあるでしょう)のですが、それはそれでいい死に方のような気がしています。たぶん、私が常々考えている違和感の中に「安楽であることは善いことである」という価値観もまた、医学の「大きな物語」によって支えられている価値観なのかもしれない、という疑問があるからかもしれません。その意味では「じたばた寝たきり」が欲望されてもよいのだと思います。

    献本メッセージの中に「本書は私の集大成的な本である」という言葉があり、まさにそうだと思いました。一方で、本書は「現時点での」名郷さんの集大成的な思弁であるとも思いました。何故なら、この、らせんのように、さらには不安定なスピード感をもってぐるぐると展開するこの文章を読み終わったときに私に飛び込んできた言葉は「To be Continued」だったからです。ということで、これからも彼と一緒にぐるぐるしていきたいです。本書の後半で出てくる「インフォームド・コンセントは一種のカツアゲである」とか「“決める”と“決まる”」とかについては、名郷さんと中動態文脈でよく盛り上がっていたアジェンダです。この辺りは、別途私もどこかで自分なりにテキスト化したいと考えています。本書のアンサーソング的な一般向け書物を私が書くとしたら「体調不良であたりまえ」というタイトルですね。

    最後にやや細かい話になりますが、本書の「やがてくる死にそなえない」というメッセージが、最近重要視されているAdvance Care Planningのコンセプトと相反するのではないか?という問いを立ててしまい。本書の内容を受け入れがたいものとしてとらえる医療者がいるかもしれないので、そこに対する私の考えを記します。そんなことはないです。2つ理由があります。1つは、もうこれは本書のメッセージそのものですが、そなえても、そなえなくても「どっちでもいい」のです。人生は「あれか これか」ではなく「あれも これも」です。なので、「そなえる人」か「そなえない人」のどちらかである必要などないのです。もう一つは、最近E-FIELD研修でも結構強調されているところなのですが、ACPは「他人が本人の考えを推定する」ことが目的なのです。なので、本人にとってそれは「今」のみであってもいいのです。やはり「そなえる」ことと、意識が「If/Then」化されることがくっつきすぎているとなんだか残念なことになってしまう、ということだと私は解釈しています。

    では、いずれくる「体調不良であたりまえ」のテキストのドロップにもご期待ください。

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