アントニー・ビーヴァー

 1939年夏のノモンハン事件は、ユーラシア大陸の東と西とを最初に結びつけた戦いです。その後も、欧州の戦争と太平洋の戦争に絶大な影響を及ぼしました。そういった点から、第2次世界大戦の冒頭に位置づけるべき出来事だと言えます。
 ノモンハン事件は、規模としては主要な戦いとは言えません。しかしその影響は絶大でした。日本の大本営にシベリア方面を攻撃する【北進政策】をあきらめさせ、主に海軍が主張する石油の供給を狙った【南進政策】へとかじを切らせる主要因となることで、欧州戦線の分岐点となった独ソ戦の行方も左右したからです。それが、ノモンハン事件から書き始めることが重要と考える理由です。
 ノモンハンで日本軍が受けた打撃は、日本に南進への傾斜という作用を及ぼしました。つまり大陸にいた日本軍はソ連の極東地区を攻撃しないということです。一方、スターリンはヒトラーの軍勢がモスクワに迫ってきている41年秋、その確証を欲したのです。それを知らせたスパイ、リヒャルト・ゾルゲらの情報によって、スターリンは41年10月からの【モスクワ攻防戦】で、ドイツに反撃するためにシベリアの師団を大量に西進させる判断が可能となりました。
 日ソ中立条約を結んでいたとはいえ、スターリンには日本が攻めてこないという確たる保証が必要でした。それ故、ゾルゲが送った情報は重要と考えられます。ただ、スターリンはゾルゲを完全には信用しておらず、日本軍の通信を傍受して得られる情報をより、信頼していました。

4 thoughts on “アントニー・ビーヴァー

  1. shinichi Post author

    「食糧を与えられないのに戦い強要」 大本営参謀の犯罪

    アントニー・ビーヴァー

    https://www.asahi.com/articles/ASN7W3J28N3SPLZU006.html

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    The Second World War

    by Antony Beevor

    Over the past two decades, Antony Beevor has established himself as one of the world’s premier historians of WWII. His multi-award winning books have included Stalingrad and The Fall of Berlin 1945. Now, in his newest and most ambitious book, he turns his focus to one of the bloodiest and most tragic events of the twentieth century, the Second World War.

    In this searing narrative that takes us from Hitler’s invasion of Poland on September 1st, 1939 to V-J day on August 14, 1945 and the war’s aftermath, Beevor describes the conflict and its global reach — one that included every major power. The result is a dramatic and breathtaking single-volume history that provides a remarkably intimate account of the war that, more than any other, still commands attention and an audience.

    Thrillingly written and brilliantly researched, Beevor’s grand and provocative account is destined to become the definitive work on this complex, tragic, and endlessly fascinating period in world history, and confirms once more that he is a military historian of the first rank.

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  2. shinichi Post author

    ノモンハン事件

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/ノモンハン事件

    ノモンハン事件は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線を巡って発生した紛争のこと。1930年代に、満州国と協力関係にあった日本(大日本帝国)と、満州国と国境を接し、モンゴルと協力関係にあったソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)の一つ。満州国軍とモンゴル人民軍(英語版)の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍とソビエト赤軍が戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争の中でも最大規模の軍事衝突となった。

    事件の影響

    日本

    ノモンハン事件の停戦後も、小規模な紛争は引き続き起きたものの、大規模な戦闘は生じなくなった。ノモンハン事件末期の1939年9月に第二次世界大戦が始まっている状況で、日ソの外交交渉が行われた。1941年4月に日ソ中立条約が成立し、相互不可侵と、モンゴル人民共和国および満州国の領土保全が定められ、一連の日ソ国境紛争は終結。日本とソ連はモンゴル人民共和国と満州国を相互に実質的に承認した。

    日本軍首脳部は、ノモンハン事件での大敗で、ソ連の実力を侮りがたいものとして評価した。これにより、ソ連を仮想敵とする北進論は鳴りを潜め、アメリカ・イギリスとの対決を覚悟して南方に進出すべきとする南進論に力を与えることとなった。しかし、1941年6月22日に独ソ戦が開始されると、日本もソ連との開戦を準備すべきという方針に再び転換し、特に日独伊三国同盟を主導した松岡洋右外務大臣が熱心に対ソ即時開戦・南進中止論を主張している。ただし、赤軍の実力を思い知らされた陸軍は対ソ開戦には慎重な態度を崩さず、開戦の条件は「極東ソ連軍の総合戦力半減」が前提であった。陸軍参謀本部は、6月26日に対ソ開戦に伴う準備を「関東軍特種演習(関特演)」と呼称することに決めた。しかし、陸軍の意見は決して統一はされておらず、同じドイツと呼応する目的でも、ソ連を攻撃するのではなく、早急にイギリスを攻撃し、東南アジアの拠点であるシンガポールを攻略すべしとする駐ドイツ大使の大島や、親独の陸軍高官らの南進主張もあって、方針は容易には決まらなかった。そのため動員規模も、田中新一参謀本部第一部長が最大75万人という大規模な対ソ戦開戦準備を主唱したのに対し、武藤章陸軍省軍務局長以下の陸軍省側は、財政力を勘案して小規模な17万人に押さえるべきだと反対している。

    陸軍内での対ソ開戦の北進論派と、イギリスやオランダの植民地攻略の南進派の意見統一はできず、7月2日の御前会議で南北併進を明記した「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」が決定された。日中戦争の処理に邁進しつつ南方に進出し「情勢の推移に応し北方問題を解決」するとしたこの要綱により、ひとまず関特演が裁可されたため、関東軍12個師団と朝鮮軍2個師団の14個師団を基幹とし、日本本土の2個師団を加えた計16個師団が動員されて、各師団を戦時定員(2倍)とし、2個飛行集団合計1,100機の航空機も派遣された。正確な総兵力は定かではないが、関東軍と朝鮮軍の14個師団だけで50万人に達した。その内容は「在満兵力は16個師団と25個師団に応ずる軍直部隊とそれに対する約7割の兵站部隊から成り国軍編成としては優良装備のきわめて充実したもの」であったという。しかし、極東の赤軍は日本軍の侵攻に備えて、半減どころか逆に増強されていた。関東軍は調査の結果、ソ連軍の兵力は86万人、戦車1,700輌、航空機2,800機(欧路輸送は550機)と判定したが、実際はもっと戦力は大きかった。8月9日には早くも「年内対ソ武力行使の企図」を断念し、その後は日米交渉の悪化もあって、日本は対英米戦争に突き進んでいくこととなった。

    ソビエト

    ノモンハン事件は日本に対する警戒心をより深める結果となった。ノモンハン事件後もシベリア、ザバイカルのソ連軍は順次増強されて、1941年7月1日時点でのソ連軍、極東戦線とザバイカル軍管区の兵力は、狙撃兵師団23個、騎兵師団1個、戦車師団5個、自動車化狙撃兵師団3個、航空師団13個、狙撃兵旅団3個、空挺旅団1個、装甲車旅団1個、航空旅団2個、防空旅団1個、オートバイ連隊1個、砲兵連隊22個、航空連隊8個、工兵連隊3個、舟橋架設連隊8個で総兵力723,119名、戦車4,638輌、砲14,062門、自動車60,091台、トラクター11,968台、航空機4,777機という莫大な戦力だった。これらの大部隊は、ドイツ軍がソ連領内に突如侵攻し、全面戦争となってからも終戦まで動かされることはなかった。独ソ開戦の機運が高まるとジューコフの求めにスターリンがやむなくウラル軍管区、ザバイカル軍管区から戦車8個旅団と、狙撃兵15個師団、騎兵3個師団の転用を許可し、スモレンスク防衛戦やモスクワ防衛戦に参加している。開戦前の1941年4月26日から5月10日の間に極東、シベリア、ザバイカルの各軍管区から抽出された兵力が欧州への移動を完了した。

    ジューコフは極東や内陸部から移送された狙撃師団群のほとんどを、反撃攻勢用の“トラの子”の精鋭部隊として温存しており、モスクワ防衛戦に参加した師団は少なく、参加しても第44モンゴル騎兵師団のように騎兵突撃を行って短期間で壊滅した部隊もあった。また、ノモンハンで戦った第36自動車化狙撃師団、第57狙撃師団のようにモスクワに移動せずそのまま1945年までモンゴルに駐留する第17軍に属して極東に留まり、1945年8月の満州侵攻に参加した部隊もあって、モスクワ防衛戦で決定的な働きをしたのは極東からの援軍ではなく、スターリンの投じたモスクワ戦区の戦略予備軍(第1打撃軍、第20軍)だった。

    ジューコフはモスクワへの攻撃でドイツ軍は疲弊しているが、陣地を構築して防衛態勢はとらないと判断すると、今までのモスクワ防衛戦で戦闘に熟練した部隊と共に、“トラの子”の40万人の将兵、1,000輌の戦車、1000機の航空機を反撃に投入し、ドイツ軍中央軍集団に大打撃を与えてモスクワへの脅威を取り除くことに成功した。極東から来た部隊の活躍は目覚ましく、ジューコフは後に「モンゴルで戦った部隊が、1941年にモスクワ地区に移動し、ドイツ軍と戦い、いかなる言葉をもってしても称賛しきれぬほど奮戦したことは、決して偶然ではなかったのである」と回想している。一方でモスクワ攻勢に参加した極東部隊は全軍の5%に過ぎず勝敗を左右する要因にはならなかったとも証言している。

    ジューコフは、「日本軍精鋭部隊に前代未聞の敗北」をもたらせた8月の攻勢作戦が「日本の支配階級を酔いから醒めさせたもの」と確信していたが、極東総軍作戦部長A・K・カザコフチェフ少将が「もし日本がヒトラー側について参戦したならば、われわれとしてはどうにもならなくなる」と述べていたように、ソ連国土深く侵入してきたドイツ軍に呼応し、日本軍が北方シベリアに侵攻してくる懸念をソ連側は払拭することができなかった。そのため、東部戦線で赤軍が反撃に転じてさらに戦闘が激化した後も、極東の部隊は日ソ中立条約が成立しているにも関わらず、弱体化するどころか逆に強化され、総兵力は1,568,000名にも達した。これは赤軍総員の3割弱に当たり、これらの戦力を前線に投入できていたら、ドイツ軍をもっと速やかに打ち負かして戦争の終結を早めることができたという主張もある。

    ソ連は独ソ戦に力を注いだ結果、紛争の発生件数は1940年の151件から、1941年には98件に減り、1942年には58件まで減った。満州国境の安定は、独ソ戦が峠を越し、太平洋戦争で日本の戦況が悪化した1943年秋頃まで続いた。その後、再び紛争は増加し始め、1944年後半には五家子事件、虎頭事件、光風島事件、モンゴシリ事件などの小規模な国境紛争が起きた。関東軍の兵力の多くを南方や日本本土防衛に転用してしまっていた日本軍側は、ソ連を刺激しないよう紛争を回避する方針を採っていたままだった。一方で、ドイツの敗北が濃厚になると、ソ連は極東に目を向け始め、1943年11月のテヘラン会談でドイツ降伏後のソ連対日参戦を表明。1945年2月のヤルタ会談では、関東軍を過大評価して、満州と中国大陸の日本軍を撃破し日本を屈服させるためにはソ連の対日参戦が是非とも必要と考えていたフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領に対し、スターリンがいわゆる「ヤルタの密約」で極東地域での権益拡大を約束させて対日参戦を了承している。了承する際にスターリンは、ルーズベルトと同席していたW・アヴェレル・ハリマン在ソ連アメリカ特命全権大使に対し「もしこれらの条件(極東での権益拡大)が満たされない場合には、私やモロトフが、ソ連人民に対して、どうしてソ連は大してトラブルのない国日本に対し参戦するのか説明するのが困難になりましょう」と言って脅迫したように、対日参戦を狡猾に政治利用している。最終的には、5月にドイツが降伏した後、8月にさらに戦力を強化していた極東の赤軍が、日ソ中立条約を一方的に破棄して進撃を開始し、弱体化していた関東軍はなす術もなく潰走、満州全土がソ連に占領された。

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  3. shinichi Post author

    日本が第二次世界大戦に参戦した理由はなんですか?なぜあんなに惨敗するまで止められなかったのですか?

    Quora

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    井上 政典

    https://jp.quora.com/日本が第二次世界大戦に参戦した理由はなんですか-

    エネルギー(石油)を止められたからです。とても乱暴な言い方ですが、他の物資はなんとか色んなものや別の国からの輸入でしのげます。また我慢もできます。

    しかし、石油は国民経済の血液で、これを止められたら日本は国家として、国民を護れなくなります。そして外国の侵略に対抗できなくなるのです。

    もしエネルギーを止められなければ、いろんな懐柔策を示して戦争の回避に入っていたでしょう。

    その証拠に、12月8日に開戦した時に、各新聞が「暗雲が晴れた」「国民晴れ晴れ」などといままで政府の弱腰に批判を続けていた国民の感情を代弁しています。

    軍人は戦争が始まれば真っ先に死にます。そして戦争がどれだけ悲惨なものかを一番よく知っています。

    軍部が率先して戦争を始めるなどあり得ないのです。逆にそれほど日本は追い詰められていたと言っていいでしょう。

    なお、原子力発電所の大半が止められている現在、戦前と同じような状況になっても全く不思議ではありません。

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    堀 智雄

    僕は、今の所、下記の説を支持しています。

    日本はアメリカに勝てるわけがない、という認識で概ね一致していた。

    アメリカは、日本に対してアジア地域からの撤兵を求めていた。

    (欧米の植民地であるアジアを日本に独占されることを危惧した)

    色々交渉が決裂した結果、アメリカは日本に対して石油や鉄などの重要資源を禁輸とする経済制裁を科した。

    その頃、資源輸入をアメリカに頼っていた日本は、さらにアメリカと交渉を試みた。

    最終的にアメリカからのハルノートという最終通告的な提案により開戦に追い込まれた。

    (中国、インドシナからの日本軍の全面撤兵、ここがそれまでの軍の頑張りによる国力拡大を無に帰す、ということで最も受け入れがたいことかと)

    東條英機を首相にしたのも、開戦派でありながら、最も天皇を敬愛しており、天皇の非戦の意思に触れればそれを忠実に遂行するだろうし、軍部を抑えるのに適任とされたから。

    実際、天皇が非戦の意思を伝えると、「上意は和平にあらせられるぞ!」と触れ回り、開戦やむなし、という結果になった時には、「陛下に申し訳ない」と涙したという。

    にも関わらず、結果的に開戦したのはなぜか。

    すでに三国同盟を結び、ドイツがヨーロッパを抑えようとしていたことに加えて、ソ連との不可侵条約により、相手をアメリカに絞り込んでいた。

    アメリカには勝てないが、緒戦で打撃を与えれば、アメリカの国内世論に厭戦気分が広がり、早期講和に持ち込めると期待していた。

    実際、1941年12月の真珠湾攻撃以降、快進撃を続けてしまい、さらにアメリカからは国を挙げての怒りを買い、お互い講和どころではなくなる。

    各方面が快進撃すぎて、補給線が伸びきり、そもそも補給する資源にも乏しい中、1942年6月、ミッドウェイで主要な空母4隻や航空機300機を失って以降、制空権を抑えられ、各地でこの世の地獄のような悲惨な消耗戦を強いられることになる。

    1944年の2月ごろには、指導部で「この戦争は勝てない」というコンセンサスの元、終戦条件の受け入れ検討が行われていたらしい。

    1944年の7月には、サイパン陥落により本土空襲が現実化、本土空襲が始まれば戦争継続は不可能、ということで、サイパン陥落の責任を取る形で東條内閣は総辞職。

    結局、1944年の11月以降、東京は終戦まで106回の空襲を受け戦争継続など不可能な中、

    後継の小磯内閣は降伏条件の取りまとめと戦争からの離脱を目指し、1945年の5月に降伏案をアメリカに打診するも、国務省は「公式に受け取っていない」と、無視される。

    1945年7月のポツダム宣言(日本の無条件降伏を求める連合国側の要求)のために譲歩することを拒否したのではないだろうか。

    ポツダム宣言では、日本の国体(天皇陛下)の護持が保証されていないため、日本は受け入れを拒否。

    直後の8月に2回の原爆投下を受け、8月15日、玉音放送を持って敗戦を発表、9月2日にポツダム宣言を受諾、連合国側に全て委ねる形で終戦を迎える。

    と、いうように、日本人の立場からすると、いやいやリングに立たされ、ラッキーパンチで喜んだのもつかの間、全部あげますと言うまで、ダウンも許されずボコられた、という感じでしょうか。

    実際、東京への空襲や原爆投下は、戦争という枠組みを越えて大量虐殺に過ぎない、とも思いますが、当時のアメリカ人にとっても同胞の損失を抑えるという大義名分があったわけで、どうにもやり切れない気持ちになります。

    もちろん、開戦前には、対米戦のシミュレーションで何度やっても勝てないので、判定のパラメータをいじって勝てたことにする、みたいな子供じみたインチキもあったみたいですが、概ね自国の力に対しても、客観的に認識していたと思います。

    その後の連合国の占領政策、というか、ほぼアメリカのための日本改造計画により、現代日本の基礎が作られるわけですが、逆にアメリカ主体の太平洋戦争だったために、ソ連や中国など関連諸国による分割統治を避けられた、とも言えます。

    なぜ、戦争を始めて、なぜ、辞められなかったのか。

    今後の自分達のアイデンティティをどうして行くべきか、また行きたいと考えるのか、貴重な機会を得られる質問だと思います。

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    Ishimizu Tomohisa

    多くの回答者は、なぜ開戦したのかについて回答されていますので、私はなぜ惨敗するまで止められなかったかについて回答します。

    理由は一言、エスカレート・コミットメント。

    開戦時は、早期に講和を結ぶ案もあったが、軍部と国民が緒戦で刺激的な勝利を味わい、イケイケになってしまった。

    ミッドウェー海戦から風向きが変わり(逆風になり)、負け続ける流れの中で、興和のタイミングを失ってしまった。

    末期には、戦争に投入する資源(人員・機材・食料)のすべてが枯渇していたが、天皇陛下と軍最上層部では、講和へ進む為には「劇的な一勝」がどうしても必要と考えられ、現場へ無理な要求を強いたので、ますます悲惨な状況になった。

    結局、広島と長崎の原爆投下によって、劇的な一勝という案は放棄され、無条件降伏をのむに至った。

    最後に、死んでいった者に報いる為に勝まで止めないという考え方がありました。これも典型的なエスカレートコミットメントです。但し、これは現場の指揮官の一部がもっていた考え方で、これも負け戦を続ける上で、一定の影響があったのではないかと推測します。

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  4. shinichi Post author

    (sk)

    よく、エネルギー(石油)と食糧が原因だったと言われているが、それだけではないことが見えてくる。

    なにごとも、そんなに単純ではない。

    いろいろなことが絡み合って進んでいく。それは今も同じ。

    なんだかおそろしい。

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