橘玲


 
アルカンことジェリコ・ラジュナトヴィッチは「セルビア民族防衛隊」、別名「アルカンの虎部隊」のリーダーで、最盛期には1万人のメンバーを率い、自前の戦車まで保有していた。アルカン部隊は内戦中にクロアチアやボスニア、コソボなどで数々の残虐行為を繰り広げ、多数の市民を虐殺したことで「最悪の殺人集団」と恐れられたが、セルビア人のあいだでは不敗を誇る最強部隊として勇名を馳せた。アルカン部隊のもうひとつの特徴は、そのメンバーの多くが、ベオグラードの人気サッカークラブ、レッドスターのフーリガンだったことだ。

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  1. shinichi Post author

    ユーゴ内戦時に現れた異常な指導者「アルカン」。
    ごくふつうの市民による「愛国」の名のもとの虐殺
    [橘玲の世界投資見聞録]

    https://diamond.jp/articles/-/79673

     これまで3回にわたって、東欧史・比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の労作『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(有志舎)に依拠しながら、1990年代に旧ユーゴスラヴィアで起きた凄惨な殺し合いの歴史的背景を見てきた。

     個人でも集団でも、異常者でもないかぎり、正当な(合理的な)理由がなければひとを殺すことなどできるはずはない。ジェノサイドの本質が「歴史の修正」であるのはこのためで、「自分たちは本質的に犠牲者で、悪の脅威によって自分や家族の生命を危うくされており、自衛のための暴力はやむをえない正義の行使だ」という物語が民族のあいだで共有されてはじめて、ごくふつうの市民が、かつての隣人を平然と殺すことができるようになるのだ。

     安倍総理による「戦後70年談話」でも述べられているように、第一次世界大戦は近代兵器を使った人類初の総力戦で、そのあまりの被害の大きさに震撼した欧州では帝国主義・植民地主義からの脱却が模索されるようになった。だが遅れて近代世界に参入した日本はその潮流に気づかず、さらなる侵略に突き進んで国土は焦土と化した。

     アウシュヴィッツとヒロシマに象徴される第二次世界大戦のグロテスクな現実を前に、大国同士の総力戦は封印され冷戦が始まった。それは同時に、国民国家の主権を尊重し、内政不干渉の原則の下に、国家の内部でどのような理不尽なことが起きてもそれは国民の「自己責任」で他国は無関心、という暗黙のルールの支配でもあった。

     だが1990年代の旧ユーゴ内戦によって、この内政不干渉の原則は大きく修正されることになる。国際社会が傍観しているうちに、ヨーロッパの一部(裏庭)で凄惨な民族浄化の悲劇が起きたからだ(これに対しては、ドイツが一方的にクロアチアの独立を支持したことがユーゴの解体と内戦を招いた、との批判もある)。

     欧州社会での民衆の批判に押され、米国とEUはベオグラードなどの空爆に踏み切り、軍隊を展開してボスニアとコソボの紛争を収束させた。国際社会から一方的に「加害者」の烙印を押されたセルビアには大きな不満があるだろうが、この「内政干渉」の成功が「国家の主権よりも人権が優先する」という新たなルールを生んだ。

     この人権志向は国境を越える「積極的平和主義」としてイラク戦争やリビア、シリアの内戦への介入につながっただけでなく、歴史を遡っても適用される。1990年代から従軍慰安婦問題が欧米社会で取り上げられるようになったのは、ボスニア内戦での女性への性的虐待が背景にある。だが日本はここでも、元慰安婦の訴えが「女性の人権問題」であることに気づかず、韓国による「反日」宣伝に矮小化して対応を誤った――これはもちろん、韓国社会が慰安婦問題を「反日ナショナリズム」に利用したことと表裏一体だ。

     日本人にとって第一次世界大戦は、漁夫の利よろしく中国におけるドイツの権益を獲得できた「よい戦争」だったが、国際社会のパラダイム転換を理解できなかったことがその後の破滅を招いた。同様に大半の日本人にとって冷戦崩壊や東欧の民主化、旧ユーゴ内戦は他人事だろうが、EUにおける「人権」理念の中核にある現代史の体験を見逃すと、いまの「世界」を理解することはできない。その意味でユーゴ内戦は、わたしたちにとってもきわめて重要なのだ。

    内戦が起きるのは、権力の空白が生じるから

     民族主義が台頭し、秩序が崩壊して内戦が起きるのは、権力の空白が生じるからだ。近代国家は定義上、国内のすべての暴力を独占しているが、この特権は国民多数の支持のうえに認められているのだから、通常はその暴力を国民に向けて行使しようとは思わない。

     スターリン治下の旧ソ連やポルポトのカンボジア、現在では金王朝下の北朝鮮のように、国民が国家の暴力の脅威にさらされることも少なくないが、これは特異なイデオロギーによって国家そのものがカルト化したからで、民主国家であれば、一部の国民がデモや暴動で不満を表明しても政府は暴力の使用を最小限に留めようとするだろう。民主的な多民族国家として出発した旧ユーゴスラヴィアでも、“建国者”であるチトーはできるかぎり暴力を使わずに民族集団間の不和や軋轢を収めようと腐心した。暴力の発動を過つと、国民の支持を失い権力の正当性が失われてしまうのだ。

     権力が暴力を独占できるほど強力であれば、人権の抑圧のような事態は起こるかもしれないが、ひとびとが日々の暮らしを営める最低限の秩序は維持される。ところが国内に民族主義や宗教原理主義が台頭し、国家が集団同士の衝突を抑えられなくなると、民衆に暴力が開放されるというきわめて異常な事態が到来する。異常な世界には異常な人物が現われ、あり得ないような異常な出来事が起こる。その象徴が、「アルカン」と呼ばれた一人のセルビア人だ。

     アルカンことジェリコ・ラジュナトヴィッチは「セルビア民族防衛隊」、別名「アルカンの虎部隊」のリーダーで、最盛期には1万人のメンバーを率い、自前の戦車まで保有していた。アルカン部隊は内戦中にクロアチアやボスニア、コソボなどで数々の残虐行為を繰り広げ、多数の市民を虐殺したことで「最悪の殺人集団」と恐れられたが、セルビア人のあいだでは不敗を誇る最強部隊として勇名を馳せた。アルカン部隊のもうひとつの特徴は、そのメンバーの多くが、ベオグラードの人気サッカークラブ、レッドスターのフーリガン(熱狂的ファン)だったことだ。

     ここでは、佐原徹哉氏の著作とWikipediaの記述をもとにアルカンの数奇な生涯を紹介しよう。

    20代で神話的な人物となった「アルカン」

     アルカンは1952年、モンテネグロ系セルビア人の高級将校の父と、共産主義の活動家の母のあいだに生まれた。両親ともにパルチザンの闘士だったことから、幼い頃は厳格なチトー主義によって育てられ、これに反発したアルカンは家出を繰り返し、不良少年と交わり少年院での生活も経験したという。

     札付きのワルとして知られるようになったアルカンは、20歳でイタリアに渡り、ユーゴ出身者たちの地下社会でたちまち一目置かれる存在になる。「アルカン」の名は偽造パスポートの偽名のひとつで、それをニックネームとして使うようになった。

     アルカンは旧ユーゴの出稼ぎ労働者たちの犯罪ネットワークを利用して、ベルギー、スウェーデン、オランダ、オーストリア、ドイツ、スイス、イタリアなどで強盗、殺人などの凶悪犯罪を繰り返し、少なくとも7つの国で有罪判決を受け、インターポールのトップリストの国際指名手配犯になった。1974年にベルギーで収監されたが77年に脱獄、1979年にはオランダで逮捕されたが81年に再び脱獄した。それ以外にも逮捕歴は数多いが、いずれも拘留中に逃亡したとされている。こうしたことから、アルカンは早くも20代で神話的な人物となっていた。

     アルカンが凶悪犯罪を繰り返しながらも、ルパン3世さながらの手口で司直の手を逃れた理由は謎に包まれているが、佐原氏は「ユーゴ秘密警察のエージェントであり、体制の敵を始末する掃除屋として使われていた」との説を紹介している。

     Wikipediaではより詳しく、次のように書かれている。

    「アルカンは若い頃からスロヴェニアの政治家でアルカンの父親の友人であったスタネ・ドランツ (Stane Dolanc) の庇護を受けていた。ドランツはユーゴスラヴィアの秘密警察UDBA (UDBA) の長であり、アルカンは1973年からUDBAのエージェントとして働き、政治亡命者や反体制派の暗殺に従事していた。ドランツはアルカンがトラブルに巻き込まれるたびにその報いとしてアルカンを助け出していた」

    「レッドスター」のサポーターを組織していく過程

     1981年、アルカンは29歳でユーゴスラヴィアに帰国すると、カジノ経営に手を染め、高級マンションに居を定めて派手な生活をひけらかすようになる。83年11月には自宅に警察の捜査が入り、抵抗したアルカンは2名の警官に発砲したが、わずか2日後に釈放された。このことから、アルカンが政府中枢の権力者と強いつながりを保持していたことは明らかだ。

     ベオグラードの地下社会の大立者として君臨するようになったアルカンは、1989年にサッカークラブ「レッドスター」のキャラクターグッズ販売会社「デリエ」の社長に就任する。「英雄」を意味するデリエはレッドスターの熱狂的なサポーター集団の名称でもあり、セルビア共和国大統領の座を狙うスロボダン・ミロシェヴィッチがアルカンに、フーリガン対策を依頼したともいわれている。当時、野党のセルビア再生運動がレッドスターと人気を二分する「パルチザン」のファンを組織化していたことに危機感を抱いたミロシェヴィッチは、自分たちにもフーリガンの政治組織が必要だと考えたのだ。

     1980年代はじめ頃からユーゴスラビアではフーリガン文化が生まれ、一部の若者たちが競技場に爆竹や発炎筒を持ち込んで、試合そっちのけで相手チームのサポーターと乱闘騒ぎを繰り広げた。彼らはロンドンから始まったパンク文化に憧れ、飲酒やセックス、暴力によって既存の社会体制に反抗した。

     社会主義時代のユーゴの規範的価値観はチトー主義の「友愛と統一」だったから、フーリガンたちがその対極にある排外主義的な極右民族主義に引き寄せられていくのは必然だった。このようにしてフーリガンの応援歌や旗に民族主義的なモチーフが登場し、やがてサッカーの応援そのものが愛国主義の表現と考えられるようになる。1989年には、ベオグラードのファンたちは腕にセルビア国章のタトゥーをすることがサッカー観戦に不可欠と考えるようになっていたという。

     フーリガンは、日本でいえば暴走族のようなヤンキー集団のことだ。本来、彼らは社会のマイノリティのはずだが、1980年代末のベオグラードの民族主義的雰囲気のなかでは、良識あるセルビア人の大人までもがサッカー場でチェトニク(第二次世界大戦中にセルビア人が結成した民族主義武装集団)の軍歌の替え歌を歌うようになっていた。

     そんなとき、カリスマ的な犯罪者で「英雄」でもあるアルカンが、サポータークラブ「デリエ(英雄)」に降臨し、「お前たちはもはやゴロツキでも、社会の鼻つまみ者でもなく、セルビア民族とセルビア正教のために戦う愛国者だ」と宣言したのだ。

     アルカンはたちまちフーリガンたちの忠誠を獲得し、彼らを組織化して民族防衛に生命を捧げることを誓う「セルビア民族防衛隊」を結成した。これがのちに「アルカンの虎」と呼ばれるようになる民兵組織だ。

    フーリガンはいかにして統制の取れた戦闘集団へと変貌したのか

     アルカンは無軌道なフーリガンたちを、きわめて統制のとれた戦闘集団へと変貌させた。

     1991年に連邦軍の訓練基地を手に入れたアルカンは、ここで1万人以上の若者を訓練し、徹底的に規律を教え込んだ。

     この規律訓練について、アルカンは雑誌のインタビューで次のように語った。

    「応援団員にたいして、まずは武器を持たせずに訓練を行ったんだ。初めから俺は規律を叩き込んでやったぜ。サッカーファンがどういう連中か知ってるだろう。奴らは喧しくて酒飲みでふざけてばかりいる。俺は一喝してそれをやめさせたのさ。それから髪を短くきらせ、毎日ひげを剃らせ、酒もやめさせた。それからは放っておいてもそうするようになったんだ」

     フーリガン集団は、アルカンの指揮の下、たちまち正規軍並みの規律を持つ戦闘集団に生まれ変わった。これはアルカンの突出したカリスマ性もあるだろうが、日本の暴走族などを見てもわかるように、“不良”がもともと年齢や序列による厳しい階層組織と親和性が高いこともあるのだろう。社会の底辺でくすぶっていた彼らにとって、自分たちを日のあたる場所に引き出し、“英雄”になるチャンスをくれたアルカンの存在は絶対だったのだ。

     こうして鍛え上げられた元フーリガン集団は、戦場においてなにをしたのか。以下、佐原氏の著書からアルカン部隊の“戦記”を抜粋する。

     ドリナ川岸のビエリナは人口9万7000人、セルビア人59.2%、ボスニア人31.2%という構成で、内戦が始まるとセルビア人とボスニア人が対立し、双方の政治団体が拠点とするカフェに手榴弾が投げ込まれる事件をきっかけに戦闘が始まった。

     アルカンはビエリナに戦闘員を送り込むと、「イスラム原理主義者から町を解放する」と叫びながら、10~15名の小部隊を各所に配置した。アルカン部隊にはアメリカ人ジャーナリストが同行しており、その報道によれば、彼らは病院でボスニア人の残党を捜索したのち、モスクで拳銃を所持していた若者を拉致すると別の建物に連行して暴行を加え、モスクの向かいの建物では家にいた男を外に連れ出して射殺し、夫を介抱しようとうずくまった妻をうしろから撃った。

     アルカン部隊は市街地を制圧すると略奪を開始し、商店、事務所、民家に侵入して金品を強奪し、抵抗する者は容赦なく殺害した。遺体回収に立ち会った警官の証言によれば、女性や子どもを含む48人が路上や家のなかで殺されており、その大部分が胸や頭部を撃ち抜かれ、明らかに至近距離から撃たれたものもあった。犠牲者の大半はボスニア人だったが、なかにはパルチザン運動の英雄の弟として尊敬を集めていたセルビア人もいた。彼は自宅にボスニア人を匿っていたため殺されたという――。

    フォチャでは一般市民が虐殺を行なった

     だがこうした虐殺行為を行なったのは、アルカン部隊のような民兵組織だけではなかった。

     上ドリナ地方の中心都市フォチャでは、ボスニア人54%、セルビア人42%という人口構成もあって、早くから両者の極右団体が民族主義的対立を扇動し、92年初頭には公然と武装して対峙するに至った。

     この危機のなか、フォチャ市民は連日反戦集会を開催し、市内をデモ行進して平和を訴え、民族主義者の自治体幹部の解任を訴えたが、必死の行動もむなしくついに銃撃戦が発生、たちまち容赦のない殺し合いが始まった。

     市街戦は、ボスニア人が立て籠もる旧市街を郊外からセルビア人が攻撃するかたちで展開された。ボスニア側も頑強に抵抗したものの10日ほどで市街地の大部分がセルビア側の手に落ちた。

     その後はビエリナ同様に、アルカン部隊などセルビアやモンテネグロからやってきた「義勇兵」による略奪が始まったが、フォチャの特徴はそれにふつうの市民が加わったことだった。戦闘の帰趨が決すると、郊外の村々から続々と農民たちが押し寄せ、商店や民家から奪い取った戦利品を自動車や荷馬車に満載して引き上げていった。

     フォチャ市内では、残虐行為の多くは民兵ではなく地元のセルビア人の手によって行なわれた。たとえば強姦罪で収監され、出所したばかりのヤンキッチという30代前半の自動車修理工は、近郊の村で3人の男性を殺害し、18歳の若い夫婦を虐殺し、町の真ん中でボスニア人青年の首をナイフで切り落とし、郊外の道を歩いていた母親と2人の子どもを殺害した。その後、わざわざモンテネグロまで出かけていって、フォチャ出身のボスニア人実業家一家を皆殺しにした。

     佐原氏はこうした行動を、この地方に特殊な歴史に由来するものだと推測している。フォチャは第二次世界大戦のパルチザンの拠点であると同時に、セルビア人の武装集団チェトニクによるボスニア人の虐殺が行なわれた場所でもあった。

     チトーの社会主義体制になると、その論功行賞によってセルビア人パルチザンは肥沃な地方に土地を与えられて山間の僻地を去り、ボスニア人パルチザンにはフォチャの支配権が与えられた。チェトニクに協力したセルビア人だけが地元に残り、冷遇されたのだ。

     この不満が民族排外主義の温床となり、目を覆うような残虐行為につながった。ボスニア内戦は「野蛮な農村文化と寛容な都市文化の闘争」という図式で語られることが多いが、フォチャはこれには当てはまらないと佐原氏はいう。残虐行為の実行者の58%が高等教育修了者で、大卒と専門学校修了者が3割以上を占めていたからだ。彼らは比較的裕福な家庭の出身者だが、「出自」によって社会主義体制下では出世の道が閉ざされており、だからこそ民族主義を利用して権力を奪取しようとしたのだ。

     ふつうの市民が略奪や虐殺に加担する異常な「非日常性」こそが戦争の本質だとすれば、フーリガンの不良たちがアルカン部隊で生まれ変わった理由もわかる。戦場は彼らに、サッカー場で騒ぐよりもはるかに大きな興奮と実利を与えてくれたのだ。

     このことを佐原氏は次のような言葉で指摘している。

    「(アルカン部隊の元フーリガンたちは)戦場においてのみ、平時に課せられていた人間としての基本的な禁忌を自由に逸脱する喜びを完全に味わうことができた」

    ボスニア内戦後のアルカンと暗殺

     1995年のデイトン合意でボスニア内戦が終わるとアルカンはビジネスの世界に戻り、「アルカン部隊」も翌年、公式に解体された。

     この年、アルカンは2部リーグのサッカークラブ、FKオビリッチを買収した。オビリッチはやがてユーゴスラヴィア1部リーグに昇格し、1997-1998シーズンには国内リーグのチャンピオンになるが、その後、アルカンが相手チームの選手を脅迫していたとの疑惑が浮上する。ある選手が英国のサッカー雑誌に、「オビリッチと対戦したときにガレージで銃口を向けられた」と語ったことから、欧州サッカー連盟はアルカンとのつながりを理由にオビリッチの欧州での試合を禁止した。

     アルカンはセルビアでカジノ、ディスコ、石油小売、パン屋、菓子屋、商店、レストラン、ジム、民間警備会社などを運営するとともに、1993年にはセルビア統一党を設立し、2000年の議会選挙では20万票を集めて20議席を獲得した。

     コソボ紛争が勃発した1998年、コソボ解放軍 (KLA) と戦うためにアルカンは再び民兵組織を立ち上げた。99年には旧ユーゴスラヴィア国際戦犯法廷から虐殺、民族浄化、人道に対する罪などで起訴されている。

     2000年1月15日の夕方、アルカンはベオグラードのインターコンチネンタル・ホテルのロビーで2人の友人と話しているところを、23歳の警察官ドブロサヴ・ガヴリッチによって至近距離から銃撃された。左目を撃たれたアルカンは昏睡状態のまま病院に運び込まれたが、まもなく死亡が発表された。

     1月20日、アルカンの葬儀は「虎」のメンバーによってセルビア正教会で行なわれ、およそ2万人が参列した。

     暗殺事件の背景は不明だが、ミロシェヴィッチ大統領の息子マルコ・ミロシェヴィッチとアルカンとの間に石油密輸を巡る確執があったとの説や、マフィア同士の抗争、セルビア統一党の党首の座をめぐる「身内の」犯行との噂も流れた。アルカンの弁護士は、英国海兵隊の特殊部隊による犯行だと主張した。

    「愛国」の名の下に行われた数々の残虐行為の犠牲者とは?

     旧ユーゴ内戦においてアルカン部隊は特殊な例ではなく、クロアチアには悪名高い「囚人軍団」があり、サラエボの防衛に活躍して「ロビンフッド」と呼ばれたボスニア人たちは地元のヤクザ組織だった。

    「囚人軍団」はボスニアの古都モスタル出身のクロアチア人ムラデン・ナレティリッチが創設した組織で、ナレティリッチはアルカンと同じく、若くしてドイツに渡り地下社会の大立者となった。1990年に帰郷したナレティリッチは、多数の犯罪者をメンバーとする武装組織をつくりあげ、モスタル攻防戦でセルビア人やボスニア人の虐殺を繰り広げた。

     またボスニア内戦では、クロアチアの特殊部隊「ジョーカー」のような私的軍隊も多数の残虐行為に加担した。彼らは正規軍や武装警察隊など、まがりなりにも命令系統に従う軍隊とは異なり、軍上層部に対してしか報告義務を負っていなかった。正規軍が市民を殺せば国際社会の非難を浴びるため、汚れ仕事をこうした秘密部隊にさせていたともいえる。

     佐原氏はボスニア内戦を振り返って、虐殺の大半は特殊部隊、民兵組織、そして市民の手によるものだと述べる。

     アルカンやナレティリッチは生まれながらの犯罪者であり、本来であれば社会の主流に出てくるはずのない人物だ。だが権力の空白によって社会が動揺すると、機を見るに敏な彼らはそこに大きな“ビジネスチャンス”を発見する。だからこそ、「成功した犯罪者」としてのヨーロッパでの豪勢な生活を捨て、貧しい故国に戻り「愛国運動」に身を投じたのだ。

     彼らが利用したのは、元軍人やフーリガン、前科者のような社会の底辺にいるマイノリティだった。彼らが喜び勇んで民兵となったのは「国」や「民族」という大義に惹かれたからでもあるが、実際は略奪による実利の獲得、強姦による性的満足、虐殺による興奮が目的だった。平時であれば犯罪とされるこうした行為も、戦時なら「愛国」の名の下に許されるのだ。

     そしていまも、残されたひとびとは「愛国」の代償を支払わされている。これこそが、旧ユーゴ内戦のもっとも重い教訓なのだろう。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    ウクライナでロシア軍がしたことも、似たようなもの。それが人間だと言ってしまえばそれまでだが、歴史から何も学ばないのも、歴史が繰り返されるのも いつものことだ。

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