吉本隆明

ほんとうの意味で日本人が色というのはじぶんの側に属するんだと、つまり、日常生活の側に属するし、民衆の平凡なる日常の中で、色というのは豊富に氾濫し、豊富に使われなければいけないんだ、あるいは、使われるといいんだというふうに、それをじぶんに許したのは、むしろ明治以降で西欧の染料とか、色彩感覚とか、それがどんどんどんどん入ってきてから、はじめて日本人は色彩というものを日常生活に使っていいんだという考え方になったので、それ以前は、色というものを、日本人は宗教に属する、つまり、神に属するもので人間がそれを使うべきでない。だから、せいぜい使われるのは、神社の森だとか、神を祀った山の上だとか、そういうところにきれいな花の咲く樹を植えたりというようなことは、むしろ、そういうところに使ったので、ほんとうにじぶんの庭に、例えば、桜の花でもなんでもいいですけど、お花見の桜の花みたいなものをじぶんの庭に植えようという考え方をもったのは、たぶん、平安朝時代になってからはじめて、あるいは、奈良朝の末期ぐらいからはじめて、そういうふうになったので、それ以前は桜の樹とか、きれいな花の咲く樹というのは、ぜんぶ神社の社の境内にそれを集めるとか、あるいは、神聖なる山の麓にそれを植えるとか、そういうふうに、つまり、神に属するところにそれは植えるのであって、じぶんの庭に、たとえば、きれいな花の咲く樹を植えてもいいんだというふうに考えだしだのは、平安朝ぐらいになってからであって、そういうふうになってから、それでもわりに一種、神々しい気持ちで、庭の木に咲く花なんかというのを、そういうふうに考えて、そういうふうに植えているというふうな、そういうふうな鑑賞の仕方をしているというようなことが行われてきて、それでむしろ、自然の草花を採ってきて、家の中の仏壇に供えるみたいなふうな、そういう花の見方とか、鑑賞の仕方をするようになったのは、もう明治になってからなんだ、つまり、明治になってから初めて色彩というものを神に属するものじゃなくて、日常生活に誰もが使っていいものであるし、また、誰もが塗っていいものであるし、誰もが植えていいものであるし、誰もが着てもいいものだというふうに考えだしだんだ。それにもかかわらず、日本人の色彩の抑え方というのは、日常生活、つまり、じぶんのものとしての色彩の使い方の抑え方といいましょうか、抑制の仕方というのは著しいので、これは一種、そういう言い方をすれば、柳田国男は天然の禁色だ、つまり、天然によって禁じ、あるいは、神によって禁じられた色であって、それを人間が使っちゃいけないんだというふうに、日本人はむしろ考えていたんだというふうに、そういう言い方をしています。
 そのようにして、たとえば、本来ならば、誰それ天皇の御代に誰それが政権をとって、こういう政治をやったとかというような、そういう歴史というものが描かれると同じように、たとえば、そういう色彩というものを、日本人が宗教的な神に属するものだというふうに考えていたときから、それから、これは人間に属するもので日常生活に使っていいんだというふうに考えるようになるまでの色彩についての日本人の心の変化というものをたどれば、やはり、誰それ天皇の御代にこういう戦があって、こういうふうに政権をとってというような、そういう歴史と同じ歴史が日本人の色彩感覚の移り変わりというもので捉えることができるんだということを、『明治大正史』のなかで柳田国男は言っています。

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  1. shinichi Post author

    柳田国男の周辺-共同幻想の時間と空間

    https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a093.html

    3 色彩感覚の移り変わりによって歴史をとらえる

     すこし、それを詳細にお話してみますと、まず色ということについて言っています。色について、どういうことを根本的に言っているかといいますと、日本人というのは、日本の天然の四季の移り変わりというものを、ものすごい様々な豊富な色彩を振りまいて、非常に天然自然がきれいだというふうに、これはどこの国、どこの場所をとってきても、これほど豊富な自然の移り変わりをするところはないんじゃないかと思われるほど、豊富な自然の色彩を日本人というのはもっているんだ。
     ところが、それにもかかわらず、日本人の着るものとか、描き出すものというのは、かならずしも豊富な色彩をもっていない、むしろ豊富な色彩というよりも、色彩をどちらかというと抑えるみたいなものが、日常、日本人がじぶんが描いたり、じぶんが着たり、それから、じぶんが家具に使ったりするものというのを見てみると、むしろ色彩を抑えよう抑えようとしているというふうに考えられると、なぜこういうことが起こるかというのは、じつに不思議である、だから、日本人が日常生活における色というのを名付ける場合に、ほんとうに豊富な色を名付ける色を知ったのは、西洋のヨーロッパの色彩の呼び方とかが入ってきてからであって、むしろ、それ以前では日本人というのはじつに豊富な自然の色彩をもっているにもかかわらず、じぶんのほうはぜんぜん色彩が貧しくてといいますか、あまり豊富な色彩を使わないで、むしろ色彩を使うことを忌避しているといいますか、そういうふうにしか思えないところがあると、これはいったい何なんだということを、まず柳田国男は問題にしています。
     柳田国男が考えたところはどういうことかといいますと、それは日本人がようするに、天然自然の色彩というものを、向こう側、つまり、神といいましょうか、日本人の場合には、神というのと天然自然とは同じところがありますけど、原始古代まで遡ると同じになっちゃうところがありますけど、つまり、豊富な色彩というのは全部、向こう側、つまり、神に属するものであって、人間に属するものじゃないというふうに、日本人はどうも考えたようにおもえるというのが、柳田国男の一種、色に対する結論であるわけです。
     もともと日本人というのはそういうふうに考えたんだと、つまり、色彩というのは、あくまでじぶんのほうの側にあるものだと、だから、じぶんが豊富に、着るものとか、日常の生活品とか、そういうもので豊富な色彩を使うべきなんだというふうに、日本人はちっとも考えなかったと、むしろ、そうじゃなくて、それは禁じられているのだと、色をそんなに天然自然の神さまのものだから、それは人間が日常とくに使ったりするのは、これはよくないことなんだというふうに、むしろ日本人はそれを禁じられた色というふうに考えて、豊富な色というのはぜんぶ神に属するものだと考えたんだと、つまり、向こう側にあるものだと考えたところが、日本人が豊富な自然の色彩をもちながら、日常生活でむしろ色彩がないようにないように抑えるように考えてきた根本的な理由だというふうに柳田国男は結論付けています。
     結局、そこから、柳田国男が導き出していることは、日本人の色彩感覚というのは、色というのは神に属する、まず、色というものに対して、まず、宗教的な観念といいましょうか、そういうものを色にくっつけたという、日本人はそういうところから色の感覚が始まったんだというふうに言っています。
     ほんとうの意味で日本人が色というのはじぶんの側に属するんだと、つまり、日常生活の側に属するし、民衆の平凡なる日常の中で、色というのは豊富に氾濫し、豊富に使われなければいけないんだ、あるいは、使われるといいんだというふうに、それをじぶんに許したのは、むしろ明治以降で西欧の染料とか、色彩感覚とか、それがどんどんどんどん入ってきてから、はじめて日本人は色彩というものを日常生活に使っていいんだという考え方になったので、それ以前は、色というものを、日本人は宗教に属する、つまり、神に属するもので人間がそれを使うべきでない。だから、せいぜい使われるのは、神社の森だとか、神を祀った山の上だとか、そういうところにきれいな花の咲く樹を植えたりというようなことは、むしろ、そういうところに使ったので、ほんとうにじぶんの庭に、例えば、桜の花でもなんでもいいですけど、お花見の桜の花みたいなものをじぶんの庭に植えようという考え方をもったのは、たぶん、平安朝時代になってからはじめて、あるいは、奈良朝の末期ぐらいからはじめて、そういうふうになったので、それ以前は桜の樹とか、きれいな花の咲く樹というのは、ぜんぶ神社の社の境内にそれを集めるとか、あるいは、神聖なる山の麓にそれを植えるとか、そういうふうに、つまり、神に属するところにそれは植えるのであって、じぶんの庭に、たとえば、きれいな花の咲く樹を植えてもいいんだというふうに考えだしだのは、平安朝ぐらいになってからであって、そういうふうになってから、それでもわりに一種、神々しい気持ちで、庭の木に咲く花なんかというのを、そういうふうに考えて、そういうふうに植えているというふうな、そういうふうな鑑賞の仕方をしているというようなことが行われてきて、それでむしろ、自然の草花を採ってきて、家の中の仏壇に供えるみたいなふうな、そういう花の見方とか、鑑賞の仕方をするようになったのは、もう明治になってからなんだ、つまり、明治になってから初めて色彩というものを神に属するものじゃなくて、日常生活に誰もが使っていいものであるし、また、誰もが塗っていいものであるし、誰もが植えていいものであるし、誰もが着てもいいものだというふうに考えだしだんだ。それにもかかわらず、日本人の色彩の抑え方というのは、日常生活、つまり、じぶんのものとしての色彩の使い方の抑え方といいましょうか、抑制の仕方というのは著しいので、これは一種、そういう言い方をすれば、柳田国男は天然の禁色だ、つまり、天然によって禁じ、あるいは、神によって禁じられた色であって、それを人間が使っちゃいけないんだというふうに、日本人はむしろ考えていたんだというふうに、そういう言い方をしています。
     そのようにして、たとえば、本来ならば、誰それ天皇の御代に誰それが政権をとって、こういう政治をやったとかというような、そういう歴史というものが描かれると同じように、たとえば、そういう色彩というものを、日本人が宗教的な神に属するものだというふうに考えていたときから、それから、これは人間に属するもので日常生活に使っていいんだというふうに考えるようになるまでの色彩についての日本人の心の変化というものをたどれば、やはり、誰それ天皇の御代にこういう戦があって、こういうふうに政権をとってというような、そういう歴史と同じ歴史が日本人の色彩感覚の移り変わりというもので捉えることができるんだということを、『明治大正史』のなかで柳田国男は言っています。

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  2. shinichi Post author

    柳田国男の周辺-共同幻想の時間と空間

    https://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/text-a093.html

    1 司会

     今日の全体の進行といいますか、司会その他、私が受けもっておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。最初に一言、吉本先生についてご紹介させていただきたいと思うのですが、盛岡では、今日で3回目なんです、講演は。この前は3年ほど前に、「宮沢賢治―思想としての幼児性」という題でお話いただきました。今回は、ご案内にありますようなテーマであります。
     あらためて、吉本先生をご紹介する必要もないかとはおもうのですが、いちおう念のためといいますか、ご紹介いたします。昭和30年代半ばぐらいから、それ以前は詩人として活躍されておられて、30年代くらいからは文芸批評といいますか、あるいは、思想的な場面でたくさんの著作を出されておりまして、それも、我々に非常に強力なインパクトといいますか、刺激といいますか、そういうものを与え続けてくださっているわけでありまして、最近もいろんな方面で活躍をされておりまして、たとえば、ごく最近ですと坂本龍一との対談の『音楽機械論』とかもありまして、『音楽機械論』には、カラー版の写真なども載っておられまして、あと、雑誌の評論とかでは、ファッションとか、そういうものについても最近お書きになって、今日も吉本先生がどんな服装でいらっしゃるかというのを非常に楽しみにして、もしかして、噂のコム・デ・ギャルソンとか、着て来られたのかなと思いましたら、今日は違うんだそうであります。
     それとか、最近では林真理子と栗本慎一郎と3人の対談で、『恋愛幻論』とかいうのもあって、いろいろ多方面に渡ってお仕事をされているわけですが、なかでも、我々の会の関心がそれだったせいもあるのですが、昭和40年代の『共同幻想論』、お手元にパンフレットみたいなものの中にフローチャートみたいなものがありまして、それが私どものほうで考えてつくりましたので、完全にその内容が先生の意図を押さえているものに近いかどうか確信はもてないのですけど、『共同幻想論』からの連続で、現在、雑誌『國文學』に「柳田国男論」を連載されて、それがひとつの中心的なお仕事だろうというふうにおもうわけです。
     長年、吉本先生を読んでおりますけど、最近の「柳田国男論」への展開という部分に関しては、充分に理解ができないといいますか、フォローしきれないといいますか、そういうところもあって、いろいろ「共同幻想論」あるいは、現在の「柳田国男論」へのお仕事の展開などに関しまして、ぜひ直接的にお話を伺いたいというのが、今回の意図であります。
     題名が「共同幻想の時間と空間‐柳田国男の周辺」という題でありまして、題名を伺ったときに、共同幻想に時間と空間というモーメントといいますか、そういう要素を導入するということで、どういうふうに構造化されるのかという点で、非常に興味といいますか、関心をそそられているわけです。
     柳田国男はご承知のように、『共同幻想論』でも、『遠野物語』が最初のうち主な題材になっておりまして、岩手県にも関連が深いということで、とくに今日のようなお話をお伺いすることになりました。
     それでは、これからお話になりますが、だいたい時間は2時間ぐらいを予定しておりますが、もし、途中、お疲れでしたら休憩をとってもよろしいですが、その後、15分ぐらい休憩いたしまして、その休憩後、お話の内容につきまして、会場の皆さんからご質問とか、あるいは、先生のほうから補足的に説明いただくという時間を予定しておりますので、どうかよろしくご傾聴いただきたいとおもいます。では、挨拶は終わります。先生お願いします。

    2 過去への眼を現在に向けた『明治大正史 世相篇』

     いま、ご紹介にあずかりました吉本です。今日は「柳田国男の周辺」ということで、柳田国男が考えたことを中心に置きながら、じつは副題になっております、「共同幻想の時間と空間」ということになっておりますけど、つまり、過去、それから現在、そして未来、というふうに展開される共同の幻想、柳田国男は共同の錯覚とか、共同の幻覚とかいう言葉を使っておりますけど、そういうものの行方とか、範囲とか、領域とか、そういうものがどういうふうに考えられていくべきだろうかということに触れていきたいとおもっております。
     ですから、ひとりでに、ここまでが柳田国男で、ここから後は私の考えでというふうに区別つかないうちに、ひとりでに変わっているかもしれませんし、ひとりでに入れ替わっていたり、また、元に戻ってみたりということになるかもしれませんですけど、それはそのようにご判断願えればよろしいかとおもいます。
     柳田国男はもちろん民俗学者でありますけど、柳田国男は民俗学ということではなくて、じぶんの同時代というものがどういうふうになっているのだろうかということについて関心をもって、そういうことについて論じた唯一の著書があります。それは、『明治大正史』という題で、副題として「世相篇」という、だから、もっとたくさん書くつもりだったのでしょうけど、『明治大正史 世相篇』という、とても優れた著書がひとつあります。
     このひとつが、たぶん柳田国男が同時代について、本気になって、考察した唯一のものじゃないかというふうにおもわれます。この『明治大正史 世相篇』というのを書くにあたって、柳田国男がどういうことを考えたかといいますと、つまり、民俗学でもそうですし、違う意味の民俗学もそうですけど、それはだいたい古い時代、つまり、未開原始アジア的時代、あるいは、古代とか、そういう古い時代の民衆、つまり、柳田国男のいう常民の様々なしきたりとか、様々なつくりあげた物語とか、様々な風習とか、それからまた、その上に立つ制度とか、そういうものについて、考察するのが民俗学というものであるけど、もし、この考察を、古代とか、原始とか、古い時代というふうにとらないで、現在、いまということにとったら、どういうことになるのだろうかと、つまり、民俗学というのは、だいだい遡って過去のことを追及し、再現するということになっているわけだけど、現在のことを同じ方法で追及し、そして、同じ方法で再現しようとしたら、いったいどういうことが可能であろうかというふうに、じぶんはまず考えたというふうに序文のなかで言っております。
     それで何をしたかというと、じぶんはとにかく1年間分ぐらいの、全国の新聞をぜんぶ読んだと、それに引きずられて、過去、つまり、明治時代からの新聞というのも、ぜんぶ眼を通せるだけは通してみた、そういうふうにして、現在というものをどうやったら再現できるかということを考えてみたというふうに書いております。
     結局のところ、じぶんが歴史だと考えているものは、ごく普通の民衆の、ごく普通の日常生活というものが、ひとりでに積み重なっていって、そして、移り変わるものが歴史なのであって、そういう歴史というのは書くことが可能なんじゃないかというふうにじぶんは考えると、そういう可能性というのに対して、じぶんはひとつの信念をもっているから、だから、じぶんはまずそれをやってみたいんだ、じぶんなりにやってみたいんだという、そういう大きな目論見も含めて、『明治大正史』というのを書こうとしたと、で、とにかく、新聞を1年間分くらいは隅から隅まで読んで、世相の移り変わりというものを知ろうとした。
     たしかに、それは、ごく普通の人たちが、その日その日、日常生活のなかで関心をもつ記事が新聞には書かれているので、たしかに、ごく普通の人の普通の生活がどういうふうに移り変わっていくかということをみるに、たしかに、いいものなんだけど、それにもかかわらず、よくあたってみたところ、新聞というのも、結局は、その時々の関心、非常によく関心をひくことが、どうしても新聞の記事の主題になりやすくて、ごく平々凡々と過ぎていく日常生活の移り変わりというものを知るには、新聞は必ずしもいいものじゃない、十全なものじゃないということはじぶんにはわかったというようなことを述べております。
     そして、結局、じぶんはほんとうをいうと、同時代の世相史を、ごく普通の民衆の、普通のごく平凡な生活のなかの移り変わりというもので捉えて、それをひとつの歴史の本だというところまでもってきたいという意図は、そんなにうまくいかなかったけれど、いかなかったことは結果であるけど、じぶんはそういうことをしてみたというのが、この『明治大正史』だというふうに、そういうことを書いております。
     ここから、始まっていくと、いちばん、柳田国男という人の方法を捉まえやすいものですから、そこから入っていきますと、それじゃあ、『明治大正史』というのは、どういうふうな同時代の捉え方をしているかといいますと、まず第一に、他の学者、思想家、それから専門家とか、そういう他のそれぞれの分野の専門家、あるいは、知識のある人みたいなものが書いた一切のものはぜんぶ採用しない、用いないということが、この『明治大正史』というのの非常に大きな特徴です。
     それから、それと裏腹になるわけですけど、柳田国男が『明治大正史』で時代を捉えるために、どこから捉えようとしたかというと、感覚というか、五感にふれてくるといいましょうか、つまり、眼とか、耳とか、それから鼻とか、つまり、匂いとか、そういうものにふれてくるものを通じて、同時代の社会現象というものを捉えようとしているというのが、とても大きな特徴です。
     なぜ、こういう捉え方をしたかということを推測してみますと、結局、民俗学というものをどんどんどんどん遡っていきますと、それはやっぱり、古代の時代であったり、その前の時代であったり、原始の時代であったりということで、普通の民衆は物事を判断して、良いから生活するというよりも、とにかく、眼で見、耳で聞き、そして、鼻で嗅ぎということをしながら、それでもって良い悪いの識別をしていって、そして、じぶんの生活を立てていったという、そういう時代が考えられるわけで、たぶんn、柳田国男はそういうことを同時代史、つまり、明治・大正時代の世相を捉える場合にも、その方法を使ってみようと思ったんだとおもいます。
     つまり、普通の歴史家が書くような歴史書を書こうという気は全然なくて、原始未開の人、あるいは、古代の民衆が本能の赴くままに、あるいは、感覚の赴くままに掴んでいった、そういう掴み方というのをしてみようというふうに考えたんだとおもいます。それが『明治大正史』というものの大きな特徴に、柳田国男のこの本の大きな特徴になっています。

    3 色彩感覚の移り変わりによって歴史をとらえる

     すこし、それを詳細にお話してみますと、まず色ということについて言っています。色について、どういうことを根本的に言っているかといいますと、日本人というのは、日本の天然の四季の移り変わりというものを、ものすごい様々な豊富な色彩を振りまいて、非常に天然自然がきれいだというふうに、これはどこの国、どこの場所をとってきても、これほど豊富な自然の移り変わりをするところはないんじゃないかと思われるほど、豊富な自然の色彩を日本人というのはもっているんだ。
     ところが、それにもかかわらず、日本人の着るものとか、描き出すものというのは、かならずしも豊富な色彩をもっていない、むしろ豊富な色彩というよりも、色彩をどちらかというと抑えるみたいなものが、日常、日本人がじぶんが描いたり、じぶんが着たり、それから、じぶんが家具に使ったりするものというのを見てみると、むしろ色彩を抑えよう抑えようとしているというふうに考えられると、なぜこういうことが起こるかというのは、じつに不思議である、だから、日本人が日常生活における色というのを名付ける場合に、ほんとうに豊富な色を名付ける色を知ったのは、西洋のヨーロッパの色彩の呼び方とかが入ってきてからであって、むしろ、それ以前では日本人というのはじつに豊富な自然の色彩をもっているにもかかわらず、じぶんのほうはぜんぜん色彩が貧しくてといいますか、あまり豊富な色彩を使わないで、むしろ色彩を使うことを忌避しているといいますか、そういうふうにしか思えないところがあると、これはいったい何なんだということを、まず柳田国男は問題にしています。
     柳田国男が考えたところはどういうことかといいますと、それは日本人がようするに、天然自然の色彩というものを、向こう側、つまり、神といいましょうか、日本人の場合には、神というのと天然自然とは同じところがありますけど、原始古代まで遡ると同じになっちゃうところがありますけど、つまり、豊富な色彩というのは全部、向こう側、つまり、神に属するものであって、人間に属するものじゃないというふうに、日本人はどうも考えたようにおもえるというのが、柳田国男の一種、色に対する結論であるわけです。
     もともと日本人というのはそういうふうに考えたんだと、つまり、色彩というのは、あくまでじぶんのほうの側にあるものだと、だから、じぶんが豊富に、着るものとか、日常の生活品とか、そういうもので豊富な色彩を使うべきなんだというふうに、日本人はちっとも考えなかったと、むしろ、そうじゃなくて、それは禁じられているのだと、色をそんなに天然自然の神さまのものだから、それは人間が日常とくに使ったりするのは、これはよくないことなんだというふうに、むしろ日本人はそれを禁じられた色というふうに考えて、豊富な色というのはぜんぶ神に属するものだと考えたんだと、つまり、向こう側にあるものだと考えたところが、日本人が豊富な自然の色彩をもちながら、日常生活でむしろ色彩がないようにないように抑えるように考えてきた根本的な理由だというふうに柳田国男は結論付けています。
     結局、そこから、柳田国男が導き出していることは、日本人の色彩感覚というのは、色というのは神に属する、まず、色というものに対して、まず、宗教的な観念といいましょうか、そういうものを色にくっつけたという、日本人はそういうところから色の感覚が始まったんだというふうに言っています。
     ほんとうの意味で日本人が色というのはじぶんの側に属するんだと、つまり、日常生活の側に属するし、民衆の平凡なる日常の中で、色というのは豊富に氾濫し、豊富に使われなければいけないんだ、あるいは、使われるといいんだというふうに、それをじぶんに許したのは、むしろ明治以降で西欧の染料とか、色彩感覚とか、それがどんどんどんどん入ってきてから、はじめて日本人は色彩というものを日常生活に使っていいんだという考え方になったので、それ以前は、色というものを、日本人は宗教に属する、つまり、神に属するもので人間がそれを使うべきでない。だから、せいぜい使われるのは、神社の森だとか、神を祀った山の上だとか、そういうところにきれいな花の咲く樹を植えたりというようなことは、むしろ、そういうところに使ったので、ほんとうにじぶんの庭に、例えば、桜の花でもなんでもいいですけど、お花見の桜の花みたいなものをじぶんの庭に植えようという考え方をもったのは、たぶん、平安朝時代になってからはじめて、あるいは、奈良朝の末期ぐらいからはじめて、そういうふうになったので、それ以前は桜の樹とか、きれいな花の咲く樹というのは、ぜんぶ神社の社の境内にそれを集めるとか、あるいは、神聖なる山の麓にそれを植えるとか、そういうふうに、つまり、神に属するところにそれは植えるのであって、じぶんの庭に、たとえば、きれいな花の咲く樹を植えてもいいんだというふうに考えだしだのは、平安朝ぐらいになってからであって、そういうふうになってから、それでもわりに一種、神々しい気持ちで、庭の木に咲く花なんかというのを、そういうふうに考えて、そういうふうに植えているというふうな、そういうふうな鑑賞の仕方をしているというようなことが行われてきて、それでむしろ、自然の草花を採ってきて、家の中の仏壇に供えるみたいなふうな、そういう花の見方とか、鑑賞の仕方をするようになったのは、もう明治になってからなんだ、つまり、明治になってから初めて色彩というものを神に属するものじゃなくて、日常生活に誰もが使っていいものであるし、また、誰もが塗っていいものであるし、誰もが植えていいものであるし、誰もが着てもいいものだというふうに考えだしだんだ。それにもかかわらず、日本人の色彩の抑え方というのは、日常生活、つまり、じぶんのものとしての色彩の使い方の抑え方といいましょうか、抑制の仕方というのは著しいので、これは一種、そういう言い方をすれば、柳田国男は天然の禁色だ、つまり、天然によって禁じ、あるいは、神によって禁じられた色であって、それを人間が使っちゃいけないんだというふうに、日本人はむしろ考えていたんだというふうに、そういう言い方をしています。
     そのようにして、たとえば、本来ならば、誰それ天皇の御代に誰それが政権をとって、こういう政治をやったとかというような、そういう歴史というものが描かれると同じように、たとえば、そういう色彩というものを、日本人が宗教的な神に属するものだというふうに考えていたときから、それから、これは人間に属するもので日常生活に使っていいんだというふうに考えるようになるまでの色彩についての日本人の心の変化というものをたどれば、やはり、誰それ天皇の御代にこういう戦があって、こういうふうに政権をとってというような、そういう歴史と同じ歴史が日本人の色彩感覚の移り変わりというもので捉えることができるんだということを、『明治大正史』のなかで柳田国男は言っています。

    4 色のイメージ、音のイメージ、匂いのイメージ

     もうひとつ顕著に言っていることは音ということです。音ということも考えていって、昔の人というのは、昔の人というふうにいわなくても、明治時代の人みたいなところでいいわけですけど、明治時代の村里の人というのは、たとえば、夜になると、どこそこの方向から狸囃子が聞こえてきて、あれは狸が鼓を打っているんだというふうに言いだすと、そうすると、ほかの村の人もやはり、そうだ俺も聞いたというと、また次の村の人も、いや俺も聞いたんだというふうにして、誰もが狸がお囃子をやっているというのを誰もが聞いた聞いたというふうにいって、そうすると、その聞いた聞いたというのが、ほんとうに聞いたという意味と、それから、一種の聞こえたとおもうから聞こえたという面と、両方あるわけですけど、そういうふうに村の人たちがほんとうに狸が夕方になると山の麓でやっているのかどうかということは別にして、誰かがそれを聞いたと言えば、いや俺も聞いたというし、誰かが見たといえば、あそこの道の木の下のところでじぶんは幽霊を見たといえば、そうすると、誰かが言えば、村の他の人も、俺もそれを見たんだというし、それがいっぱいに広がって、誰もがそれを見たんだというふうになると、あるいは、柳田国男はそういう例をあげていますけど、たとえば、村に小学校が新しくできて作りかけていると、そうすると、ある晩、あそこで子どもたちが授業をやってあれしている声が聞こえたというふうに誰かがいうと、いや俺も聞いたという人がまたでてきて、やはり村の人たちはぜんぶ、そういえば俺も聞いたというふうになってきて、それは事実であるか、そうでないかということより先に、誰もが新しくできた小学校で子どもたちが授業をやっている声を聞いたということが、ほんとうのものとして伝わっていくということがあったと、つまり、そういうふうに音というのは、昔の人が、音の原因があって、音が実際にしたかしないかということについての、心の中での区別というのはそんなにない時代があって、そして、そのときには人々は誰もがそれを聞いたと思えば、それは聞こえたんだと、あるいは、聞こうと思えば聞こえたんだというふうに、それは一人では決してそういうふうにはならないのですけど、大勢の人たちが、誰もがそれを聞いたんだというふうに、あるいは、聞こうと思ったらそこで聞こえたんだというふうに、つまり、ほんとうに聞こえたことと、聞こうと思ったから聞こえたんだということとの区別というものは、昔の人はそんなになかったんだと、そういうふうに区別がなかった時代から、音の聞き方というのにも様々な変化があって、そして、ついには、そういう村の誰もが狸囃子が聞こえたことを誰もが言わなくなっちゃうし、また、それはほんとうに聞こえなくなっちゃう、もっと極端に都会にいきますと、都会の人たちはまったくそんなことは聞こうと思ったって聞きもしませんし、聞こえもしないと、聞こえるのは、一種の人工的な音だけが聞こえるというような、そういうふうになっていくと、そうすると、そういうふうに音というものに対する人間の感受性といいましょうか、感じ方の移り変わりというのでも、やはり歴史というのは描けるのであって、これもやっぱり、誰それが戦をして、誰それが政権をとって、こういう政治をしいたとか、そういうような歴史の本を描くのと同じように、音というのを日本人がどういうふうに聞き方を変えていったか、どういうふうに聞こえ方が違ってきたか、それから、どういうふうに新しい音が出てきたかというようなことをたどっていくと、やはりひとつの歴史ができる、その歴史は決して制度の上のほうにいる人たちがいろいろ争ってできた歴史ではなくて、ごくふつうの村里のふつうの人が狸囃子を聞いたことの移り変わりのなかで、歴史がやっぱりたどることができるんだということをやはり言っています。
     音というのがほんとうに天然自然というものを離れた音になってきたのはやはり近代に入ってからであって、その音の変化というのを、あるいは、音を聞く心構えの変化というものをたどれば、やはり人間の心の歴史、あるいは、日本人の心の歴史というのは、そういうふうにして描くことができるんだということを言っています。
     それからもうひとつ、柳田国男が言っているのは、嗅覚、香り、つまり、匂いです。匂いというのもそうなのであって、じぶんは子供の時に、祭りとか、お彼岸とかになると、村中の家から線香の匂いがして、線香の匂いが村中にいっぱいに立ち込めるという、しばしばそういうことにぶつかった。それは、祭りとか、お彼岸とかに、線香の匂いが村中に立ち込めるみたいなことというのは、いってみれば、村の人たち全員がもっている、共同にもっている、共通にもっている、一種の匂いについての心なのであって、それはやっぱり、時代とともに移り変わっていく、匂いの移り変わりというのも、同じようにたどっていくと、それも、匂いについての心構えというもの、あるいは、習慣の違いというもの、変化というものをたどると、やっぱり、それはひとつの歴史を描くことができるんだということを言っております。
     柳田国男はそういう問題について、匂いとか、色とか、音とかについて、日本人がどうしてそういうものについて、豊富な音を聞き分ける耳を持っていながら、それを、じぶんのもの、つまり、じぶんの生活の中から音を作ろうとしたりというようなことをどうしてしなかったかということの、先ほど宗教に属するんだということ、神さまに属するんだということをいいましたけど、もうすこし人間臭いところでいいますと、たいてい、人間のもっている色とか、音とか、匂いとかについての強い記憶といいましょうか、強い印象というのは、たいていは、じぶんがぼんやりした状態、つまり、一種、無意識のうちに、幻想状態に入ったときの、そういう時のじぶんの心の状態と、それから、そのときの色とか、そのとき感じた色とか、匂いとか、音とかというものとが、強烈に結びついているので、日常の普段の心の状態というのと違ったところ、ちょっと異常な心の状態とか、なにか感銘が深くてとか、なにかちょっとじぶんがぼんやりしたときとか、なにか夢うつつになったときと、音とか、色とか、匂いの記憶というのは、強烈に強く結びついているために、それがやはり日常生活のなかに、じぶんのものなんだというふうに、じぶんの生活の中でそれを出していかなきゃならない音なんだとか、出していかなければならない色彩なんだとか、そういう感じ方を日本人がとれなくなったのは、そういうところにあるんだというような、もうひとつ強烈な体験と、音とか、色とかが結び付いていることが、とても重要な、日本人が生活の中に音とか、色とか、匂いとかというのを作りだそうとしてこなかった大きな原因があるんだというふうに柳田国男は言っています。
     結局、柳田国男は同時代を捉える場合に使いました方法というのは、結局、何かといいますと、色とか、音とか、匂いとか、つまり、わりあいに人間の原始的な感覚、そういうものの変化でもって、同時代を捉えようと、同時代を捉えるために、歴史的にも、色、音、匂いというものの変化というのを捉えていけば、捉えられるんだというふうに、柳田国男はその捉え方の方法といいましょうか、原始的な人間の感覚、あるいは、感覚に伴う心の変化というものと、それから、世相といいましょうか、社会状態というものとの結びつきの仕方というようなものを通じて、同時代を捉える方法というのは成り立ちうるんだということを、『明治大正史』の中でとてもよく示しています。これは、柳田国男の非常に優れた本のひとつです。とくに、少なくとも、柳田国男は同時代をどうやってか捉えようとした、たいへん唯一のまとまった本で、これは非常に重要な本のようにおもいます。そこで、柳田国男がとっている方法自体も、とても重要なもののように思われます。

    5 柳田国男のイメージのつくり方

     ぼくらはこの柳田国男がとった方法というのを、いわば、ぼくらの言葉でいう共同幻想というものの捉え方のところまで、どうしてももっていきたいわけなんです。これは、柳田国男の捉え方を捉えながら、それから、ぼく自身の共同幻想についての現在の捉え方、あるいは、これから未来に起こるだろうこと、あるいは、未来についての捉え方というものに繋げていきたいわけなんです。どこかで繋げていきたいわけなんです。この柳田国男の方法というのをもうひとつ総合的なところでちょっといってみたいわけなんです。
     それは、どういうところでいったらいちばんいいかというと、柳田国男が、音のイメージ、色のイメージ、それから匂いのイメージもそうですけど、そういうイメージをつくるときに、どういう作り方をしているかということをすこしまとめて考えてみたいわけです。つまり、柳田国男という人の方法のなかに、様々な方法があるわけですけど、その根底にある色、匂い、香り、音というような、つまり、人間のわりあいに原始的な感覚というものと、それから、外側の自然とか、外側の風俗・習慣とかのかかわり方といいましょうか、それでもって民衆の生活を捉えていくという捉え方というものが、どういうところでいちばんイメージを結びやすいか、そして、そのイメージというのは、どういうところで特徴を捉えやすいかということをすこし考えてみたいとおもうのです。
     それは、柳田国男が『日本の祭』という文章の中で捉えている捉え方というのと、いまの明治大正世相史というのの中で捉えている捉え方の例をとってくると、とてもいいと思うのです。いくつかの例を柳田国男はあげています。
     ひとつは南の方の島でのことなんですけど、南の方の島について記録した数百年前の記録した本を読むとこういうことが書いてあると、それは、書いた著者が、ある時、旅で南の島へ行って、そして、行ったときに、海辺の浜のところで、神さまが白い衣を着て、そして、砂浜のところで、なにか踊りのようなものを踊りながら遊んでいたというのを、実際にじぶんは見たというふうに記録してあるということを言っています。これを実際に見て、神さまが薄い霧の中の海辺の砂浜のところで、何人か集まって踊りを踊っていたという、そういうのをちゃんと見たという記録をしているというふうに言っています。
     それから、そういう例がいくつかあるんです。その例がいずれも特徴があるわけですけど、それから、もうひとつは、あるとき、見ていたら、山のてっぺんから神さまが降りてきたと、それで、降りてきた神さまがどうするかというふうにおもって見ていると、それはずーっと歩いて山の麓まで歩いてきて、そして、どこにいくかと思ったら、そのときの南の方の王朝の王宮のある家の庭の中に入っていった。そこのところで大きな傘をそこに立てて、神さまがそこのところで、傘のところで集まって遊んでいたというのを実際に見たというような、そういう例をあげています。
     それから、もうひとつ、同じような例をあげているのですけど、あるとき見ていたら、神さまが白い馬にまたがって、そして、尾根のところをずーっと通っていくのを見たと、それを見てどこにいくかというふうに見ていたら、神社の裏にある小屋の中に神さまが入っていった。そういうのを実際にじぶんが見たというような例をあげています。
     この例を、ぼくのしゃべり方はまずいからあれなんですけど、柳田国男が例をあげているときに、実に鮮明にイメージが湧くように、柳田国男はその文章を描いているわけです。鮮明なイメージを読む者に喚起するように、柳田国男の文章は描かれていますけど、その鮮明なイメージというのをどういうふうに柳田国男が拵えているかというのをみて、いまの3つの例でも共通に探っていきますと、こういうことがわかります。
     つまり、じぶんが、神さまが浜辺で踊りを踊っているのを見たとか、馬にまたがって通っていくのを見たとか、あるいは、山の上から降りてきて、王宮の庭へ歩んでいくのを見たというふうにいう場合に、見たという描写自体が決して眼の高さで見ている描写ではないわけなんです。つまり、眼の高さで見ている、実際に見た人が眼の高さでそれを描いているというふうに見えないので、よくよく柳田国男の文章から浮かび上がってくるイメージをよくよく見てみると、そうじゃなくて、もうひとつ、わりあいに上のほうの、丘の上とか、とにかく上のほうから見ている人も含めて見ているというもうひとつの視線が浮かび上がってくるように、イメージがちゃんと浮かび上がってくることがわかります。
     つまり、柳田国男の文章の中で、しばしば鮮明なイメージを思い浮かべさせるところがあるわけですけど、そういうところは、必ずと言っていいくらい、眼の高さでそのことを見ているというよりも、眼の高さで見ているという情景も含めて、もうひとつ上のほうからそれをずーっと見ているというような、そういうイメージであることがわかります。
     だから、浜辺で神さまが踊り踊って遊んでいるのが見えたという場合でも、じぶんのほうの見えたという時の、じぶんのほうの、つまり、読者が感ずる眼の高さというのは、ちょっと上のほうから遊んでいる風景が見えるというような、そういうふうに見えます。そういうイメージが浮かび上がってきます。これは白い馬にまたがって、神さまが神社の裏の小屋に入っていったというような、そういう場合のイメージも、やはり、じぶんの背の高さの眼というよりも、もっと上のほうからそれも一緒に見ている、そういう視線から浮かび上がってくるイメージがちゃんと出てくるようにできています。
     わりあいに柳田国男の思い出しているイメージというのを探っていきますと、必ず、眼の高さで見える、あるいは、耳の高さで聞こえるとか、鼻の高さで匂いが嗅げるというような、そういうことを描いているのですけど、匂いのこと、音のこと、たとえば、色のことを描いているのですけど、もうひとつ、色とか、匂いとか、音を聞いている、もうひとつ別のすこし高いところからの、ひとつの感覚といいましょうか、そういうのがちゃんと浮かび上がるように描かれています。
     これは、とても柳田国男の文章、それから、いってみれば方法もそうなんですけど、柳田国男の方法の非常に大きな特徴だというふうにおもわれます。この特徴をもうすこし大きく広げるために、もうすこし、いくつかの例に敷衍してみようとおもいます。そうしまして、もう一度、柳田国男のイメージをつくる方法のところに、もう一度かえっていきたいというふうに思います。

    6 柳田国男の海のイメージ、風のイメージ

     いま、色とか、音とか、匂いとかについて申し上げましたけど、もうすこし、晩年になって柳田国男がやったことのなかで、たとえば、海とか、風とか、それから、陸地とか、それから、海を航海する船とか、そういうものについての柳田国男のイメージを展開したのが、わりあいに晩年になってから、70歳くらいになってからやった柳田国男の鮮明なイメージがあります。
     このイメージもやはり、ふつうの人が船に乗ってこういうことを体験したとか、あるところにいったら風がたくさん吹いてきてひどかったとか、そういう体験、つまり、ひとりの人間がじぶんの背の高さで地面を歩いていったときに体験した、海とか、風とか、それから、乗った船とか、そういう体験とはすこし違います。
     それはどこかもうひとつなにか斜め上のほうとか、もっと極端にいえば、真上のほうから、もうひとつ見ている、あるいは、もうひとつ聞いている感覚みたいのがありまして、そういうものでもって同人に体験していることがわかります。
     これは、たとえば、晩年の海とか、風とか、船とか、そういうものの感じ方の例をあげてみますと、柳田国男は南の方の島についてこういうことを言っているところがあります。たとえば、南の方の島、つまり、沖縄とか、奄美とか、そういうところの島で、沖縄本島なら沖縄本島で、沖縄本島の西海岸と東海岸というもので、たとえば、東海岸から島を半分まわって西海岸へいこうとすると、そうすると、それは船の距離でいいますと、10kmか20kmくらいしかない距離だと、ところで、沖縄の外れのほうの宮古島なら宮古島というところへいくには、直線距離で200kmかそこらあると、しかし、実際に舟でもって、舟でというのは汽船でという意味じゃない、つまり、いまの発達した船じゃなくて、昔流の艪で漕ぐ舟とか帆で走る船とか、そういう船に乗ったとすると、ほんとうは、沖縄の東海岸から沖縄の島を半分まわって西海岸の港へ行く、その十数kmの時間よりも、宮古島まで数百kmですけど、数百kmいく時間のほうが早いことがありうるんだということを言っています。
     そういうことはありうるんだ、太古の大昔の船とか海とかいうのを考える場合に、どうしても忘れてはいけないことはそういうことなので、十数km漕ぐ時間よりも数百kmを走る時間のほうが早く着くということがありうるんだということ、そうすると、距離感というものは変えなければいけない。つまり、船というものは一般に、いまの人は、船は機関がついていて、時速何ノットとかで走れば、十数km走るほうが、数百km走るより早く着くに決まっているというふうに思っているかもしれませんけど、大昔の舟、つまり、機械がないときの舟というもの、艪で漕ぐ舟とか、帆で走る船という場合には、数十kmいくよりも、数百kmいくほうが早く着くということがありうるんだ。
     それはなぜかというと、ひとつは潮の流れというのがあるんだ、それから、もうひとつは風があるんだということです。つまり、潮の流れと風の如何によって、数百kmの距離のほうが、十数kmの距離よりも短いということがありうるんだということを海について柳田国男は晩年近くにそういうイメージを提出しています。
     これはとても重要なので、もし、ぼくらが船に乗ったら船に乗ったっきりの体験でもって言ったり、あるいは、船の高さといったらおかしいですけど、海なら海の海面の高さでもって、物事を体験しているだけだったら、そういうイメージは出てこないし、そういう認識は出てこないわけなんです。
     だからもうひとつ、柳田国男の場合には、海というもの、あるいは、海を走る船という場合に、海を走る船というものをもうひとつ上のほうから見ているひとつの眼といいましょうか、そういうものがあって、あるいは、感じている感覚があって、それが一緒にいつでも加わっているということがとても特徴だとおもいます。ですから、そういうものが加わっているから、つまり、実際にやってみれば、十数km走るよりも数百km走るほうが早いんだ、早く着いちゃうことが実際にありうるんだということを言っています。
     そうすると、ぼくらが海というものを考える場合に、考え違いをしていっちゃいけないと、つまり、数千km離れているからそれは遠いのであって、数十kmだから近いんだと考えたら、それは間違うのであって、場合によっては、数十km海を渡るほうが数百km渡るよりも近いんだということがありうるんです。つまり、海というものはそれほど伸縮自在のものなんだというふうなことを柳田国男は言っています。

    7 眼に見えない生活の地勢を重ねる

     そこからまた、もっと重要な概念が一緒に伴ってきます。それは何かといいますと、たとえば、沖縄の島なら島です、南の国のほうの島ですけど、そういうふうに東海岸から十数kmあれして、西海岸へ行くのがそんなにむずかしいということがあるから、それからまた一方で、同じ東海岸を数百kmいくほうが早く行けるというようなことがあるから、重要なことは陸地というのも同じなんだということを言っています。
     たとえば、沖縄の島の東海岸に住んでいる人と、西海岸に住んでいる人が、まったく別の系統の人だということがありうるんだということを言っています。つまり、陸地を横断すれば、島を半分まわって十数kmならば、陸地で直線距離で行ったならば10km足らずで行っちゃうというようなところであっても、その10kmの間で、まるで住んでいる人の系統が違うんだということがありえますよということを言っています。
     これもまた非常に重要な認識です。もし、ぼくらが陸地の十数kmは誰が勘定したって十数kmであって、自転車で行けばいくらであって、自動車で行けばこのくらいだというふうに、そういうふうに固定的に考えるならば、そういう認識はちっとも出てこないわけなので、ところが、柳田国男の場合には、必ず、もうひとつどこかから見ている大きな眼というのが一緒に必ず加わっています。だから、加わっていますから、幅にすれば10kmぐらいしか離れていない西海岸の人と東海岸の人がぜんぜん別系統だということがありうるということを言っています。
     それから、もっと極端なことをいえば、別の人種だということがありうるということを言っています。実際問題として、たとえば、柳田国男は例をあげていますけど、奄美大島で、東海岸の人は、九州とか、そこらのところと同じ言葉を使って、同じ系統の人だった。ところが、そこから陸地でいけば8kmか9kmくらいの西海岸の人たちというのは、言葉がぜんぜん違う言葉だったと、それが、わずか陸地でいえば10km足らずだけれど、そういうところで、ちゃんと背中合わせといいましょうか、ちゃんとそういうふうに住んでいるということがあったということを言っています。
     つまり、柳田国男の認識で非常に大切なことは、陸地というものも、日本みたいな島国の場合には特にそうなんですけど、海の十数kmが数百kmよりも遠いんだということがありうると同じように陸地というのもそれに伴って、西海岸と東海岸がまるで違うんだとか、人種さえ違うんだ、系統も違うんだというようなことというのはありうるんだ、わずかそれは、直線距離の陸地で行っちゃえば10km足らずのところだったとしても、そういうことがありうるんだということを、柳田国男はたいへんはっきりさせています。
     このような認識は柳田国男の民俗学にとっても重要な認識だったわけですけど、これは一般論としてみて、柳田国男という人の民俗学がもっている非常に重要な意味というものは、そういうところにあるとおもいます。それはいってみれば全部に敷衍できることだったわけです。つまり、柳田国男にとっては日本の国土といいましょうか、土地全部について、そういうことが言えることだったわけです。
     たとえば、海上交通ができる日本海側でもって、必ずしも、山形県の酒田と弘前はそんなに遠くはないんだ。日本海側の海上交通というのはできますから、そんなに遠くはないし、文化というものの伝播の仕方も、そんなに遠くはなく伝播していることはありうるんだと、たとえば、しかし、盛岡というものに、京都なら京都のほうから新潟のほうに寄り、それから、酒田に寄り、そして、弘前のほうへいくという、そういう船の便があったとすると、それはひとつの系統が付けられるわけですけど、それじゃあ、盛岡なら盛岡という内陸地というものはどうなんだといえば、その系統には、たぶん、文化の系統が入らないとおもいます。入る場合には、たとえば、弘前なら弘前とか、そういうところから、文化が内陸を通って、そして、盛岡に来るという、そうすると、盛岡というところは、京都からみると、弘前よりも遠いんだということがありうるわけなんです。こういうことがありうるということなのです。
     このことがとても重要なことなんです。つまり、陸地とか、海とかというものを、ただ自然天然物というふうに考え、そこを人間は船で航行するんだとか、歩いていくんだとふうに考えるだけだとしたらば、それはリアリズムには違いありませんけど、そういう認識、つまり、数十kmのほうが数百kmよりも遠いことがありうるんだとか、文化というものの伝わり方が、遠いところに早く伝わって、近いのに遅く伝わるということもありうるんだということ、それから、人間が歩く場合でも、そういうことはありうるんだということ、そういうような、伸縮自在で、ほんとうは実情に即したそういう考え方というのは出てこないとおもいます。
     つまり、これが柳田国男のたいへん重要な認識であったわけです。これは、柳田国男がどうやってじぶんのイメージといいますか、物事のイメージ、音のイメージ、色のイメージ、それから、香りのイメージというのはどうやって作っていくかというような作り方についての柳田国男の重要な方法が、いわば、晩年になって華を開いたというふうに言えるとおもいます。

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  3. shinichi Post author

    8 「海上の道」

     つまり、このような認識でもって、実際問題として、柳田国男がどういう成果をあげているかということを申し上げてみます。ぼくがアレンジして申し上げてみます。そうするとこうなわけです。これはいまはほとんど否定されているわけですけど、そのことはどうでもいいといいますか、この際は第二義的なことだとおもいますけど、日本の水稲稲作です。つまり、水田耕作ですけど、水田稲作が伝わったのは南の島からだというふうに、大陸から南の島へ伝わったというふうに言っています。大陸人は南の島づたいに日本の本土に稲作というものをどんどん伝えて、東北まで伝えてきたんだというふうに、柳田国男はそういう考え方をしています。それを柳田国男は「海上の道」だと言っています。
     そうしますと、どういうことが、柳田国男のいまの海のイメージ、風のイメージ、船のイメージということから、どういうことが言えるかといいますと、柳田国男はそうして南の島づたいに稲作の方法をもった人たちが島づたいに伝わっていって、南九州のどこかにとりついたというふうに言っています。南九州のどこかにとりついたというふうに言っています。
     そうしておいて、南九州から稲作をもっていった人たちは、どうしたんだろうかというふうなことになるわけですけど、柳田国男はそこで、海の問題ということが問題になるわけです。そうしますと、柳田国男のいま申し上げました海のイメージ、船のイメージからしますとこうなわけです。つまり、本土の、つまり、日本の島を太平洋岸をつたって、船が航行していくというのは、つまり、陸地近くを航行していくというのは、いま言いましたように宮古島に100kmいくほうが簡単な、つまり、反対側へ行く十数kmよりも簡単なんだというような、その考え方を延長していきますと、太平洋岸を島づたいに船に乗った人たちが通っていって、たとえば、南九州に行き、土佐沖を通って紀伊半島に行き、そして、房総半島に行き、そして、金華山沖に行きというような、そういうふうな行き方は非常にやさしかったということを言っています。だから、これは竿とか、艪とか、帆とか、そういうのしかない時代であっても、その航行はできたはずだというふうに柳田国男は言っています。
     ところで、そうじゃなくて、九州の、いまでいえば宮崎県ですけど、宮崎県のところから豊後水道というのを通って、瀬戸内海を通って大阪とか、近畿地方ですね、そういうところへいくという、この航路というのは、急流とそれから風の具合とで、これは相当な航海術と、相当大きな船がなかったらできないはずだというのが柳田国男の考え方です。
    〈テープ飛び〉
     大阪地方、つまり、畿内に入っていくのだから、これはやさしそうにみえるけど、ほんとうはそうじゃないと、豊後水道と北九州のほうでいえば、馬関海峡というんでしょうか、つまり、下関のあたりの海峡を通って、そして、瀬戸内海を通って近畿地方までいくという、その航路は急流であり、風の方向と急流というのを考えると、これは相当の航海術が発達して、大きな船が操れるようにならなければ、ここは通れなかったはずだというふうに言っています。
     そうすると、ここを通るという考え方というのが成り立つのはそうとう後になってからに違いないというのが柳田国男の考え方から当然でてくることなんです。それに比べれば、南九州から土佐沖を通って、紀伊半島のところをかすめて、ずーっと関東地方を通って、それから、金華山のところまでくるというような、そういうことは、わりあいにそんなにむずかしくなかったんだというのが柳田国男の考え方なんです。これはかなり早い時期から、むしろ海岸づたいに人が行っていたに違いないというふうに、柳田国男はそういうふうに考えています。

    9 神武東征伝説をどう考えていたか

     ところが、皆さんが日本の『古事記』とか、『日本書記』というのをご覧になればわかりますけど、『日本書記』とか、『古事記』とかでもって、神話の中の神武天皇というのは、九州から、日向の国から東征してというふうに神話の中に書いてあります。東征して瀬戸内海であれして、まず広島へ、安芸の国ですね、広島にまず渡るというふうに書いてあります。広島へ渡って、広島県のどこかで7,8年とまって、それから、岡山県、つまり、吉備の国ですけど、岡山県のところへいって、そこで7,8年とまって、それから、いまの大阪湾のところですけど、そこのところへ入ろうとしたら、土地の豪族、つまり、長髄彦に遮られて、追っ払われちゃった。仕方がないから、紀伊半島を回って熊野のほうから上陸したというふうに神話の中に書いてあります。
     そうすると、この神話の記述というのはあきらかに、伝承であれなんであれ、そういう記述は瀬戸内海を通って航海していることは確かなわけです。ですから、柳田国男流の認識からいけば、これはかなり航海術と、かなり大きな船を操れるようになってからじゃなければ、この行き方というのは成り立たなかったはずなわけです。
     そうしますと、柳田国男という人は、そういうことはあまり気にしなかった人ですけど、いわば、神武伝説ということについて、どういうふうに考えていたんだろうか、あるいは、日本の初期の王朝、神武、綏靖、安寧、懿徳という、崇神天皇まで10代くらいでしょうけど、この初期の日本の王朝というものの成立について、柳田国男はどういうふうに考えていたんだろうかということを推測することができます。
     柳田国男によれば、瀬戸内海を通っていくには、相当大きな船と航海術が発達して、大きな船が操れるようになってからじゃなければ通れないはずだと言っているわけですから、もしも、神話の中の初期王朝の勢力が九州から来たんだとしまして、柳田国男の稲作をもった人たちが、南九州に南の島からとりついたと、それとどういうふうに妥協すれば妥協できるかというふうに考えると、妥協できるのはただひとつの妥協点しかないということがわかります。
     それはどういうことかといいますと、ようするに、南九州あるいは九州沿岸から瀬戸内海を通って、大阪あるいは畿内、近畿地方へ行くというような、その行き方と、それから、南九州から土佐沖を通って、紀伊半島から近畿地方へとりつくという、そういう航海の仕方のむずかしさ、難易度といいましょうか、むずかしさ、やさしさが同じになった時期というのを考えますと、その時期が神話の中の初期王朝の伝承の人物が瀬戸内海を通って近畿地方へいったというその時期と一致するということがわかります。
     つまり、柳田国男流にいいますと、ようするに、神話の中の神武天皇というのは、実在であるか、伝承の人物であるか、架空の人物であるか、それはどうでもいいと、それからまた、九州から瀬戸内海を通って、広島にとどまったり、岡山県にとどまったりして、ついに奈良地方へ入っていったんだというような、そういうふうなことが事実であろうとそうでなかろうと、そういうことはどうでもいいんだと、しかし、如何にして人は、九州から近畿地方へ、如何にして瀬戸内海を通っていけるか、あるいは、瀬戸内海を通っていったんだという伝承が、如何にして成り立つかといえば、ようするに、瀬戸内海を通る行き方の航海の仕方の難易度というものと、それから、土佐沖を通っていく難易度とがほぼ同じになったんだという、そういう時期を考えれば、そうすれば、その時期以降は瀬戸内海を通って、九州から人がいこうがいくまいが、それは事実であろうがあるまいが、そういうことは可能であったんだということがいえるとおもいます。
     たぶん、そこが柳田国男の考え方と、いわゆる神話、『古事記』、『日本書記』に書かれている初期天皇、初期大和王朝の、九州から近畿地方へ侵入していったんだという、その伝承とが、いわば妥協できるといいますか、一致できる地点といえば、唯一いま言いましたように、そういうことになっていくわけです。つまり、海というもの、風というものの認識、それから、船というものの認識が、いわば、東海岸を通るのと、西海岸を通るのとが、難易度が同じになったんだ、それは航海術あるいは船の大きさが発達したために、難易度が、むずかしさ、やさしさが、同じになったんだという時期こそが非常に重要なことであって、その時期以降であったらば、そのような伝承が成り立ちうる余地があるというのが柳田国男の考え方だとおもいます。
     つまり、柳田国男はいわば常民というものを主に日本の歴史を考えていますから、必ずしも王朝、あるいは権力者がどういうふうにして、それが事実であるかどうであるかということについて、柳田国男は第一義的な関心をもたなかったわけですけど、あるいは、第一義的にほとんど何も言わないできたわけですけど、しかし、柳田国男は、ほんとうは言おうとおもえば言えたんだと、じぶんの考え方はこうだということを言えたということを推測してみれば、いまのような推測が成り立ちます。つまり、あくまでもそれは柳田国男の方法のなかにあるイメージの作り方、海のイメージの作り方、それから、船のイメージの作り方というものから出てくる考え方なわけです。
     そして、いまのような考え方を敷衍していきますと、柳田国男の方法から考えられた神話・伝承というのはどういうふうに考えたらよいかということが自ずから出てくるということが言えるとおもいます。これはやはりとても重要なことのように思われます。
     ところで、今度は柳田国男の方法の弱点といえるものはどこにあったんだろうかということをちょっと申し上げてみます。それは、いまの晩年の海とか、風とか、陸地とか、そういうものの考え方について、弱点というのをあげてみれば、すぐにわかるわけなんですけど、それは主として、海、風についてのイメージの作り方にともなう、陸地のイメージの作り方のなかに、柳田国男のあらを捜そうとすれば、欠陥がなくはないとおもいます。
     その欠陥は何かといいますと、柳田国男は西海岸と東海岸というのは別系統でありうるということは、いま言いましたように、明瞭なイメージを、海と風のイメージから明瞭につくりあげています。人間も別系統でありうるのだと、いくら背中合わせに近いからといって同じだとは限らないですよと、大違いだということはありえますよということを言っているわけです。

    10 南北のイメージはよくつくられていなかった

     ところで、柳田国男の海、風あるいは船というものに伴う陸地のイメージの作り方で弱点とおもわれるものは、2つあるとおもいます。ひとつは、南北の陸地のイメージの作り方というものが、柳田国男のイメージの作り方はあまりよくなかったんじゃないかなというふうにおもわれます。これがひとつの弱点です。
     西海岸と東海岸というのは、いくら近くても遠いことはありえますよとか、西の海を通るのと、東の海を通るのと、つまり、日本海を通るのと、太平洋を通るのとは別系統であることはありえますよということは言っていますけど、南の陸地と北の陸地とは、どういうふうに違って、どういうふうに同じなのかということについては、柳田国男はたいへん不完全な考え方しかとれなかったようにおもいます。
     これはなぜかといいますと、海のイメージをつくる場合でも、海の流れの方向というもの、風の方向というものだけでは、南のほうの陸地と北のほうの陸地とは違いますよということ、あるいは、同じところがありますよということ、それはどこが違い、どこが同じだということを言うのはとてもむずかしいからだ、つまり、イメージをつくるのはむずかしいからだというふうにおもわれます。
     そのためにどういうことが起きたかといいますと、柳田国男の民俗学は皆さんご承知のとおり、『遠野物語』から始まったわけですけど、『遠野物語』のなかにもある、いちばんの関心というのは、柳田国男が山人、つまり、山の人というふうに呼んでいるものです。つまり、農耕の人じゃないということ、稲作を伝えて日本に渡ってきた人じゃない、そういう人たちについての関心というものは、柳田民俗学というものの始まりなんですけど、柳田さんはこれについて、ぼくらの考え方からすれば、いまの水準の考え方からすれば、たいへん欠陥の多い考え方をしているとおもいます。
     どうしてかといいますと、柳田さんが水稲稲作をもって、稲作の栽培方法をもって、南の島からどんどん北のほうに次々に渡っていった、そういう稲作をもった人というのを柳田さんは日本人というふうに呼んでいます。柳田さんが山人というふうにいったものは、異民族、異人種だというふうに柳田さんは考えようとしています。
     しかし、この考え方からしますと、日本人というのは弥生人から始まる、つまり、水稲稲作をもった人がやってきてから初めて日本人というのが始まったというふうに、あるいは、日本人というのは、水稲稲作をもって弥生時代、つまり、縄文時代の末期に日本列島を南の方から渡ってきた、そういう人たちだけで日本人という概念をつくらなくちゃならなくなってしまいます。
     しかし、この欠陥はおかしいのであって、それだったらば、水稲稲作が日本にくる前には、日本には人が住んでいなかったことになれば、非常に甚だ都合がよろしいのですけど、そんなことは絶対に考えられないので、縄文時代も、縄文時代以前にも日本の国土の中には、つまり、島の中には人間は住んでいるのであって、どれくらい前から住んでいるかはなかなか確定できないとしても、とにかく遥かそれより以前から日本の島の中には人が住んでいるのであって、だから、柳田さん流の言い方をすると、日本人というのは稲作をもってどこか南の方の島から渡ってきたので、それが日本人だということになってしまいます。そうすると、日本人というのは、わずかな薄い層でしか考えることができなくなってしまいます。
     この柳田さんの欠陥というのは、どうして起こったのかといいますと、ぼくらがいま申し上げました方法でいえば、南と北、つまり、西の海と東の海というものについてのイメージは鮮明でありましたけど、南の島と北と、あるいは、南の海と北の海というような、そういう海についてのイメージの仕方というのは、必ずしも柳田さんのなかで充分でなかったんだ。つまり、充分なイメージが拵えられてなかったんだということが、ひとつの大きな原因だというふうに、ぼくには思われます。

    11 標高差のイメージの違い

     それから、もうひとつあげてみますと、柳田さんには、もうひとつ、海、風に伴う陸地のイメージの作り方でもうひとつ、柳田さんには弱点とおもわれるものがあります。それは、いまの言葉でいってしまえば、海抜といいましょうか、標高といいますか、標高差ということです。
     つまり、同じ陸地でも標高100mの平地もありますし、標高2000mの山もあるし、それから、標高500mの小さな丘もありますしというふうに、つまり、標高というのがあります。柳田さんのなかで、同じ陸地でも標高の違いということ、あるいは、海抜というものの違いということが、何を意味するのかというイメージはそれほど明瞭でなかったんだということが言えそうな気がします。
     この標高差というもののイメージがつくれなかったために、たとえば、柳田さんはどういうことを言っちゃっているかといいますと、ようするに、南の方から、いま言いましたように、水稲稲作をもった人たちが南の島づたいにやってきて、本土をどんどんどんどん北の方にやってきて、稲作を広げていったといえます。そして、その勢力が、特に関東以北ではそうですけど、元々その土地にいた人たちを山のほうに追い上げてしまったんだと、追っ払われて山のほうに追い上げられてしまったんだというふうに、柳田さんはそういう言い方、あるいは、そういうイメージを思い浮かべています。
     しかし、ぼくらはそう思いませんので、水稲稲作をもった人たちが入ってきた時に、もし、それまで山に住んでいる人たちがいたとしたら、たぶん、その人たちは平地のほうに入ってきて、水稲稲作をもった人たちと、いわば混交して、技術をそこで習ったりというふうにして、じぶんたちも水稲稲作の人に変わっていっただろうとおもいます。
     つまり、水稲稲作をもった人たちがやってきたら、山のほうにそれまでいた人たちは追い上げられてしまったというのは反対であって、山のほうにいた人たちは、それまで平地のほうになかなか下りてこなかったんだけど、水稲稲作をもった人たちが稲作の作り方を徐々に広げていったときに、それを習わんとして下のほうにどんどんどんどん下りてきただろうというのが、ほんとうのイメージじゃないか、つまり、山の人についてのほんとうのイメージじゃないかというふうに、ぼくには思われます。
     ところが、柳田さんは標高差ということについてのイメージがあんまり明瞭でなかったために、追っ払われて山に追い立てられちゃったんだという言い方をしているとおもいます。それはまったく逆だとおもいます。山にいた人たちは下へおりてきただろうというふうに、全部が下りてきたわけじゃありませんけど、下りてきてじぶんも水稲耕作を習って、じぶんも作り始めただろうというふうに、ぼくには思われます。それが正しいイメージのようにおもわれます。
     柳田さんの標高差のイメージがなぜ狂ってしまうかといいますと、それはたぶん、標高差如何によっては、いまより3000年近く前の弥生時代初期の陸地というものと、それから、縄文時代の陸地とは、まるで海抜が違っていた、つまり、ぼくは、柳田さんが山人と言っている人たちは、わざわざ山の奥に住んだんじゃなくて、やはり、水の近くの迫った山のところに住んでいたんだというふうにおもいます。つまり、弥生時代になったら、もっと後になったら、陸地であったところは、その頃、海であったんだと思います。だから、縄文時代に山の中に住んでいた、柳田さんが山人と言っている人たちも、ほんとうはわざわざ山の奥に住んでいたわけではなくて、山の中でしか住めなかったので、つまり、平地があまりなかったので、平地があるとしても、山の際のごく狭いところだけに平地があって、あとはぜんぶ水だったんだ、つまり、海だったんだよというのが、たぶん、正しいイメージのような気がします。
     柳田さんはその場合に、標高差というイメージが明瞭でなかったために、柳田さんは陸地とか、海とかというのが縄文時代も、弥生時代も、それから、古代国家ができた時も、ぜんぶ同じだと無意識のうちに思っていたところがあります。だけど、それはたぶん違うのであって、弥生時代に陸地であったところでも、平地であったところでも、縄文時代には海であったって、だから、山が迫って、海の際にほんのちょっぴりしか平地がなかったというような、そういうところに、いわゆる柳田さんの考えた山人というものは、そういうところに住んでいたので、別にわざわざ山の奥に住んでいたんじゃないということ、それから、だんだん干上がっていって、たとえば、縄文晩期になって、弥生時代初期になって、ずいぶん陸地が干上がってきて、平地もできて、湿地帯であって、そこで稲作もできるようになったというような、そういうふうになった、そういうときに稲作をもった人たちが、どんどんどんどん入ってきて、湿地帯で水稲耕作をやるようになったというようなことだと思います。つまり、そのときべつにわざわざ山の中にいたわけじゃなくて、山のすぐ下は海だったから、あまり住めなかったんだよというだけであってというのは極端かもしれませんけど、それに近いのであって、イメージが正しいのであって、それは弥生時代になって平地が干上がって、しかも、湿地帯として干上がるものですから、そこが稲作、特に水稲耕作がやりよかったので、そこへどんどん入ってくるということになったんだ、そうしたら、山に住んでいた人は徐々に下へおりてきたんだという、下りてじぶんも水稲耕作をやるようになったんだと、もちろんやらないでずっと伝統的に山の人として、山の職業に携わった人もいるわけですけど、そうじゃなくて、大部分の人たちは平地に下りてきて、じぶんも水稲耕作に従事してしまったというのが、ぼくはほんとうのイメージだとおもいます。
     まことらしいイメージであって、柳田さんのように水稲耕作をもった人が来たものだから、山に追い上げられて山の中に入っていっちゃったんだという、山人はそういうふうに追っ払われちゃったんだという、そういうイメージをつくっているとおもいますけど、それはたぶん違うとおもいます。
     つまり、柳田さんの海と風についての認識というものは、南北の陸地についてのイメージ、それから、ようするに標高差について、海の高低についてのイメージというのは、そんなによくつくられていなかったということがいえると思います。
     そこがいってみれば、柳田さんの方法のなかにある弱点であって、現在のように、日本人といったら、もちろん縄文時代から日本人でありますし、それから、もちろん、それ以前から日本本土に住んでいた人たちはいるわけで、それもまた、だんだん日本人という範囲がそういうふうに遡って広がりつつある現在のような観点からみますと、柳田さんの弱点というところは、いってみれば、いま言いました陸地についてのイメージ、標高差についてのイメージ、それから、海抜ということ、つまり、海の水の嵩というものについてのイメージがそれほど西海岸・東海岸というイメージに比べたら、はるかに明瞭でなかったという、鮮明でなかったということが、弱点として言えるとおもいます。
     それがたぶん、柳田さんの考え方をもし、ぼくらが、つまり、あとにくる人たちが全部それを修正したり、これに加えたりしなければならないことがあるとすれば、そういう点にかかってくるというふうに、ぼくにはおもわれます。そしてまた、現にそういう点にかかりつつあるというふうに、ぼくには見えます。

    12 柳田国男のイメージと現在の共同幻想

     もういちど、ここから柳田さんのイメージの作り方というようなところに還っていって、それならば、柳田さんが『明治大正史』でわずかにひとつだけ試みて、それ以上、ちゃんと試みることを諦めてといいますか、やめてしまいました、現在、いまの同時代についてのイメージと、それから、これからどういくだろうかというイメージをどうやって作っていったらいいんだという問題に入っていきたいというふうにおもいます。
     ここらへんからは、柳田さんの方法であるか、あるいは、柳田さんのことであるか、ぼくがじぶんのやっていることかわからなくなるとおもいます。つまり、両方がむちゃくちゃに混じってくると思いますから、そういうようにお聴きくださればいいとおもいます。
     先ほど言いました柳田さんのイメージの作り方というものは、いつでも、海なら海、それから、船なら船、陸地なら陸地という、それ自体につくというイメージじゃなくて、それ自体につきながら同時に上のほうからといいますか、もうすこし大きなところからといいましょうか、高いところからといいましょうか、もうひとつ全体的なところから眺めている眼というのがあって、そのふたつが組み合わさって、海のイメージをつくり、陸地のイメージをつくり、風のイメージをつくりということを柳田さんがやるというのが、柳田さんの特徴だというふうに申し上げました。この特徴というのはどういうふうに有効かということを、これから申し上げてみたいとおもいます。
     ぼくが現在、海のイメージでも、山のイメージでもいいのですけど、ぼくは特に都市のイメージみたいなもので、ぼく自身は考え、そして、やってきたわけですけど、そのイメージをつくる場合に、どういうイメージをつくる作り方が可能かという、そういうことを、ぼくはぼくなりに考えたわけです。その考え方は、柳田さんが、いま言いましたイメージの作り方、海のイメージの作り方、陸地のイメージの作り方、風のイメージ作り方というのが非常に重要だということと重なってしまうわけですけど、ぼくはその柳田さんの方法をひとつここで重ねて申し上げますけど、ぼくはもう2つ重要なイメージの作り方があるというふうに考えたわけです。
     その作り方は何かといいますと、ひとつは現在の科学技術というのが作りだした、非常に高次元なイメージがあるわけなんです。この高次元なイメージというのは、どういうふうに言ったらいいかといいますと、ぼくは、それは筑波の科学万博の富士通館という、富士通というのはエレクトロニクスの会社ですけど、富士通館というところでそれを見たわけですけど。
     どういうイメージかといいますと、こういう会場がありますと、皆さんがそこで見ているとしますと、天井の周辺というのは全部スクリーンにするわけです。そうしておいて、皆さんのいまいる椅子というのはもっと高いところに上がっているというふうに仮定するとします。そうしておいて、色差式の眼鏡なのですけど、色の違ったブルー系統と赤系統の違った眼鏡をかけるわけです。そして、そこに映像を投影しますと、その映像は浮き上がってやってくるわけです。それで、動く映像をそこにつくって映写しますと、それは全部、眼の前に前後左右、立体的に浮かび上がって、サーッと飛び交ってくるわけです。そういうイメージがつくれます。しかも、居る椅子がぜんぶ高くなっていますから、高さができていますから、その人はどこを見回しても立体映像が飛び交っている、じぶんもそのなかにいるというふうに置かれるわけです。見るものと見られるものというのが同じ空間にいて、しかも立体映像が飛び交ってきます。〈テープ飛び〉ようするに、隙間がないわけです。つまり、スクリーンに映して、それを眼鏡をかけて、飛び出してくる立体映像をつくったら、そして、スクリーンの外に眼をやったら、現実の空間が見えますから、たちまちすぐにわかっちゃうわけです。ところが、どこを見回しても、作為的にみれば見られますから、そうしないかぎり、どこを見回してもどこにも隙間がありませんから、つまり、じぶんは完全立体映像が飛び交った、そのなかに、じぶんが存在するというような映像が得られます。つまり、そういうふうに映像がみえます。
     その映像は、極端にいいますと、かつて見たことがない映像です。つまり、見たことがないというのは、ぼくが見たことがないのはもちろんでしたけど、ようするに、かつて人間が見たことがない映像だったわけです。つまり、映像をつくったわけです。それは一種、四次元的な映像なわけなんです。つまり、どこにも隙間がありませんから、現実の空間のどこを見回してもないですから、そうしておいて、じぶんがそのなかにいるというかたちで、前後左右に立体的な映像が動いてきますから、たとえば、動物なら動物がここをスーッと通っていくように見えますから、どこにも隙間がありませんから、それは四次元の映像を見ているのと同じで、かつて人間がつくりあげた映像のなかでは、いちばん高次な次元の映像です。いってみれば、現在考えられる究極映像というふうにいえます。
     つまり、究極映像というのは、たとえば、皆さんがしている時計というのは非常に正確で、つまり、1か月に数秒間しか違わない時計が1000円近くだせばできるというのはあるわけです。つまり、そうなったら、時計というのは究極時計となっているわけです。つまり、時計というのは時を正確に計り知るということが目的だとすれば、たぶん、究極の時計というのはすでにできちゃっているわけです。それと同じように、たとえば、カメラというのもだいたいそうだとおもいます、ミノルタα‐7000というのは、たぶん、究極カメラに近いわけだとおもいます。そういうふうに究極のものができちゃっているものがあります。
     それと同じ言い方をしますと、その映像は究極映像なわけです。つまり、四次元映像なわけです。絶対に立体的にはできないわけで、四次元映像をそこに出現させないとできないわけなんです。だから、たぶん現在考えられている究極映像というのが、そこに出現されているわけです。これは富士通館がやってみせたわけです。それは、ぼくには衝撃的でありましたし、たぶん、それは大げさなことをいうと、人間が初めて見たし、初めてつくりあげた映像なわけです。だから、ぼくは、ひとつはその映像というものが重要だというふうに考えたわけです。

    13 『遠野物語』にも出てくる高次映像

     もうひとつ重要だと考えた映像があるわけなんです。それは何かといいますと、これは人間が初めて体験した映像というふうに言いましたけど、ほんとうはそうじゃないので、『遠野物語』の中にもありますし、よく死にかけた人が、つまり、交通事故かなにかで死にかけて意識を失ったんだけど、また生き返った人とか、『遠野物語』に出てくる人が死にかけたら、いつのまにかじぶんは空中を飛んで、きれいな橋の傍にいて、むこうに手招きするやつがいるんだけど、誰かが来て、帰れ帰れって言ったから、行きたかったんだけど、帰ってきたら俺は生き返ったという、そういう話が『遠野物語』の中にいくつかあることをご存じだとおもいます。
     つまり、その映像はもっとわかりやすくいうと、死にかけた人が生き返った人のそういう手記をみますと同じことが書いてあります。死にかけたとき、じぶんは何か知らないけど、空中高く、じぶんが上がっていたんだと、それで下を見たら死にかけている自分がベッドの上に横たわっていて、看護婦さんや医者が大騒ぎして、近親の人が泣きべそかいてとりすがったりしているのが見えたというふうに、そういう体験をよく書いてあります。それで、じぶんはそういうあれから生き返って、あの時こうだっただろうというふうに看護婦さんに言ったら、看護婦さんがどうしてそんなことがわかるんだと言って驚いたということを、よく瀕死の体験をして帰ってきた、つまり、生き返った人の体験をみますと、そういうことがたくさん書いてあります。
     これは、『遠野物語』に書いてあるのと同じ、死にかかった人がこういうのを見たというのと同じでありますし、昔からの日本の宗教が、宗教的修行でもって、じぶんは死の曼陀羅の世界を彷徨って、それで帰ってきたとか、そういう体験というのは仏教の体験であるわけで、また、仏教の修行の仕方のなかにもあるわけですけど。そういうののなかにあるから、筑波万博の富士通館が初めてつくったというのは、ほんとうはそうじゃなくて、死にかけた人は体験しているということがいえます。この体験は、実際にじぶんが死にかけているというのに、死にかけているじぶんが上のほうから見えたという、そういう体験に帰着します。この体験はいってみれば、筑波万博でつくられた高次映像というものと同じことを意味します。
     それから、これは柳田国男のイメージの作り方、つまり、風のイメージの作り方、海のイメージの作り方というののなかにある、何か上のほうからもひとつ見ている、そういう視線というものがひとつあるんだというそういうのと、やはり同じところがあります。この種の映像の作り方というのはとても重要だというふうに、ぼくには考えられます。
     ぼくはその2つ、ですから、柳田国男の方法も一緒にいいますと、柳田国男の方法も入れて、その3つの方法というものに共通した点があります。共通した点をむしろ理屈付けるために、共通した点を抽出しています。つまり、理屈付けるために、共通したイメージをどういうふうにしたら基本的につくれるかということを考えてみますと、それは容易いことであって、垂直に真上から見る視線というものと、それから、眼の高さで地面に水平に見える視線というものと、つまり、水平に眼の高さで見える視線で眼に見える視覚像があります。その像とそれから真上から見える像があります。だから、その像は同時に、どちらか一方じゃなくて、同時にそれが行使されて、同時に使われて見える像といいますか、描けるイメージといいましょうか、それに結局はいまの高次映像というものは、その2つに帰着します。つまり、真上から見る視線と、真横から水平に眼の高さで見える視線とが、一緒に行使されてできあがった映像というのを考えますと、いま言いました高次映像ないしは柳田国男の方法の根底にあるそういうイメージというのと同じだということがわかります。
     つまり、それらの高次映像、あるいは、それらのイメージというものは分解してみれば、地面に水平な視線と、それから地面に垂直な視線というものが交叉して、それが同時に行使されたときにできあがるイメージというものを想像すれば、それがいま申し上げました高次映像だということが言えるとおもいます。そういうふうに分解できるとおもいます。そうしますと、いまの映像の作られ方というものは、いわば、一般的な原理として使うことができます。使ってみることができます。それがぼくなんかが考えたことであるわけです。柳田さんの方法のなかにある明晰なイメージをつくる作り方というのも、やはり分析してみれば、そういうことに帰着するとおもいます。
     このイメージの作り方を分解するやり方というのは、かなり有効だということがいえます。これは、ふつう一般に我々が眼でもって物事を見ているのは、ほんとうを言うと、どういうことかというと、眼の高さで地面に水平な視線でもって、人を見ているとか、風景を見ているとかいうのが、我々が一般に見ているものであり、見ているものの像であるわけです。像はそういうふうにできているわけです。
     ところが、同時にそのときに上からも視線があって、それを見ているんだよというふうに、イメージを思い浮かべることができれば、それはかなり高次な、高度なイメージだということがわかります。だから、そういうふうに行使されているのが、たとえば、柳田国男の方法の根底にあるものでありますし、それから、富士通館が実現し、そして、死にかかった人が生き返ったときに、おれはあの世のところに橋があるのを見てきたよとかいうふうに言っているのは何かといったら、そういうイメージなわけです。
     これは、人間が修練してそのイメージをつくる、つまり、死にかかったじぶんが真上から見えたというような、この手の修練というのは、仏教がよくやっている修練でありまして、これはたぶん意識を意図的にある水準で、ある度合いのところに意識を減衰させていく、つまり、意識をどんどんどんどん衰えさせていくのです。人為的に衰えさせていくのです。つまり、死んだら意識がなくなっちゃうわけですけど、死ぬ直前のところぐらいまで、意識を意図的に減衰させていきますと、その種の映像は得られることがわかります。わかりますというのは、ぼくは瀕死の体験があるわけではありませんけど、ぼくは理論的にそうおもいます。理屈からいってそうおもいます。
     これを意識的に修練するのは、仏教の、たとえば、密教の修練というのはそういう修練です。密教の修練というのは何かといったら、そういうふうに瀕死という状態まで意識を意識的に減衰させていって、しかも同時に、映像の意味づけをしていくということが可能だということが、仏教の修行の根本的な、昔の仏教の、つまり、浄土教以前の仏教の修練の仕方の根本にある問題です。
     これは、お坊さんたちが今でもやっているわけですし、それから、ごく普通の人でも、瀕死の体験をした人は、しばしば、そういう映像について語っています。だから、必ずしも不可能ではありませんけど、しかし、この体験で得られる映像というのは、いってみれば、簡単といえば簡単なことであって、ようするに、垂直に降りてくる視線というものと、上から見た視線と、それから、水平に一般的にぼくらが見ている視線ですけど、その視線と、両方が同時に行使されてできた映像というものを考えますと、それが瀕死のときに得られる、そういう映像だということがよくわかります。

    14 上から見るとわかること

     その手の映像のうち、垂直に上から下ってくるだけの映像ですけど、その映像は現在、人工衛星の映像というので得られるとおもいます。ここらへんが盛岡じゃないでしょうか、相当な超高度から映した映像です。この映像は真上から見た映像なだけなわけです。水平から得られるはずの映像というのはぜんぶ無化されています。つまり、ゼロになっています。
     だから、盛岡はここですけど、このなかの建物と、それから、建物じゃないところというのは、全然これでは区別できません。つまり、田んぼや畑でも、建物でも、そのなかに人が住んでいるかいないかということでも、そんなのはぜんぶ無に帰せられてしまっています。だから、これは地面に水平な視線というのがまったく無に帰せられて、そのかわり、垂直の上方からくる視線としては、考えられるかぎり理想に近い遠くから、つまり、これは航空機写真とは全然違うわけです。もっと遥かに高いところから下りてくる、ほんとうは無限遠点から下りてくれば、いちばんいいわけですけど、そうはいきませんから、かなり高度から得られて、これは航空機写真とはまるで違うことになのです。
     つまり、まるで違うという意味はとても重要なのですけど、航空機写真ですと、たとえば、建物というのはわかりますし、田んぼもわかります。航空機から見た空もわかります。そうすると、我々はそのときに地面に水平な視線を、航空機の上のほうから下を見ながら、しかし、行使している視線は、やはり地面に水平な視線と同じ視線を行使しているのです。そうすると、建物が見えるとすれば、この建物の中に人が住んでいるな、こういう人がいるかもしれないなということを想像することができます。
     ところが、これの映像ですと、そういう意味あいでいっても、建物と建物じゃないところの区別がつきませんから、これを見ながら、この中に人が住んでいるなとか、ここに人がいるなということを想像することは無意味になってしまいます。そういう意味で、これはとても重要な、人間の水平の高さで見える視線というもの、つまり、人間的な視線というものはぜんぶ無化できるということ、そういうことで非常に重要な意味をもっています。上からの視線としては、アイディアルといいますか、つまり、理想に近い視線だということがわかります。
     これは、四国の上からの写真です。そうすると、航空機写真と何が違うかといいますと、いちばん皆さんにわかりやすい違いは何かといいますと、この上からの視線は、ここに中央構造線というのがあるわけですけど、中央構造線というのは、地質学的な地質の割れ目なわけです。
     これは航空写真では、たぶんあんまりよくわかりません、専門家はわかるのでしょうけど、ぼくらが見たってわからないです。これは川があって、川の流域に平地があって、ここに町が発達しているとか、そういうふうにしか見えないのです、航空写真ぐらいだったら。
     ところが、これで見たら、地質構造の割れ目として、これが明らかにわかります。この割れ目は、近畿地方ですと、ここに紀ノ川、吉野川というのがありますけど、そこが割れ目だということがわかります。九州はこっちですけど、九州へいきますと、これは延岡のあたりから、ようするに、阿蘇山ですけど、阿蘇山を中心にしてこの割れ目が割れていることがわかります。そうすると、九州も阿蘇山が存在する前は、2つ、あるいは、それ以上に分かれていたとおもいます。つまり、そういう地質の割れ目だということが、超航空写真から見ると、そういうことがわかるわけです。そのかわり、川の流域に村があって、町があって、それで田んぼがあってということは、これでは全然わかりません。そのかわり、地質学的割れ目だということがわかります。それは航空写真では、たぶん素人にはわからないです。ただ、広い川があって、平地が広がって、そこに町があるなという、そういうふうにしか見えないはずです。そういう違いがあります。そういう違いというのは、人間的な視線といいますか、人間の眼の高さの視線というものを完全に無化しているということからくる垂直の視線の見方というのがあるわけです。
     そうすると、本来的にいいますと、この垂直の視線の見方と、それから、水平の視線の見方と、それを、2つを行使して、ぼくらが同時に行使した時のイメージを思い浮かべると、それはたぶん、現在得られるいちばん高度なイメージだ、高度な映像だということがいえるとおもいます。
     それから、そうすると、そういう視線を我々はいつでもどちらか一方しか行使していないわけです。つまり、眼の高さで、地面に水平な視線で物を見ているか、あるいは、航空機かなんかにのって、あるいは、こういうので上から見ているか、そのどちらかの視線しか行使していないということがあります。しかし、ほんとうならば、イメージとしてならば、その両方を同時に行使するということが可能だということがいえます。
     それから、それは科学技術的に、現在、つくれるようになっているということがいえます。この方法は、いってみれば、柳田国男が天然自然、つまり、海とか、山とか、陸地とか、それから、風とか、そういうものを柳田国男が考える場合に、柳田国男がひとりでに、それを理屈立ってということじゃなくて、ひとりでに柳田国男が行使して、じぶんの民俗学のひとつの方法にしているということがわかります。
     この方法も取り入れて、いま考えれば、いま言いましたように、高次映像、高度な映像というのは、ようするに、地面に垂直な眼の高さに行使される視線というものと、それから、天空から下に降りてくるそういう視線というようなものの交点として作りあげることができるということがいえます。
     この2つの視線を考えることが、現在考えられる視線としては、あるいは、もののイメージとしては、最も高度なものだということがいえるとおもいます。この高度だと考えられるイメージの作り方というもので、ぼく自身は何をしたかというと、つまり、同時代というものはどういうふうになっているだろうかということ、それから、同時代がどういうふうにこれから展開されるだろうかということをみようというふうに考えたわけです。つまり、これは個人的にみようとか、個人の視線としてみようとかということではなくて、共同の視線として、共同幻想として、それをみようというふうに考えたわけです。

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  4. shinichi Post author

    15 180度違う都市のふたつの系列-下町と筑波の学園都市

     そして、まず、ぼくが現在までのところやりましたことは、一種、都市映像というものについて、この高次視線というものを行使したらどういうことが言えるかということを、都市映像について、ぼくは考えてみたわけです。現在の大都市というものを典型的にとればいちばんいいのですけど、それは東京とか、ニューヨークとか、パリでも、ロンドンでもいいですけど、そういう大都市というものを典型的に思い浮かべればいいわけですけど、この典型的な大都市というものをもってきて、これをどういうイメージで捉えたら、現在の大都市というものを、あるいは、世界都市というものをどうしたら捉えたことになるだろうかという課題に対して、いま申しあげました高次映像の方法というものを行使してみるといたします。
     そうしますと、こういうことがいえます。少なくとも、ぼくが考えたところでは、4つの系列のイメージを思い浮かべれば、まず、現在の世界都市というものは、分析することができますし、解剖することができるというふうに考えられるわけです。
     その4つの系列をまず申し上げてみますと、ひとつは、これは非常に素朴な、大都市のなかでも地面の上に、東京でもありますけど、下町みたいなところはそうですけど、地面の上に民家とか商家とかが建っていて、人が住んでいて、そして、そこの表通りとか、裏通りとか、横通りとかがあって、そこに商店街が所々にあったりとかいうような、そういう場所があります。
     東京でいえば下町地区というのがそうですけど、そういうところは、いま申しあげました高次映像の視線でいえばどういうことかといいますと、たぶん地面に水平な視線と地面に対して垂直に下りてくる視線とが、いわば遮蔽物なしに交叉したそういうところに描かれるイメージの場所がそういう都市の中の民家や商店街が地面に立って、人が住んで、道路があってというところは、そういう地域はそういう場所だというふうに、映像の観点からいいますと、そういうふうに言うことができるとおもいます。
     これに似たところで、これは都心に近い、つまり、都市の真ん中に近いところで大きな高層ビルディングと高層ビルディングに取り囲まれた場所に広場があって、植え込みみたいなものがちょっとあって、昼間は人が休んでいたりするけど、夜は人っ子ひとり通らないという、ビル街のど真ん中にそういう場所があって、偶然に高層ビルと高層ビルの間にコンクリート敷きの広場がひとりでにできちゃったりしているところがあります。
     こういう地域は何かというと、いってみれば、地面に垂直な視線と、それから、上からの視線とが、裸のまま交わる点だというふうに言いたいわけですけど、その場合には上からくる視線というのに符号を付けたほうがいいとおもいます。つまり、地面に直に民家が立って、そこに人が住んでいて、商店街があってというような地点をプラスの上からの視線というふうに考えると、それはプラスの上からの視線と、それから、地面に垂直な視線が裸のまま交わった、そういうふうにイメージがつくれる、そういう場所だ、地域だということがいえるとすれば、いま言いましたように、高層ビルと高層ビルの間に偶然に空き間ができちゃって、そこに、たとえば、偶然に、あるいは、つくって植え込みがしてあるというような、そういう地点というのは、マイナスの上からの視線と、それから、地面に平行な視線とが交わったところに描かれる場所だというふうに考えればいいとおもいます。それから、上からの視線ではなくて、もしかしたら、地面からの視線かもしれませんし、ようするに、符号が違うんだと考えたほうがいいとおもいます。
     つまり、高層ビルの間に偶然にできた、そういう広場とか、そういう地面とか、空き地というものと、それから、地面に民家が立って、そこに人が住んでいてという地面とは、いっけんすると同じに見えますけど、ほんとうはそうじゃなくて、まず、360度違うというふうに考えたほうがいいわけです。つまり、こっちは360度、高層ビルと高層ビルの間に、都心にできたそういう空き地とか、広場とか、地面というやつは、人工というものの極致といいますか、果てにできた広場とか、場所であって、これは地面に直接、家が立って、道路があって、公園があってとかいう、そういう地面とはいっけんすると同じに考えていいようにみえても、イメージとして分解する場合には、まるで符号が違うんだという、マイナスとプラスほど符号が違うんだと考えたほうがいいほど、それは別だと考えたほうがよろしいとおもいます。
     なぜ、そういうことをわざと言わなきゃならないかといいますと、それは同じだと言ってもいいとおもいますけど、符号が違うと言ったほうがいいとおもうのは、なぜかといいますと、皆さんも新聞で時々ご覧になるかもしれないですけど、たとえば、筑波というところに学園都市というのがあります。これは関東平野の吹きさらしの中に人工的にモダンな大学の研究室とか公舎とかつくって、それで周りにひとりでに喫茶店ができたというふうに、そういう人工的につくられちゃった街なんです。
     この人工的な都市で、よく学校の、筑波大学の先生とか助手とか、そういう人でよく自殺するという人が、よく新聞に出ているでしょ、自殺が相次ぐとかって、それはなぜかといいますと、行ってごらんになればすぐわかるのですけど、ようするに、建物の中で盛んに燃えてなにかやったとか、催し物をしたとか、芝居をやったとか、映画を見たというふうに、そういうことをやっても、いったん建物の外に出てしまうと、いままでやったことが全部いっぺんにパーになっちゃうといいましょうか、外と内がそれほど著しく違うわけなんです。だから、こんなところに住めるわけがないという、住んだらおかしいので、正気で住んだらおかしいというくらい、建物の中で、あるいは、学校の中で、あるいは、喫茶店の中で、いろんなことをやって、催し物をやって、燃えて盛んに議論をしてというふうにあれしたって、いったん外に一歩出たら、そんなことはぜんぶ無効になっちゃうといいますか、いままでやったことがぜんぶ無になっちゃうくらい、ものすごく空になっちゃう、虚無になっちゃうわけです。そういう街なわけです。
     なぜこういう街になるかといいますと、いま言いましたように、人工的につくられたそういう建物とか、それの周辺に対しては、それよりもちょっとだけ少ない、しかし人工的な広場とか、公園とかをつくればいいのです。死ぬ気にならないのです。ところが、そうじゃなくて、超モダンな人工的な建物とか、そういうところをいったん外に出たら、関東平野の茫漠たる原っぱというような、そういう有様が、外へ一歩出たら、それがすぐにあるというような、そういう場所で人間が耐えられるわけがないのです。いままで中でやったことがぜんぶ無に帰してしまうというような、そういうことに耐えられるわけがないので、だから、むしろそうだったらば、建物の外の空き地とか、広場というのは、建物よりは少ない人工性だけど、自然なんかよりももっと遥かに人工的なものをそこにつくればいいわけなので、そういう道路をつくったり、あるいは、そういう人工的な公園をつくればいいのです。つまり、モダンな公園とか、モダンな広場をそこへつくればいいのです。
     少しずつ、ふつうの天然自然の自然に徐々に慣らしていけばいいというふうな都市の作り方をすればいいわけなので、ところが、そういう都市の理念がないのか、あるいは、予算が足りないのか知りませんけど、人工的な建物を原っぱのまん真ん中にバッと建てて、そして、建物の中では超近代的な設備で燃えてなにかやっていたって、いったん一歩外へ出たら全部パーだというような、そんなところに人が住めるわけがないので、やっぱり、少しずつ人工的なものを建物の周辺にあれして、街をつくらなければならないというのが、ほんとうに自然というものを考えるならば、そういう理念が正しいのであって、天然自然だけが正しい自然だというふうに考えるのは大きな間違いであって、人工的なものに対しては、それに次ぐ人工的なものというのをやっていかなければ、人間的自然というのにならないわけです。それは、いま言いましたように、地面に〈テープ切れ〉。
     つまり、数十階という高層ビルが立ち並んだところに偶然できた広場とは、同じ地面に水平な視線と上からの視線とが裸のまま交わる点ですけど、それはまるで符号をマイナスにしなければならないくらい、つまり、360度違うものなんだというふうに、いま申し上げましたように、それほど違うものなわけです。ですから、人工都市というものを筑波の学園都市みたいのを、ああいうところにつくった場合には、一歩外に出たらば、かなり人工的な場所がそこにあって、広場があってとか、憩いの場所があってみたいなふうにしておいて、徐々に天然自然の原っぱというところに直していかないと人はなかなか進めません。たいてい、居着いたらいる人は自殺してしまいます。〈テープ切れ〉
     やはり都市とか、都市のイメージというものの作り方の理念というのは間違っているわけです。間違った自然主義なわけです。だから、そういうふうになっている、それじゃなければ予算を節約したからいけないわけです。
     そういうところは、東京にももちろんあります。つまり、高島平みたいな自殺の名所がありますけど、それはやっぱり同じです。行ってみればすぐにわかりますけど、閑散としたあれだけど、家の中だけは立派だとか、マンションの中だけは立派でとなっているのだけど、外へ出たら閑散という、のどかで閑散という意味ではないので、あるいは、田園地帯の豊かな閑散というのとはまるで違う閑散です。虚無に近い閑散なんですけど、そういうふうになっているので、そういうところでは、やっぱり、人間というのは日常性というのを持続することはたいへんむずかしいので、頭がおかしくなるか、自殺してしまうかということが起こりやすいのは、そういうところにあるとおもいます。
     つまり、現在の都市というのを考えますと、いま申しました、極端な2つの系列というのがあります。その2つの系列がどういうふうになっているか、あるいは、どういう地域に広がっているかということをまず考察することが非常に重要だとおもいます。

    16 大都市の共同幻想を展開させるふたつの場所

     それから、もう2つあります。もうひとつのイメージの系列の点は、どういうところかというと、イメージが矛盾するところです。たとえば、それはビルディングの中の3階なら3階が懐石料理屋さんであって、お茶室があって、そのお茶室もかなり本格的なお茶室がちゃんと作られていてというような、そういう場所がビルディングの中にあります。それから、ビルディングの何階かにプールがあって、そのフロア全部はプールになっているみたいなところがあります。
     そこは何かといいますと、本来的にいえば茶室とか、日本庭園とか、それから、プールなんていうのは地面に対して地面を掘って作るとか、地面の上につくるというのが、いわば、天然自然の歴史がつくってきた、庭園とか、茶室とか、それから、プールとかの作り方なわけです。それがいってみれば、天然自然の歴史がつくってきた作り方を、まず、やめにして、ビルの中の何階かにプールをつくってしまっているとか、何階かに日本庭園をつくって、茶室をつくって、それで、日本料理を食べさせてというところをつくっちゃうわけです。
     こういうような、つまり、本来的にあるべきようでないところにあるものを入れてしまっているというところが、都市の中にはあります。これはいってみれば、イメージを矛盾させる場所です。イメージを矛盾させる場所というのが、現在の大都市のなかにはあります。
     このイメージを矛盾させる場所というのは、もっとたくさんあるんですけど、たとえば、高いビルディングの屋上にゴルフ場がつくってあって、盛んに勤めを終えた人たちが、人工の大きな電灯に照らされたそういうゴルフ場のところで、盛んにゴルフの練習なんかやっているのが、またこっちから見えてというところがありますけど、つまり、その手のところというのは、本来あるべきところでないところに、本来あるべきものをもってきて入れちゃっているということがあります。この種の矛盾するイメージをつくる場所というのがあります。
     つまり、本来ならば、地面に水平な視線と垂直な視線が裸に交わるところにつくられてあるべきものが、全然、上からの視線はビルの何階かで遮られている、そういう室内に設えられているという、つまり、矛盾したイメージを喚起する場所があります。この場所はいってみれば矛盾の場所、つまり、都市が発展していく場合に、都市がこれから膨張していく場合に、いわば、たえず矛盾を引きずりながら膨張していく場所なわけです。
     この場所は現在のどういう大都市、つまり、世界都市のどういう場所をとってきても、必ず、どこにでもあります。この場所がいったいどういうふうになっているかということを追及していくことは、とても都市というもののイメージを作っていく場合に、共同のイメージが、共同の幻想がどこにあるかということをつくっていく場合に、とても重要なひとつの系列です。
     もうひとつ重要な系列があります。それは、いままで申し上げました、高次映像を喚起する場所です。これは、たとえば、都市の中ですと、いろいろなところがあるのですけど、たとえば、古いビルディングがあると、周辺に対して、ビルを拡張していく場所もないと、しかし、このままのあれでは、とてもビルディングとして展開していかないといった場合に、古いビルディングと新しいビルディングを継ぎ足しちゃったりしたところがあります。
     そうすると、いわば、新しいビルディングは現在の最新の様式でつくられますし、古いビルディングは直しようがなくて、元のままということがあって、そこを継ぎ足すということをやってビルディングを広げるみたいな箇所が、現在の大都市のなかにはたくさんあります。そういう場所では古い空間のイメージと新しい空間のイメージが重なる場所があります。
     この重なる場所には、いま言いました高次映像に近い、あるいは、見る角度によって高次映像を喚起する場所があります。つまり、そういう映像を見せる場所があります。この場所は非常に、ぼくに言わせれば重要な場所であって、つまり、この高次映像というのをどういうふうな形で拡大していくか、あるいは、どういうふうな形でこれが展開していくかという形で、現在の都市がこれから展開していく場合の要になるだろうというふうにおもわれます。
     ですから、いってみれば、そういう高次映像を喚起する場所と、それから、いま言いましたように、映像が矛盾する場所と、その2つの場所を注目していくということが、現在の都市の映像というものを、あるいは、都市の共同幻想というものを捉まえていく場合にとても重要だということがあります。
     なお付け加えれば、いま言いましたように、180度違う2つの場所というものをあわせて考えまして、少なくともその4つの系列の場所というようなものを捉まえていきますと、現在の都市というものの喚起する映像というもの、それから、この都市がどういう展開の仕方をしていくだろうかという場合の、展開の仕方のイメージをつくることができます。あるいは、それをこしらえていくことができます。あるいは、それを分析していくことができることがわかります。
     この場合に人為的なことは、人間がどうせ都市をつくっているわけですけど、必要であるわけですけど、この場合の都市映像をつくる場合に、まず、それは近似的になしだというふうに、つまり、都市をひとつの生成系といいますか、成長していくひとつの怪物みたいなふうに考えて、つまり、無生物的怪物みたいなふうに考えて、これが成長していく生態みたいなふうに、近似的に考えまして、いま言いました4つの系列を追及していかれますと、そうすると、現在の都市がどういうふうなかたちで、これからのびていく、あるいは、現在の都市はどういうふうになっているかということを具体的に捉まえることができるとおもいます。
     これはいってみれば、柳田国男がじぶんの民俗学の方法からこしらえていったイメージの作り方のそれでありますし、それから、ぼくらが高次映像というものから考えていって、現在の都市のイメージというもの、それから、これから都市が展開していくイメージというものはどこで近似的に捉まえれば捉まえられるのかというような、そういう問題を考えていった場合に根底になった考え方であるわけなのです。

    17 上からの視線の歴史的な段階

     この考え方からいきまして、いくつか言われるべきことがあります。そのひとつを申し上げてみますと、いまは、都市がこれからどうなっていくかということを申し上げましたけれども、ほんとうは都市が以前にどうであったかということも、ほんとうはわかるわけです。その高次映像を考えていくことによって、ほんとうはよく理解することができるわけです。
     たとえば、これは先ほどから申し上げましたように、真上の視線から撮られた地質映像なわけですけど、ここでたとえば、ぼくらが考えてみたことは、ここに奈良盆地というのがあるわけです。つまり、奈良平野というのがあるわけです。これは、現在の上からの視線で撮られた映像なわけですけど。これに対して、奈良盆地の地質データを入れまして、映像処理をするとします。そうすると、地質データで、たとえば、千年前の地質データを入れた映像というのもつくれます。それから、二千年前の地質データを入れて、この地域の上からの視線の映像を得ることができます。そうすると、三千年前の映像をこしらえることができます。地質映像をつくればできます。
     そうすると、このなかで、三千年前には奈良盆地のここまで水が入っていた、たとえば、地質学者や考古学者は、縄文時代には海抜70m線ぐらいまでは、奈良盆地は水が入っていたと言っています。それから、だいたい4,50m線というのが、だいたい弥生時代以降の水が入っていた境界線だというふうに言っております。そうすると、海抜70m線ぐらいは奈良盆地でもって、ようするに海岸線であったわけです。
     その時代に長髄彦とか、吉野の山人だとか、そういう人たちは、『古事記』や『日本書記』の記述をみれば、土地の名前をみればわかりますけど、だいたい、ぜんぶ海抜70m線以上の地名になっています。ですから、それらの人たちは山人、山人といいますけど、ほんとうは、すぐ下のほうは平地が少しあって、あとはぜんぶ水だったわけです。だから、神武東征というのがここから来まして、大阪へきて、ここへ入ろうとしたのですけど、ここで長髄彦の軍隊に追っ払われて、こっちのほうにまわってきてこっちから入ってくるわけですけど。そのときに神武東征論の道で出てくる地域の名前というのは、だいたい縄文時代に村落があったところの、そういう地名がでてきます。つまり、海抜70m線以上ということになっております。
     そして、もうひとつのことは、たとえば、石器時代からもそうですけど、縄文時代に村落があって、その上に同じところに弥生時代の村落があって、そういう遺跡がでてきて、それからまた、古墳時代に遺跡がでてきて古墳があるというような、そういう場所が、同じ地域で重なっている場所があるとすれば、それは、そういうふうに想像するのが非常に妥当なわけで、つまり、それは奈良盆地のなかで、古代の最初の国家があるとすれば、国家の首府に近いところというのは、縄文時代からも遺跡がでてきて、弥生時代からもでてきて、古墳時代からも遺跡がでてくる、もちろん、有史時代からもでてくるというような、同じ地域にそういう遺跡がぜんぶ重なっているところが、わりあいに原始時代から栄えた都市でありますから、町でありますから、そういうところがたぶん、初期に国家をつくったときに、そこが首都に近いところになっただろうというふうに想定するのがわりあいに妥当な地質学的な同定の仕方です。
     いってみれば、垂直からの視線というようなものというのは、柳田国男の民俗学の映像にあらわれてくる、上のほうから眺めた視線ということですけど、その上から見る視線というものには、いってみれば、歴史的な段階というものをそこのなかに込めることができるということがわかります。
     つまり、原始時代から、未開の時代から、人間の地面に水平な眼の高さの視線というものは、さして変わりがありません。つまり、映像をつくる場合にさして変わりがありません。すこしは変わりがありますけど、さして変わりがありません。しかし、上からの視線というのがいかに可能だったかというのは、これは歴史の展開を暗示します。だから、上からの世界視線には、様々な歴史の段階の視線がつかまっているということができます。
     だから、いま言いましたように、いまの視線の取り方からいえば、地質データさえあれば、いまから以前にたとえば、これ辺がどうだったかというような、そういう映像をつくることができます。
     だから、そうすると何が得られるかといいますと、まずいちばん得られることは、いってみれば柳田国男の民俗学でいえば、標高差、あるいは、海抜差ということのイメージが具体的に得られるということです。たとえば、神話の歴史学的なというよりも、神話の地質学的な総体イメージ、対応イメージというものをつくることができます。
     そうすると、皆さんが、たとえば、考古学とか、古代史の学者たちがひとりでに思い描いている地質というのは、いまも昔も変わらないんだ、海抜というのも変わらないんだと思っていてやっている古代史というものと、それから、実際に千年前のイメージがちゃんとでてきて、千年前にこうだったんだよという地形がちゃんとでてきた場合の、瀬戸内でもそうですけど、そういう場合の歴史の考察の仕方はまるで違うところがでてきます。
     だから、いままで文字の上で正確だとか、正しい推理だというふうに思っていたものが、とてつもない違っちゃうということがありうるわけです。そのことが、第一に、千年前、二千年前、三千年前のある場所の地質映像が得られるならば、それはまるで神話の地質学的多様性というのが明確になってでてきて、思いがけないことがたくさんでてくるということがわかるはずです。そのことはさしあたってとても重要なことのようにおもいます。

    18 原始時代から人間がやってきたことを論理化する

     そういうことが重要だという視線は、もちろん技術的に人工衛星が可能にしたから、つまり、科学技術が可能にしたということはいえるのですけど、それは同時にしかしそうじゃなくて、そんなことは、人間はいってみれば昔からやっていたので、昔からそれをやっていたと、しかし、宗教としてやっていたとか、あるいは、死にかけた人が生き返ってそういうことを体験したんだとか、そういう言われ方で体験していたことなんですけど。しかし、やってきたということだけでいえば、それは、ずっと古い昔から人間は、原始時代からそういうことをやってきているわけなのです。
     しかし、それは原始時代からやってきているけれど、誰もそれを論理的に分けたらどういうことになるのかということを誰もしなかったというだけです。ですから、論理的に分ければ、それは眼の高さに水平な視線と、それから、垂直な視線との、そのいわば交点というようなことで、それは理論的に分けることができるわけですし、また、垂直な上からの視線というのは、いかようにも、人間の歴史というものは、眼の高さの視線をどれだけ高くしていくかということのなかに、人間の歴史的な観点というものがぜんぶ含まれているというふうに考えたって考えることは可能なわけです。
     たとえば、ヒューマニズムというのは何なのかといえば、それは、人間の眼の高さの視線でもって、人間が人間をつかまえ、そして、人間が人間と交わり、人間が人間と関係したところで出てくる思想がヒューマニズムです。これは視線の観点からいえば、ようするに、眼の高さ1m半~2mとか、座高の高さとか、そういう観点で他の人間を捉えたときの、それがようするに、ヒューマニズムというのは、そういうものです。そういうものだということがわかります。世界視線からいうと、つまり、地上2mであり、せいぜい拡張して山の高さ、つまり、山の高さ2000m上から村を見てみたという、そういうことが人間はあるという、そういう視線から生まれたものがやっぱりヒューマニズムの思想ということになります。
     こういうふうな超高度の視線から見た場合には、さきほど申し上げましたように、民家とか、建物とか、田んぼとかの区別はほとんどつきません。ですから、もちろん、人間的な視線というのはぜんぶ無化されてしまう視線です。人間的な生活も無化されてしまいますし、人間と動物の違いというのも無化されてしまいます。
     ただ、かろうじて無化されないのは、こういうところで、都市の場合はとくにそういうことがわかりますけど、こういうところに出っ張った埋立地ですけど、埋立地というのは馬鹿に人工的に四角くなったり、角張っていたり、長方形になったり、人工的なかたちをしています。そのことが、わずかにこれは人がつくった島だなということがわかります。
     それから、もうひとつ言えることは、人間というのは、山の麓で海岸ぺりの平地にしかあまり住まないものだねということがわかります。この緑の場所というのはぜんぶ山地です。山ですけど。こういうところには、あまり人は住まないものだね、相変わらず何千年経ってもこんなところに住んでるものだねという感じがします。
     つまり、人間的な匂いなんか出てこない視線が超高度の視線ですけど、しかし、この超高度の視線というのは、いってみれば、やはり人間が技術的につくった視線だという意味と、それからやはり、この超高度というのは、わりあいに理想的な垂直視線に近い視線だということがいえますから、人間がつくり得る映像がどんなにか鮮明になったかわからないということがいえるとおもいます。
     こういう問題というようなものが、柳田国男の方法というようなものを現在というものに拡大していった場合に、柳田国男の方法というようなものは、どこまでどういうふうに有効かということを、あるいは、どこまで有効であったかということが、とてもよくわかるとおもいます。この柳田国男の方法というのは、過去に遡っても有効であったと同じように、これからの人間社会の同時代性というものを分析していく場合に、それから、未来にどういうふうになっていくかということを分析していく場合にも、この柳田国男がイメージをつくる場合に使った方法というものは、とても多く有効だということがいえるとおもいます。
     ぼく自身は柳田国男について、論じたりしてやってきましたけれど、同時に柳田国男が『明治大正史』でやったように、現在のイメージというのがどうやってつくれるかということもまたやってきました。その場合に柳田国男の方法は無意識のうちに、ぼくらの中に入ってきていまして、ぼくらはそういうことをもとにして、じぶんの方法的な分析の方法をつくりあげて、そして、やってきたというふうに考えています。
     柳田国男を過去の中に埋めてしまうということは、たいへん残念なことでありますし、また、実証的にいえば、たとえば、海上の道ということで、南の島から稲作をもって日本の島へ渡ってきたというような言われ方も、現在ではたいへん危なっかしくなって、実証的にといいましょうか、実証史学で危なくなってきて、それ自体の考え方は無効であるかもしれません。わりあいに、朝鮮半島経由とか、直接、中国から九州へというような経路のほうが正当らしいというようなふうになったりしていますから、南の島から渡ってきたということは、もしかすると、危なくなっているかもしれないのですけど、柳田国男の方法的優位というのは、決して実証史学ではないですから、実証がそれを覆したということで、柳田国男の方法が無効になるかというと、決してそういうふうにはできていません。
     本格的な柳田国男の方法、あるいは、イメージの作り方、過去のイメージの作り方、民衆のイメージの作り方、そして、同時代のイメージの作り方というのの根本的な方法は、現在でもぼくは有効だというふうに考えます。だから、ぼくは決して滅びたというふうに、古くて滅びたとか、間違っているというふうには少しも考えないで、やはり、これからも、柳田国男の方法というものは、これからむこうへものびていく、過去だけじゃなくて、未来のほうにのびていく場合にも、非常に有効に使えるものだというふうに、ぼく自身は考えております。
     だから、ぼく自身はそういうことを柳田国男についてやりながら、同時に、じぶんの方法としても使いながらやっていきたいというふうに考えております。たぶん、柳田国男がやった業績というのはたくさんあるのですけど、柳田国男の方法が根本的にもっている問題というのは何かということと、それがさしあたってどういうふうに、ぼく自身の考え方みたいなものに、どういうふうに有効に働いているかということをお話することができたというふうに考えます。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

    19 司会

     どうもありがとうございました。皆さんも余計な時間をちょっと頂戴して、お話を2つ聞いたので、お疲れかとおもいます。15分間休憩をして、そのあと、先ほど申しましたけど、質問といいますか、あるいは、先生から補足的にお話しいただく時間を少し取りたいとおもいますので、よろしくお願いします。それから、ご案内なのですが、今日おわった後で、吉本先生をお囲みして懇談会的なものといいますか、それを予定しております。それに関しては、受付と会場案内図を用意してございますので、こちらのほうもよろしければ、どうぞ参加いただきたいとおもいます。会費を頂戴するようになっております。それも受付でご覧ください。では、15分間休憩します。
     それでは、休憩終わりまして、質問とか、あるいは、感想的なものでも結構でございますけど、どなたかございましたら、マイクをお渡しいたしますので、手を上げていただきたいとおもいます。どなたかございますか。いちおうお名前をおっしゃって、それからお願いします。

    20 質疑応答

    (質問者)
     大塚と申します。いま吉本先生のお話を伺いまして、私自身に引き寄せて、身勝手なことでいくつかお伺いしたいのですが、まず第一点なんですけど、柳田国男の方法のじぶんの眼の高さと地上に垂直に高い位置から見るという方法についてなのですが、それ自身が、私なんかがいまお話を伺った感でいえば、古代における天皇制みたいな問題とひとつは密接な関わりのある考え方じゃないかというか、ようするに、古代において、共同体の支配者としてのスメラミコトというものの、ひとつは宗教的というか、そういった視点というものを獲得する方法そのものが、いまの柳田の方法論と重なってくるのではないかなという感じがしましたので、そこらへんをひとつ伺いたいのと。
     もうひとつ、非常によくわからないことなんですけど、いわゆる古代というのは各地にいろいろな共同体があったとおもうのですけど、共同体の中に、むかし吉本さんの著作で読んだような気がするのですが、天皇制が上にかぶさってくるかたちで出てくるとすると、各共同体のなかにもそれぞれの神なり、ひとつの考え方ですか、あったはずなんですけど、それを収れんしたようなかたちで、古代の天皇制があったと仮定してしまいますと、柳田の方法というのは、どこまで各共同体の中に入っていけるのかというところが非常にわからないといいますか、そういうところがひとつあるんです。
     もうひとつは、まったく私事でいってしまうと、現在のことでちょっと伺いたいのですけど、私も勤めの関係で中部地方のほうの都市近郊で生活したことがあるのですが、先ほどのお話にありましたように、眼の高さから見てしまうと、かえって都市近郊の農村の風景というイメージですか、これが非常に酷似していて、私にはそれは圧迫感みたいなものがあるわけなんですけど、さっきのお話ですと都市というものに的を絞ったあれだったのですが、いわゆる都市近郊の農村というのは全国的に画一的なイメージみたいなものがいまや出てきまして、結局、日本で国文学なんか、以前を考えてみると、たとえば、和歌にしても、俳句でもそうなのでしょうけど、それぞれ地方に紀行した文学者という人たちが、ひとつの各地方のイメージで、ここは都と非常に違うというふうに歌をみてたりとか、そういうようなことがあったのだろうけれど、いまはまったくそれが均一的である以上は、背景とか風景というものの表現がものすごくむずかしくなっているんじゃないかと、そういうことについて、ちょっとお伺いしたいなとおもうのですが、いかがでしょうか。

    (吉本さん)
     3つ言われたとおもうのですけど、最初の眼の高さで、地面の水平な視線というものと、それから、垂直に上から見る視線というものを同時に行使したところのイメージというのは、わりあいに柳田国男の場合に鮮明なんだという、そういう話からすこしそれを普遍化していったとおもうのですけど。それが天皇制の視線と同じじゃないかというのは、あんまり全然関係ないことのようにおもうので、天皇制というのは我々が描ける限りでは、天皇制の起源のところには2つイメージが描けるわけです。
     ひとつのイメージはようするに、これは縄文信仰、つまり、縄文宗教というのと接続するわけですけど、接触するわけですけど、ようするに、神みたいなのは、山の頂の岩だとか、つまり、石だとか、巨石みたいなものだとか、それから、樹木だとか、そういうものを伝わって下りてくるという、そういう信仰というのを、まず、兄弟がいると兄貴というのがそういう信仰者の役割を担って、じぶんが生き神様というふうになっていく、そして、生き神様の相続というのは、山の岩の上に乗って、神がそこから下りてくるという信仰とか、樹木の下に石があって、その上に座ってそこで上から樹木を伝わって下りてくる神というのをじぶんの中に体現して、それでじぶんが生き神様になるというふうになって、それで、その弟が村落の共同体の政治的な支配者になるという、そういうかたちが天皇制の古いかたちだというふうに思われることがあるわけです。
     神話上の初代というのは神武天皇ということになるのですけど。神武天皇というのは、『古事記』や『日本書記』をみると、末弟だということになっているんです。いちばん上の兄貴は五瀬命ということになっているんです。それで、その次に二人、兄貴がいるんです。稻氷命というのと、それから、もうひとり、三毛入野命というのがいるのですけど、その二人は死んじゃうんです。ひとりは海に入って死んじゃうとなっているんです。それから、ひとりは常世の国か、母の国か、そこへ行って死んじゃうというふうになって、長兄と末弟とが残るわけです。
     それで、神武東征というのがあるわけですけど、その場合に、五瀬命というのは、『古事記』でいうと近畿地方にあれするのですけど、長髄彦の軍隊に阻まれて熊野のほうにまわって、そこで死んじゃうことになっているのです。たぶん、そこから、『古事記』でいうと10代ぐらいの崇神天皇くらいまでの天皇というふうに伝承されているあれまでは、たぶん、全部そのかたちなので、長兄の五瀬命というのが、たぶん、生き神様だとおもいます。つまり、宗教的な存在であって、それで、末弟の神武というのは、ようするに、政治的な、行政的なあれをやるという、そういうかたちだとおもいます。
     それで、そのかたちは、最初期の天皇は、そういうふうな片鱗が記述の中にみえるわけです。その手の、生き神様になって、男系のあれが村落を支配するかたちがひとつと、それから、下っていきますとそうじゃなくて、女系が、たとえば、姉さんとか、叔母さんがようするに生き神様に近い存在で、神さまの御託宣をもらって、そして、弟が政治をやるという、そういうかたちがあるわけで、その2つのかたちが、たぶん、天皇というもののもつ視線だとおもいますから、その視線は、ぼくがお話したそういう視線とは、全然違う次元で、違うように別に追及しないといけないんじゃないかなというふうに、ぼくには思われます。
     つまり、その2つの痕跡がどうしてもあるものですから、2つのかたちがあるものだから、その2つのかたちが地域的にどう広がっているかとか、あるいは、それは縄文・弥生の信仰として、どうつながっているかというようなこととして、それは視線といいましょうか、樹木や岩を通じて神が天空からおりてくる、そういう視線は、そういうものとして別個に追及しなければいけないことのようにおもいます。
     だから、ぼくの言いたいことはそういうことよりも、わりあいにうすぼんやりした視線、うすぼんやりしたときに、つまり、原始時代からしばしば人間が陥るところの半分無意識、あるいは、半分夢想といいましょうか、つまり、入眠といいましょうか、入眠という状態で得られる視線ということであって、あまり、いま言いました制度的な視線というのとは、関係がないとおもいますし、柳田国男自身もわりあいに制度的な視線というのには関係がないのです。ほとんど言及しないです。
     いってみれば、どうだっていいんだということ、つまり、常民だけが問題なのであって、あとはどうだっていいんだ。つまり、政治制度の上の支配者とか、そうじゃないかということは、あまり第一義じゃないんだというのが、たぶん、柳田国男の考え方だから、いまおっしゃるようなあれは別個に考えなければいけないような気が、ぼくはしますけどね。
     それからもうひとつ、二番目に言われたことは、もしかすると違うかとおもうのだけれど、ぼくはそう聞こえたので、柳田国男の方法というものは、各地の共同体というもののあり方のどこまで迫れるのだろうかというふうなことだったとおもうのですけど。
     ぼくはこうだとおもうのです。柳田国男の最初の関心は、終わりまで潜在的に続いたとおもえる柳田国男の関心は、いまおっしゃったことでいえば、支配の共同体というのがあって、それから、被支配の共同体が各地にあって、そのあいだはアジア的な社会、つまり、貢物をとるというのと、貢物を捧げるというのと、そういう関係で結ばれていたわけですけど。
     柳田国男の関心というのは、ほんとうは支配共同体とも関係ないし、被支配共同体とも関係ない、共同体外といいましょうか、そういう意味あいでいったら、天皇制というのは、つまり、一種の水稲耕作に関係のある勢力と考えると、そういう支配共同体と被支配共同体との関係とはかかわりない、そういう関係からは逸れてしまった農耕をしていない人たち、つまり、山人というふうに柳田国男が名付けている、共同体外の、あるいは、制度外の人たちを柳田国男はいちおう異民族というふうにみたとおもうのですけど、その異民族というのは間違いであるとして、非農耕的な民衆といいますか、民衆のあり方といいますか、常民のあり方というのが、たぶん、柳田国男のいちばんの関心じゃないかというふうに思われるわけです。
     ですから、じぶんが支配共同体に入っていく、そういう感じ方、考え方とも、それから、じぶんが被支配共同体として、支配共同体を受け入れるという、制度として受け入れるという考え方とも、柳田国男はそれほど、本音を言っちゃえば関係がないといいましょうか、そういうところで、人間を見るということをあまり嫌なんだということで、つまり、民衆をそういうところで見るのは嫌だということで、そういう共同体外といいましょうか、職業でいえば農耕外のことに携わる人たちということに、いちばん関心があったんじゃないかとおもわれる。
     だから、初期の王朝とか、天皇とか、そういうのにはあまり、柳田国男はほんとうを言わせると、本音を言っちゃえば、あまり関心がないので、常民というのにあくまでも関心があって、その常民もほんとうをいうと、農耕常民というよりも、初めは農耕をやっていなかった、そういう常民、ずーっと太古から列島にいた常民というもののあり方、風俗、習慣、宗教というものに、たぶん、関心があったんだとおもうのです。ですから、あんまり、おっしゃる共同体関係というものは、柳田国男の関心からすれば、第二義的であったんじゃないかなというふうに、ぼくにはおもわれるのです。
     それから、三番目の都市ということなんですけれど、これは、ぼくはよくわからなかったんですけど。

    (質問者)
     ようするに、都市近郊というのが、眼の高さでみれば、同じような風景というか、私たちのイメージが均衡ではないといえばそれきりなんですけど、似たようなライフスタイルで、非常に似たような風景というものが、じぶんで見れるというなかにいると、眼の高さで見たかぎり、イメージの貧困化というのか、そういうものに時として圧迫感みたいなものを感じることがあると、さっきのお話だと、都会だと4つの基本タームみたいなお話があったんだけど、かえって都市近郊の農村というか、ある程度、日本全体に敷衍してもいいんじゃないかという気もするのですけど、そういうほうのイメージというか、それについてちょっとお伺いしたかったんです。

    (吉本さん)
     都市近郊の農村というのが、たとえば、東京でも都市近郊の農村というのは、いってみれば、都市化して、初めは農業の田畑というのが、潰されていって、宅地化されていって、一種の大都市に対するベッドタウンというのでしょうか、寝る場所といいますか、住居のある場所で、主たる職業の場所は大都市へいくと、しかし、じぶんの住居といいますか、住処というのは近郊にあるという、そういう近郊都市、つまり、大都市周辺に拡張されつつある近郊都市というのが、いちばんのぼくのなかにあるイメージなんですけど、東京なんかでもどんどんそれが拡張されて、東京近郊の農村が、どんどん宅地化されて、田畑が潰されて、宅地化されていくというようなイメージをぼくはもっているのですけど、それがどうでしょうか。

    (質問者)
     さっきの話をすごく単純に都市と農村というふうに2つの分類に分けて聞いていたものだから、農村の周囲をイメージしたというのか、非常に均一的なあれで見えてくるのは、結局、都市と農村というものの、社会学なんかでいうような区別というのはなくなってきてしまって、そういうふうになだれているというんですか。

    (吉本さん)
     だいぶわかってきました。あなたの質問される核心がわかってきました。それは、どこからあれしたらいいのでしょうか。今日、おしゃべりしようかなと思ったのだけど、時間が過ぎてできなかったんですけど。つまり、歴史的につくられた、歴史的に展開してきた都市というのは、職業といいましょうか、産業の発達というのと関係がありまして、初めの時代には、農村が農家でもって、同時に家内工業的に、手工業的に織物をやったり、その他、養蚕製糸とかということでやっていたような、つまり、農家が兼業の産業を営んでいた時には、都市がまだあまり発達もしないし、それほどの必要性はないというふうになったわけで、商人たちは固定的じゃなくて、歩いて製品を、毛織物なら毛織物とか、織物とか、布きれを捌いて歩いたというような段階だったとおもうのですけど。
     農家の兼業でもって、他の非農耕的な産業がおさまりがつかなくなって、農業をやる人と、農業以外の産業をやる人と、たとえば、紡績業をやる人とは違う人になってしまった時に、違うように分業していった時に、それは地域的にも別々に入っていって、そういう産業に便利な人で一塊に集まっていって、それで都市ができて、都市周辺の工業ができて、それで大都市に発達していったというのが、歴史的にいえば農村と都市の分離の歴史であり、それから、産業でいえば、農業と農業以外の産業とが、分離していく過程だとおもうのです。
     たぶん、現在はどういうふうになっているのかと、つまり、またちょっとそこで間にいれますと、だからして、わりあいに初期の、つまり、19世紀末とか、20世紀初頭の、あるいは、前半のユートピア的な人たち、宮沢賢治もそうですけど、つまり、ユートピア的な社会主義者たち、ユートピア的な理想主義者たちが、都市と農村が、人の好き好きによって両方できるような、つまり、農村であり、同時に都市であるような、ある中間の大きさをもった都市の、都市兼農村というようなものを思い描いて、それで、そこに住んでいる人は、農業をやりたければ、農業をやることができるし、ほかの産業をやりたければやることができると、しかも、それが大きく分離しないから、都市と農村の人の賃金の格差とか、生活の格差もひどくならないというような、そういう都市をイメージとして思い描いたとおもいます。
     それは、中くらいの都市で、しかも、そこに住んでいる人は、わりあいに、同等の条件でもっていて、農業をやりたいとおもえば農業をできるし、それから、じぶんは工業が好きだとか、何々が好きだといえば、それをやることができるというような、そういう都市を理想の都市として思い描いたのが、19世紀から20世紀の初頭にかけての社会主義者、理想主義者というものの描いた都市のイメージだとおもいます。
     ところが、いってみれば、あなたのおっしゃるとおり、現在を見てみると、都市は無限拡張していって、周辺の農村を席巻していきつつあり、そして、それはあなたのおっしゃるように、都市と農村とのイメージからみたら、農村をどんどん衛星化しながら、都市は無限に膨張していくというようなかたちが、いわば、現在の様相であって、それは如何様な理想主義者が描いたものとも、まったく違っているじゃないかということがあるわけです。
     それから、もちろん、初期の社会主義者の一部分が描いた、つまり、ユートピア的社会主義者が描いたような、都市の分離している権力を一挙に奪取して、それで、新しい権力を打ち立てて、都市と農村の分離をやめさせて、そして、そこに理想的な社会をつくるんだというふうにいってやった、ロシアならロシア、中国なら中国をみれば、それがどの程度、理想的でないか、どの程度がやろうとしてダメだったかというのは、完全にみえているわけです。
     それがいまの現状であって、日本の現状は新たに周辺の農村をどんどんどんどん広がりつつあるというような状況だとおもうのです。それで、何がユートピアとして描けるかといったら、ぼくは1つ、あるいは、2つだとおもいます。それは先ほど言いましたときに、還元されてしまうのですけど、先ほど都市について言ったことに還元されますけど。
     ひとつは人工都市をつくるということだとおもいます。人工の理想都市をつくってやってみるということがひとつなのです。詳細をいえばいいのですけど、それがひとつだと。
     もうひとつは、先ほどの都市の矛盾する系列って言いましたけど、それなわけです。都市の中に農村をつくっちゃうということ、その農村というのも、地べたに農耕する農村ということに必ずしも限らない。つまり、人工農業といいましょうか、そういうことも加味して、ようするに、都市の中に農村をつくっちゃうということ、つまり、さきほど言いました、これが矛盾したイメージの系列ですって言ったことがあるでしょ。つまり、ビルディングの中に日本庭園があったりとか言ったことがあるでしょ、つまり、そういうかたちで、農業というのを都市の中でやっちゃうというイメージをつくるか、それじゃなければ人工都市をつくるという、そういうかたちというのが現在だったらできるユートピアの唯一のものだというふうに、ぼくにはおもいます。
     だから、質問者のおっしゃるような状態はどんどん続くと、それを阻止することはできないと、ぼくは考えています。だけれども、それならば中につくろうじゃないかという発想はできるとぼくは考えています。それから、中に人工的な農業をやっちゃおうじゃないかという発想もできるというふうに考えています。ぼくはそういうふうに考えています。そこらへんの問題になっちゃうんです。

    21 司会

     話が佳境になって、これで打ち切りにせざるをえない。この会場が5時までしか借りれないので、今日、このあと6時から、上田3丁目のキャラサという場所で先生を囲んでまたお話を伺いたいとおもいますので、今回は残念ですが、これで打ち切りにせざるをえないので、ご了承願いたいとおもいます。お気持ちのある方は、6時から会合のほうにご出席ください。そこでまたお話を伺いたいとおもいます。今日は、進行は悪い点もございましたけど、先生のお話が2時間20分、マラソンと同じくらいのお時間だとおもいますが、一気にお話しいただいて、たいへん貴重な体験をしたわけですが、このあと、お話のなかで、やはり、よくわからない点がたくさんあるとおもうので、改めてまた勉強を続けたいと思っております。私どもの「吉本隆明を読む会」というのがございますけど、どなたでも参加できるようになってございますので、そちらのほうもどうぞよろしくお願いいたします。今日は先生どうもありがとうございました。(会場拍手)

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