3 thoughts on “鈴木松年

  1. shinichi Post author

    上村松園
    https://ja.wikipedia.org/wiki/上村松園

    1875年(明治8年)、京都市下京区四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれる。1887年(明治20年)、京都府画学校(現:京都市立芸術大学)に入学、北宋担当の鈴木松年に師事。1888年(明治21年)、雅号として「松園」を用いる。鈴木松年の辞職により京都府画学校を退学し、松年塾に入る。1890年(明治23年)、第3回内国勧業博覧会に「四季美人図」を出品、一等褒状受賞(この絵を、来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入し話題となった)。1893年(明治26年)、幸野楳嶺に師事。隣家からの類焼のため中京区高倉蛸薬師に転居。市村水香に漢学を学び始める。1895年(明治28年)、楳嶺の死去にともない、竹内棲鳳(竹内栖鳳)に師事。

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  2. shinichi Post author

    序の舞 (映画)
    https://ja.wikipedia.org/wiki/序の舞_(映画)

    貧しい農家の9歳の少女・勢以が、京都で葉茶屋『ちきりや』を営む島村家の養女となったのは安政5年(1858年)のことだった。ひたむきに茶葉の技術や店のことを教わる勢以だったが20歳の頃に養父母を相次いで亡くし、翌年婿を取って結婚するも二児の母となった直後26歳で未亡人となる。その後勢以は懸命に店を守って2人の子供を育て、小学校を卒業した次女・津也は恩師・西内太鳳に勧められて名のある画家・高木松溪の絵画塾に通い出す。

    明治23年(1890年)16歳となった津也は、師匠である松溪の指導を受けて絵の腕を上げて絵画展で賞をもらい、勢以と姉の3人で喜びを分かち合う。師匠から「松翠」の雅号を授かり、天才少女として名を馳せる。そんな中太鳳が絵画の勉強のため数年間ヨーロッパ留学することになり、津也は寂しさを紛らわせるように絵画の勉強に没頭する。翌年のある日松溪の熱のこもった指導を受けた津也は、師匠に誘われて料亭で食事をした後妻帯者である彼と強引に男女の関係を結ばされてしまう。しかし絵描きとして有名な松溪は展覧会の審査員を任される事があり、彼を拒否することは絵描きを辞めることに等しく、津也はその後も彼と不倫関係を続けることに。

    明治26年、津也は国が主催の絵画展で賞を取り一人前の画家として認められる存在となり、同じ頃姉が嫁入りして勢以と津也は2人暮らしになる。それからしばらくして独身にも関わらず津也の妊娠が発覚し、勢以から問いただされて「松溪と不倫してできた子」と告白する。母は半狂乱になり絵を学ばせたことを後悔し、知人に頼んで津也を人里離れた他所の家に住まわせ、数ヶ月後ひっそりと出産した赤子を里子に出す。

    出産後津也はそのまま失踪し、勢以は心配するも心を鬼にして娘が絵を辞めるまでちきりやの敷居を跨がせないと先祖に誓う。数日後、太鳳が留学から帰国して絵画展に出品された彼の絵が評判となり、そのことを知った津也は彼が暮らしている長浜の寺に向かう。津也は太鳳の弟子を志願すると松溪の絵画塾を辞めた理由を聞かれ、師匠との間に起こったことを正直に話して弟子になることを許される。津也は太鳳のもとで絵の修行を続けて明治29年の展覧会で松溪の絵を抜いて彼女の絵が一等の評価を得て、ある商人から祝いの席に招かれる。

    しかしその祝の場には松溪がおり、騙されたことに気づく津也だったが覚悟を決めて数年ぶりに師匠に会うと、妻を亡くした彼に気を許して体の関係を持ってしまう。

    後日、絵画展の審査員を任された松溪と太鳳が鉢合わせ、その宴の席で「弟子の津也を横取りした」と言う松溪と、彼女から事情を聞いた太鳳が口論となってしまう。松溪から「津也は今でもわしの女。その証拠にあいつのお腹には俺の子が宿ってる」と打ち明けられた太鳳は、それが事実だと分かり翌日彼女を破門にしてしまう。

    絶望した津也は、海辺で堕胎薬を飲み中絶しようとする。そこへ母親の勢以がかけつけ、家で産めばよいと言い、母子は和解する。出産した津也とちきりやは世間から冷たく扱われるが、勢以は堂々としていた。3か月後、太鳳は破門を解き、津也は画壇に復帰する。

    大正7年、第一回文展の会場には、松翠の絵画「母子」、そしてそれを呆然として見上げる松溪の姿があった。

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