ペーター・ヴォールレーベン

樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類の植物であっても自分の根とほかの根をしっかりと区別しているらしい。
では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。
逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。一本一本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。
森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。

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  1. shinichi Post author

    『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』

    by ペーター・ヴォールレーベン

    translated by 長谷川圭

    友情

    私が管理している森のなかに、古いブナの木が集まっている場所がある。数年前、そこで苔に覆われた岩を見つけた。それまでは、気づかずに通り過ぎていたのだろう。ところがある日、その岩が突然目に入った。近寄ってよく見ると、その岩は奇妙な形をしている。真ん中が空洞でアーチのようになっているのだ。苔を少しつまみ上げてみると、その下には木の皮があった。つまり、それは岩ではなく古い木だったのだ。

    湿った土の上にあるブナの朽木は、通常は数年で腐ってしまう。だが驚いたことに、私が見つけたその木はとても硬かった。しかも、持ち上げることもできない。土にしっかり埋まっていたのだろう。ポケットからナイフを取り出し、樹皮の端を慎重にはがしてみた。すると緑色の層が見えてきた。緑色? 植物で緑といえばクロロフィルしか考えられない。新鮮な葉に含まれていて、幹にも蓄えられている ”葉緑素” である。これが意味するのはただ一つ、その木はまだ死んでいないということだ!

    そこから半径一メートル半の範囲に散らばっていたほかの ”岩” の正体も明らかになった。どれも古い大木の切り株だった。切り株の表面の部分だけが残り、中身はとうの昔に朽ち果てたのだろう。察するに、400年から500年前にはすでに切り倒されていた木にちがいない。

    では、どうして表面の部分だけがこれほどの長い年月を生き延びられたのだろうか? 木の細胞は栄養として糖分を必要とする。葉がなければ光合成もできない。つまり、普通に考えれば、呼吸も生長もできるはずがない。そのうえ、数百年間の飢餓に耐えられる生き物など存在しない。木の切り株も同じはずだ。少なくとも、孤立してしまった切り株は生き残ることができないだろう。

    だが、私が見つけた切り株は孤立していなかった。近くにある樹木から根を通じて手助けを得ていたのだ。木の根と根が直接つながったり、根の先が菌糸に包まれ、その菌糸が栄養の交換を手伝ったりすることがある。目の前の “岩” がどのケースにあたるのかはわからなかった。とはいえ、無理やり掘り起こして確かめる気にはなれない。古い切り株を傷つけたくないからだ。

    まわりの木がその切り株に糖液を譲っていたことだけは確かだ。だからこそ切り株は死なずにすんだ。栄養の受け渡しをするために根がつながっている姿は、土手などで観察できる。雨で土が流れて、地中にあった根がむきだしになっているのを見たことはないだろうか? 樹脂について研究した結果、根が同じ種類の木同士をつなぐ複雑なネットワークをつくっているのを発見した学者もいる。ご近所同士の助け合いにも似たこの “栄養素の交換” は規則的に行なわれているようだ。森林はアリの巣にも似た優れた組織なのである。

    ここで一つの疑問が生じる。木の根は地中をやみくもに広がり、仲間の根に偶然出会ったときにだけ結ばれて、栄養の交換をしたり、コミュニティのようなものをつくったりするのだろうか? もしそうなら、森のなかの助け合い精神は──それはそれで生態系にとって有益であることには変わりないのだが── ”偶然の産物” ということになる。

    しかし、自然はそれほど単純ではないと、たとえばトリノ大学のマッシモ・マッフェイが学術誌《マックスプランクフォルシュンク》(2007年3号、65ページ)で証明している。それによると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類の植物であっても自分の根とほかの根をしっかりと区別しているらしい。

    では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が一本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。

    逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。一本一本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。

    森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。互いに助け合う大きなブナの木などを見ていると、私はゾウの群れを思い出す。ゾウの群れも互いに助け合い、病気になったり弱ったりしたメンバーの面倒を見ることが知られている。ゾウは、死んだ仲間を置き去りにすることさえためらうという。

    木はその一本一本がコミュニティを構成するメンバーだが、それでもやはり、すべての木が同じ扱いを受けるわけではないようだ。たとえば、切り株のほとんどは朽ち果て、数十年後(ほとんどの樹木にとっては数十年は短期間にすぎない)には完全に土に還る。先ほど紹介した“苔むした岩”のように、数百年も延命措置がなされるのはごくわずかといえるだろう。

    では、どうしてそのような ”差” が生じるのだろう? 樹木の世界も人間と同じく階級社会なのだろうか? 基本的にはそのとおりなのだが、 “階級” という言葉は当てはまらないだろう。むしろ仲間意識が、さらにいえば愛情の強さの度合いが、仲間をどの程度までサポートするかを決める基準となっているように思える。

    森に入って、葉の茂る天井、いわゆる “林冠” を見上げてみれば、誰にでもわかることがある。通常、木は、隣にある同じ高さの木の枝先に触れるまでしか自分の枝を広げない。隣の木の空気や光の領域を侵さないためだ。一見、林冠では取っ組み合いが行なわれているように見えるが、それはたくさんの枝が力強く伸びているからにすぎない。仲のいい木同士は、自分の友だちの方向に必要以上に太い枝を伸ばそうとはしない。迷惑をかけたくないのだろう。だから “友だちでない木” の方向にしか太い枝を広げない。そして、根がつながり合った仲良し同士は、ときには同時に死んでしまうほど親密な関係になることもある。

    切り株を援助するといった強い友情は、天然の森林のなかでしか見ることができない。私はブナのほかに、ナラ、モミ、トウヒ、ダグラスファー(ベイマツ)の切り株が仲間の助けで生き延びているのを見たことがある。もしかすると、どの種類の木も同じことをするのかもしれない。

    中央ヨーロッパの針葉樹林のほとんどは植林されたものだ。そうした植林地では、樹木はまた違った行動をとることが知られている(本書の「ストリートチルドレン」の章を参照)。植林のときに根が傷つけられてしまうので、仲間とのネットワークを広げられないのだ。たいていは一匹狼として生長し、つらい一生を過ごす。とはいえ、そうした植林地の樹木は(種類によって差はあるが)100年ほどで伐採されるので、どのみち老木にまで育つことはない。

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  2. shinichi Post author

    『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』

    by ペーター・ヴォールレーベン

    translated by 長谷川圭

    木の言葉

     辞書によると、言葉を使ってコミュニケーションできるのは人間だけだそうだ。つまり、話ができるのは人間だけなのだ。では、樹木は会話をしないのだろうか? もしできるのだとしたら、どうやって? いずれにせよ、私たちは彼らの声を聞いたことがない。木は無口な存在だ。風に揺れる枝のきしみや葉のこすれる音は外からの影響で生じただけで、木が自発的に起こしたものではない。

     しかし、じつは木も自分を表現する手段をもっている。それが芳香物質、つまり香りだ。この点では人間も同じで、私たちも香水やデオドラントスプレーを使っている。それに、もしそんなものがなかったとしても、私たち自身の体臭が身のまわりの人の意識や無意識に語りかける役割を担っている。においを嗅いだだけで逃げ出したくなったり、その人に惹きつけられたりした経験は誰もがもっているだろう。

     研究によると、人間の汗に含まれるフェロモンがパートナーの選択でもっとも重要な基準となるそうだ。誰と子どもをつくりたいか、フェロモンが決めているのだ。要するに、私たちは香りを使って秘密の会話をしていることになる。そして、樹木にも同じ能力が備わっていることがわかっている。

     およそ40年前、アフリカのサバンナで観察された出来事がある。キリンはサバンナアカシア(アンブレラアカシア)の葉を食べるのだが、アカシアにとってはもちろん迷惑な話だ。この大きな草食動物を追い払うために、アカシアはキリンがくると、数分以内に葉のなかに有毒物質を集める。毒に気づいたキリンは別の木に移動する。しかし、隣の木に行くのではなく、少なくとも数本とばして100メートルぐらい離れたところで食事を再開したのだ。どうしてそれほど遠くに移動するのか、それには驚くべき理由があることがわかった。

     最初に葉を食べられたアカシアは、災害が近づいていることをまわりの仲間に知らせるために警報ガス(エチレン)を発散するのだ。警告された木は、いざというときのために有毒物質を準備しはじめる。キリンはそのことを知っているので、警告の届かない場所にある木のところまで歩く。あるいは、風に逆らって移動する。香りのメッセージは空気に運ばれて隣の木に伝わるので、風上に向かえばそれほど歩かなくても警報に気づかなかった木が見つかるからだ。

     同じようなことがどの森でも行なわれている。ブナもトウヒもナラも、自分がかじられる痛みを感じる。毛虫が葉をかじると、その噛まれた部分のまわりの組織が変化するのがその証拠だ。さらに人体と同じように、電気信号を走らせることもできる。ただし、その速さはとてもゆっくりしていて、人間の電気信号は1000分の1秒ほどで全身に広がるが、樹木の場合は1分で1センチほどしか進まない。葉のなかに防衛物質を集めるまで、さらに1時間ほどかかるといわれている。

     緊急事態のときでさえこの速さなのだから、樹木はやはりおおらかな存在なのだろう。動きは遅いが、木といえどもそれぞれの部分がほかの部分とつながって生きている。たとえば根に問題が生じたら、その情報が全体に広がり、葉から芳香物質が発散されることもある。しかも、とりあえずにおいを発するのではなく、目的ごとにそれぞれ異なった香りをつくる。

     樹木はまた、どんな害虫が自分を脅かしているのかも判断できる。害虫は種類によって唾液の成分が違うので分類できるのだ。害虫の種類がわかったら、その害虫の天敵が好きなにおいを発散する。すると天敵がやってきて害虫を始末してくれる。たとえば、ニレやマツは小さなハチに頼ることが多いようだ。木々のところにやってきたハチは、葉を食べている毛虫のなかに卵を産む。すると、卵から生まれたハチの幼虫が自分より大きなチョウや蛾の幼虫を内側から食べつくしてくれる。残酷な話だが、ハチのおかげで木にとっては害虫がいなくなり、最小の被害で生長を続けることができるのだ。

     ちなみに、この”唾液を分類する”というのも樹木の能力の一つだ。つまり、彼らにも味覚のようなものがあるということの証しだろう。

     芳香物質によるコミュニケーションの弱点は、風の影響を受けやすいこと。香りが100メートル先まで届かないこともよくある。反面、利点もある。木の内部での情報伝達はとてもゆっくりなのに対して、空気による伝達は短時間で遠くまで伝わるため、自分の体の遠い部分まで短い時間で情報を送ることができるのだ。

     害虫から身を守るには、必ずしも特別な緊急信号を発する必要はない。動物には木が発散する化学物質に反応する習性があるので、そうした化学物質によって木が攻撃されていることや害虫がそこにいることを察知する。そうした害虫を好む動物は、どうしようもなく食欲がかきたてられるのだ。

     それに、樹木には自分で自分を守る力も備わっている。たとえばナラは、樹皮と葉に苦くて毒性のあるタンニンを送り込むことができる。その結果、おいしかった葉がまずくなり、害虫は逃げ出すか、場合によっては死んでしまう。ヤナギも同じような働きをもつサリシンという物質をつくりだす。ちなみに、サリシンは人間には無害だ。それどころかヤナギの樹皮を煎じた茶は、頭痛を和らげ熱を下げる効果がある。頭痛薬のアスピリンも、もとはヤナギからつくられたものだ。

     だが、そのような防衛措置がうまく働くまでにはある程度の時間がかかる。だからこそ、早期警報の仕組みが欠かせない。そして、空気を使った伝達だけが近くの仲間に危機を知らせる手段ではない。木々はそれと同時に、地中でつながる仲間たちに根っこから根っこへとメッセージを送っている。地中なら天気の影響を受けることもない。

     驚いたことに、このメッセージの伝達には化学物質だけでなく、電気信号も使われているようだ。しかも秒速1センチという速さで。人間に比べたらこれでもずいぶん遅いが、動物の世界であれば、クラゲやミミズなど、木々と同じような速度で刺激の伝達をしているものがたくさんいる。情報を受け取った周辺のナラはいっせいにタンニンを体内に駆けめぐらせる。

     木の根はとても大きく広がり、樹冠の倍以上の広さになることがある。それによって、まわりの木と地中で接し、つながることができる。だが、いつもそうなるとはかぎらない。森のなかにも仲間の輪に加わろうとしない一匹狼や自分勝手なものがいるからだ。

     では、こうした頑固者が警報を受け取らないせいで、情報が遮断されるのだろうか? ありがたいことに、必ずしもそうはならないようだ。なぜなら、すばやい情報の伝達を確実にするために、ほとんどの場合、菌類があいだに入っているからだ。菌類は、インターネットの光ファイバーのような役割を担う。細い菌糸が地中を走り、想像できないほど密な網を張りめぐらせている。

     たとえば森の土をティースプーンですくうと、そのなかには数キロ分の菌糸が含まれている。たった一つの菌が数百年のあいだに数平方キロメートルも広がり、森全体に網を張ることができるほどに生長する。この菌糸のケーブルを伝って木から木へと情報が送られることで、害虫や干魃などの知らせが森じゅうに広がる。森のなかに見られるこのネットワークを、ワールドワイドウェブならぬ”ウッドワイドウェブ”と呼ぶ学者もいるほどだ。

     だが、実際にどんな情報がどれだけの規模で交換されているのかについては、ほとんどわかっていない。ライバル関係にある種類の異なる樹木とも連絡を取り合っている可能性すら否定できない。菌には菌の事情があるはずだ。彼らがさまざまな種類の樹木に対し分け隔てなく接し、仲を取りもっている可能性も否定できないのだ。

     衰弱した木は、抵抗力だけでなくコミュニケーション能力も弱まるようだ。その証拠に、害虫は衰弱した木を選んで集中的に攻撃する。害虫は、警報を受け取ったはずなのに反応せずにじっと黙り込んでいる木を選んで襲いかかっているように見える。沈黙は、その木が重い病気にかかっているからかもしれないし、地中の菌の網が失われて情報が入ってこないからかもしれない。そうした木は毛虫や昆虫の格好の餌食となる。先ほど紹介したようなわがままな一匹狼も、仲間からの情報が入ってこないため、健康であっても害虫に襲われやすくなる。

     森林というコミュニティでは、高い樹木だけでなく、低木や草なども含めたすべての植物が同じような方法で会話をしているのかもしれない。しかし、農耕地などでは、植物はとても無口になるようだ。人間が栽培する植物は、品種改良などによって空気や地中を通じて会話する能力の大部分を失ってしまったからだ。口もきけない、耳も聞こえない、だから害虫にとても弱いのだ。そのため、現代の農業では農薬をたくさん使うようになった。栽培業者は森林を手本として、穀物やジャガイモをおしゃべりにする方法を考えたほうがいいのではないだろうか。

     ところで、樹木と虫の会話は、防衛や病気だけを話題にしているわけではない。違う種類の生き物のあいだで喜ばしいシグナルが交換されることもある。そういったことに気づいたり、そのための香りを〝嗅いだり〟したことがあるだろう。そう、花の心地よい香りもメッセージの一つなのだ。

     花は意味もなくいいにおいをまき散らしているのではない。ヤナギやクリ、あるいは果実のなる木は、香りのメッセージで自己を顕示し、ミツバチたちに自分のところに立ち寄るよう話しかけているのだ。糖分がたっぷり詰まった甘い蜜は、花に集まって受粉の手助けをしてくれた昆虫たちへのお礼のプレゼント。花の香りだけでなく、形や色もシグナルの一種だ。緑の背景に鮮やかに浮かび上がるレストランのネオンサイン、といったところだろうか。このように、樹木は香りと視覚と(根の先端の細胞でやりとりする)電気を使って会話をしている。では、木々は、音を出して話したりはしていないのだろうか?

     この章の始めに私は、木は”無口”だ、と言った。だが、最近の研究ではそれすら疑わしくなってきたようだ。西オーストラリア大学のモニカ・ガリアーノがブリストル大学およびフィレンツェ大学と協力して、地中の音を聞くという研究を行なった。彼女は、研究室に木を植えるのは大変なので、かわりに穀物の苗を使った。するとどうだ、測定装置に根っこが発する静かな音が記録されたのだ。周波数220ヘルツのポキッという音が。根が”ポキッ”? 

     枯れ木もかまどの火にくべるとパチパチと音を立てるので、特に珍しいことではないと思うかもしれない。しかし、研究室で記録された音は無意味な騒音ではなかった。というのも、音を立てた根から生えた苗とは別の苗が音に反応したからだ。220ヘルツの”ポキッ”という音がするたびに、苗の先がその方向に傾いた。つまり、この周波数の音を”聞き取っていた”のだ。

     植物は音を使って情報の交換をしているのだろうか? それが本当なら、とても興味深い。私たち人間も音を使ってコミュニケーションをとる。もし木々も音を使えるなら、私たちは彼らのことをもっとよく理解できるようになるかもしれない。ブナやナラやトウヒの気分や体調が、私たちにもわかる日がくるかもしれないのだ。この分野の研究は始まったばかりで、まだまだわからないことがたくさんある。でも、あなたが森のなかで小さな物音を聞いたら、もしかするとそれは風の音ではないのかもしれない……。

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  3. shinichi Post author

    『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』

    by ペーター・ヴォールレーベン

    translated by 長谷川圭

    冬眠

    夏の終わりごろ、きれいな緑色だった樹冠が淡い黄色に変わり、森は独特の雰囲気に包まれる。まるで木々が疲れ果てて、活動期を終えてしまったかのようだ。私たち人間と同じで、一生懸命に働いたあとはゆっくり休みたいのだろう。

    そんなとき、クマや野ネズミなら冬眠するが、樹木はどうするのだろう? 私たち人間のアフターファイブのような安らぎの時間が彼らにもあるのだろうか? じつは、樹木と同じような行動をする動物がいる。ヒグマだ。ヒグマは冬に備え、夏から秋にかけてたくさん食べて体重を増やす。樹木も同じだ。クマと違って果実やサケを食べたりはしないが、日の光をいっぱい浴びて糖質などをつくり、クマのようにそれを皮膚に蓄えておく。ただし、樹木は太ることができないので、今ある組織を栄養分で満たすだけだ。

    クマは食べれば食べるだけどんどん太るが、木の場合、満たされてしまえばそれで終わりになる。たとえば野生のサクラやナナカマドなどは、まだまだ日差しの強い時期が続いているというのに、8月になると早くも赤く染まりはじめる。今年の活動はもう終わり、といわんばかりに。樹皮の下と根っこのタンクが満たされたので、それ以上糖分をつくっても蓄える場所がないからだ。まだまだ太ろうとするクマを尻目に、そういう木々は冬眠の準備を始める。ほかの樹種は貯蔵タンクが大きいのだろう、秋の終わりまで光合成を続ける。だが、最初の木枯らしが吹くころにはそれも終わり、すべての活動を停止する。

    なぜ、そんなことになるのだろう。理由の一つは水分にある。木は液体の水しか利用できない。水が凍ってしまうと、体内の水の通り道が凍った水道管のように破裂してしまうため、多くの樹種ではすでに7月ごろから活動を弱めて、体内に流れる水の量を減らそうとする。

    ただし、(先に挙げたサクラやナナカマドなどの例外を除いて)2つの理由であまり早い時期に活動を停止してしまうわけにはいかない。1つは、晩夏に訪れる天気のいい日を光合成に利用するため。もう1つは、葉に蓄えられた物質を幹や根に移動させるためだ。特に重要なのは葉緑素だ。翌年の春に新しい葉に送り込むために、葉緑素を成分に分解して、どこかに保管しておかなければならない。

    葉緑素の分解と保存が終われば、葉の本来の色である黄色や茶色が見えてくる。この色はカロテンからきているのだが、警告の意味もあるのではないかと考えられている。この時期になると、暖かい場所を求めてアブラムシをはじめとする昆虫が樹皮のしわの隙間などに逃げ込む。健康な木は葉の黄色をきれいに輝かせることで、自分には翌年も抵抗力があるぞ、と合図している。これは、その木には免疫力があって充分な防御物質が分泌できるということを意味しているので、アブラムシの子孫などの目には脅威に映るのだろう。だから彼らは、発色の薄い病弱そうな樹木を探す。

    しかし、ここまで慎重な冬支度がどうしても必要なのだろうか? いや、針葉樹はほかにもたくさんの方法があることを教えてくれる。彼らは緑色の針葉をずっとつけたままだ。毎年葉を生え替わらせようなどという気はまったくない。だが、かわりに、不凍液の役割を果たしてくれる物質を葉のなかに含めることにした。また、乾燥した冬でも水分が失われないように、針葉の表面をワックスの層で厚く覆っている。樹皮も硬く、呼吸のための気孔はとても深い部分にある。どれも水分がなくなるのを防ぐためだ。乾燥した地面からは水を吸い上げることができないのに、地上の木が水分をどんどん失えば、そのうち枯れて死んでしまうからだ。

    一方、広葉樹にはそうした仕組みがない。だからブナやナラは寒い時期がくると、大急ぎで葉を落とす。では、どうして広葉は分厚い保護層や不凍液をもつように進化しなかったのだろう? 広葉樹は、毎年春になるとせっせとたくさんの葉をつくり、冬がくると葉を落とす。たった数カ月のためにこれだけのことをするのは、果たして理にかなっているといえるだろうか?

    進化という観点から見ると、その答えは〝イエス〟だ。広葉樹がこの世に現われたのはおよそ1億年前と考えられているが、針葉樹はすでに1億7000万年前に誕生していた。つまり、広葉樹のほうが〝新しい〟。広葉樹が行なう冬支度は、実際とても有意義だ。そのおかげで〝冬の嵐〟という巨大な力に耐えられるからだ。

    10月を過ぎたころから強風が増えてくる。樹木にとっては生きるか死ぬかの大問題だ。時速100キロに値する風が吹けば、大木ですら倒れることがある。時速100キロといえば、週に一度は吹く程度の強さでしかないが、換算すれば200トンもの重圧がかかる。ただでさえ秋の長雨で土壌がぬかるみ、根が不安定になっているので、普通ならひとたまりもなく倒れてしまうはずだ。

    そこで広葉樹は対策を立てた。風の当たる面を減らすために、帆を、いや、〝葉〟をすべて落とすことにしたのだ。その結果、一本につき1200平方メートルもの面積に相当する葉がすべて地面に消えてなくなる。帆船にたとえると、40メートルの高さのマストに掲げた幅30メートル高さ40メートルのセールをたたむのと同じ計算だ。それだけではない。幹と枝は、一般的な乗用車などより風の抵抗を受けないような形になっている。しかも、しなることができるので、突風が吹いても風による圧力は樹木全体に分散する。こうした仕組みが結合して、広葉樹も無事に冬を越すことができる。

    では、5年や10年に一度の強風が吹いたときにはどうなるのか? そんなとき、森の樹木は協力して危機に立ち向かう。どの木もそれぞれ独自の強さや太さや、経験をもっている。そのため、暴風が吹くと、どの木もいっせいに同じ方向にしなるが、それぞれが違った速度でもとに戻ろうとする。木が一本しかないと、最初の風で揺れてバランスを崩しているところにもう一度強風が吹いたときには、しなりすぎて倒れてしまう可能性が高いだろう。

    しかし、森ではそうはならない。それぞれのスピードで揺れるので、枝同士がぶつかり合い、揺れにブレーキがかかる。そのため、バランスを崩している時間が短くなり、次の強風がくるころにはみんな静止している。だから、二度めの強風も一度めと同じように耐えられるのだ。みんな個体として自立しながらも、同時に社会としても機能している。森林を見ていると、思わず感心してしまう。とはいえ、念のために付け加えておくが、嵐の日に森に入るのはできるだけ避けたほうがいい。

    話を戻そう。広葉樹が毎年欠かさず葉を落とすのは、風に対処するためだけではなく、別の理由もある。雪だ。すでに述べたように、1200平方メートルもの面積に値する葉が落ちてなくなるのだから、枝に積もるごく一部を除いて、降ってくる雪の大半は直接地面に落ちることになる。

    雪よりさらに重いのが氷だ。私も数年前に体験したことがある。その日、気温は0度を少し下まわり、霧雨が降っていた。そんな天気が3日も続いていたので、私は森のことを心配していた。雨は枝に落ちるとすぐに氷に変わっていったからだ。どの木もガラスでコーティングされたように見た目はとてもきれいだったが、シラカバの若木は重みに耐えかねてみんな腰を曲げていた。

    この子たちはもうだめだ、と私は悲しくなったのを覚えている。成木、特にダグラスファーやトウヒといった針葉樹もひどいありさまで、木によっては枝の3分の2を失っていた。大きな音を立てて折れた枝が落ちてくるのだ。彼らがふたたび以前のような樹冠を茂らせるには、数十年かかるだろう。

    ところが、私はその後、曲がってしまったシラカバの若木たちに驚かされた。数日後、氷が溶けたときに95パーセントがまっすぐに立ち直ったのだ。それから数年たった今、彼らにはなんのダメージも残されていない。ただし、わずかとはいえ、再生しなかった木もある。曲がって安定を失った幹が折れ、ゆっくりと土に還っていった。

    落葉とはつまり、気候に対する優れた防衛手段なのだ。それに樹木にとってはトイレをすませる機会でもある。私たちが夜寝る前にトイレに行くように、樹木も余分な物質を葉に含ませて体から追い出そうとする。木にとって葉を落とすことは能動的な行為であり、冬眠に入る前にすませておかなければならない。翌年も使う物質を葉から幹に取り込んだら、樹木は葉と枝のつなぎ目に分離層をつくる。あとは風が葉を吹き落としてくれるのを待つだけだ。

    この作業が終わると、木はようやく休むことができる。活動期の疲れを癒やすためにも、休息は絶対に必要だ。睡眠不足が命にかかわる問題なのは、樹木も人間も変わりない。実際、ナラやブナを植木鉢に植えて、室内に置いてもその木は長生きできない。人間がいるのでゆっくり休めないからだ。ほとんどの場合、1年以内に枯れてしまう。

    ところで親木の下に立つ若木には、特別なルールがある。親木が葉を失うと、日の光は森の地面にまで届くようになる。若木にとっては思う存分光を浴びて、エネルギーを蓄えるチャンスなので、まだ葉を落とすわけにはいかない。だが、気温が突然下がると大変だ。マイナス5度ぐらいの寒さになると、どの木も活動が鈍り、冬眠を始めてしまう。そうなるともう分離層をつくれないので、葉を落とせなくなってしまう。

    でも、幼い木はそうなってもかまわない。まだ小さいので、風になぎ倒されることも、雪に押しつぶされることもないからだ。このような時間差を、若木は秋だけでなく春にも利用する。親木たちより2週間ほど早く新しい葉をつけ、日光浴を楽しむ。

    では、どうして若木には活動を始める時期がわかるのだろう? 親木がいつ葉を広げるのか、知らないはずなのに。その答えは気温の差にある。地面の近くでは、30メートルの上空に比べて2週間ほど早く暖かい春が訪れる。樹冠のあたりはまだ厳しい風が吹いて気温も低く、暖かくなるにはもう少し時間がかかるが、地面の近くは落ち葉の層が腐葉土として熱を発するうえに、大木の枝が晩冬の風をブロックしてくれるので、上空よりも気温が高くなるのだ。秋の2週間と合わせておよそ4週間、若木は存分に生長できる。この期間だけで、生長期全体の20パーセントにも相当する。

    広葉樹にはさまざまなタイプの倹約家がいる。基本的に、葉を落とす前に翌年のために蓄える物質を枝に取り込むのだが、樹木のなかには倹約する気などさらさらない種類もあるようだ。たとえばハンノキは、明日のことなどどうでもいいとばかりに緑色の葉を落とす。ハンノキは主に湿った肥沃な土地に生えるので、毎年あらたに葉緑素をつくる余裕があるのだろう。必要となる物質は、足元の菌類やバクテリアが落ち葉からつくってくれるので、それを根から吸収すればいいのだ。

    窒素もリサイクルする必要はない。ハンノキに共生する根粒菌がどんどん供給してくれる。ハンノキ林1平方キロメートルにつき、根粒菌が1年で30トンもの窒素を空気から取り込んで、根に譲り渡してくれる。これは農家が畑に散布する窒素肥料よりも多い量だ。ほかの樹種が倹約に努めるかたわらで、ハンノキは贅沢な暮らしを続けている。トネリコやニワトコも同じような特徴をもっていて、秋の森林の模様替えには参加せずに、緑のまま葉を落とす。

    では、色を変えるのは倹約家だけなのだろうか? いや、そうとはかぎらない。黄色やオレンジ色や赤は葉緑素がなくなったあとに見られるカロテノイドやアントシアンの色だが、同じようにのちに分解される。ナラはとても慎重な木なので、それらすべてを貯蔵してから茶色くなった葉だけを落とす。ブナは茶色くなった葉もまだ黄色い葉も落とし、サクラは赤い葉を落とす。

    広葉樹の話が続いたので、少し針葉樹に目を向けてみよう。針葉樹の仲間にも広葉樹のように葉を落とすものがいる。カラマツだ。どうしてカラマツだけがほかの針葉樹がしないことをするのか、私にはわからない。葉を落とすか落とさないか、そのどちらが生き残りにとって有利なのか。もしかすると、自然の進化も答えを決めかねているのかもしれない。葉を落とさないことの利点は、春になっても新しい葉をつくることなく、すぐに光合成が始められることにある。だが、樹冠が春の日差しを浴びて光合成を始めるころにはまだ地面が凍っていることもある。そういうときには、水分が根から送られてこないため、葉が乾燥してしまう。去年できたばかりの葉はワックスの層がまだ厚くないので、水分の蒸発を抑えることができずに特に枯れやすくなっている。

    ちなみに、トウヒやマツ、モミやダグラスファーといった針葉樹も葉を落とす。傷んであまり役に立たなくなった古い葉を捨てるためだ。それでもモミは10年、トウヒは6年、マツは3年、葉を使いつづける。枝が区分けされていて、その葉が何年めかもわかるようになっている。マツは毎年4分の1の葉を捨てるので、冬は少しみすぼらしい姿になるが、春にはまた新しい葉が生えて、元気な姿を見せてくれる。

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