池内紀

ナチズムを日本語に一番正確に訳すとすれば、「投票型独裁制」となります。国民が投票して意思を示しながら、指導者は独裁的に進めていく。議会のような非常に時間のかかる機構は間に差し挟まない。政治体制からいえば、最も効率的なものとなります。もちろん、独裁者が正常で、かつ非常に有能であれば、です。
ヒトラーは、初期は非常に有能で、ひらめきがあって、雄弁で、清潔で、政治家に求められる積極的な言葉を10ぐらい重ねても構わないような政治家であったわけです。あれだけ悪名とどろいたヒトラーですけれども、初期の5年間ぐらいは、国民の声をひとりで代弁することができたのです。
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1938年ぐらいから、ヒトラーの周りから非常に有能で骨のある人物がひとり欠け、2人欠け、あるいは自殺したりしていき、徐々に離れていくのです。たとえば、シャハトは38年にとうとうゲーリングに職を取ってかわられました。それでもヒトラーはシャハトに未練があって、無任所の大臣に据えておいたのですけれども、44年にヒトラー暗殺事件に関与したとして逮捕されて強制収容所に入れられてしまいます。
才能ある人たちが死んだり辞めていって、その後がまに、取り持ちや出世ねらいがどんどん入ってきます。彼らは、親分が何気なく言ったことを拡大解釈して受け取ったり、ちょっとしたことを非常に膨らませたりしました。要するに、その意に沿うように立ち回るご機嫌取りですよね。それを政策として実行するわけですから、当然、奇妙な状況になっていきました。だから、38年を境にして、ヒトラーの政治は急激に変わっていきます。批判のない権力構造がいかに早く腐敗するか。組織がいかに自壊していくか、変質していくのが早いのかということは、ナチスの体制を見ていくとよく分かります。

One thought on “池内紀

  1. shinichi Post author

    ヒトラーはなぜ熱狂的に支持されたのか
    by 池内紀

    季刊 政策・経営研究(2016 vol.2)
    三菱UFJリサーチ&コンサルティング

    https://www.murc.jp/uploads/2016/04/201602_all.pdf

     
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    ナチズムを日本語に一番正確に訳すとすれば、「投票型独裁制」となります。国民が投票して意思を示しながら、指導者は独裁的に進めていく。議会のような非常に時間のかかる機構は間に差し挟まない。政治体制からいえば、最も効率的なものとなります。もちろん、独裁者が正常で、かつ非常に有能であれば、です。

    ヒトラーは、初期は非常に有能で、ひらめきがあって、雄弁で、清潔で、政治家に求められる積極的な言葉を10ぐらい重ねても構わないような政治家であったわけです。あれだけ悪名とどろいたヒトラーですけれども、初期の5年間ぐらいは、国民の声をひとりで代弁することができたのです。

    もう少し正確に言えばひとりじゃないのですが、最終的にはヒトラーひとりが判断して直ちに実行しました。現状に照らしてぜひとも必要な議案あるいは法律が、即決で成立していくという体制ができたのです。国民社会主義は確固とした主義、考え方であって、いわゆる資本主義を中心とするデモクラシーやコミュニズム――いわゆる共産主義と並立して、あの時代は大きな国を動かすひとつの政治思想であったわけです。

    それをたたきつぶすのにデモクラシーの国とコミュニズムの国とが、5年がかりとなったわけです。5年もかかったのは、そしてナチスの形勢が非常に悪くなって以後も3年継続したのは、それだけ「国民社会主義」という思想が生きていたからです。

    そういうことですから、初めにお断りしておきますと、「ヒトラーは悪いやつだ」「ヒトラーという悪いやつがひどいことをした時代だ」という一面的なことでは決してないわけです。

     
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    ヒトラーは初めのうちは独裁制をするつもりはなかったと思います。ヒャルマル・シャハトという、財務大臣を歴任した非常に頭のいい人物が述べていることですが、「少なくとも当座は、この形にしなければ山積している問題が解決できない。だから、議会には停止してもらって、議会で討議するのを省いて、全権を委任された形で問題を処理していきたい」と国民にきちんと言うのですよ。

    最近の言葉だと、マニフェストとかアジェンダセッティングと言いますが、「われわれはこういうことをやります」と、近年の政党がよく語っていますけれども、あれはナチスが最初にやったわけです。「われわれはこれをする。国民皆さんの意見を聞きたい。イエスになればやる。もしノーの声が大きければやらない」というわけです。

    そして実際にヒトラーは課題をどんどん解決していくわけです。冒頭、当時のドイツの人口は6,500万人と紹介していましたけど、その人口規模に対して失業者が600万人、一説によれば700万人いたのです。要するに、10人に1人は失業しているというひどい状態でした。そうした中で、ヒトラーは失業者を減らし、農業の生産を高めて、生活の安定を図り、若い人が結婚をできるような制度にして、産業家・工業家の中で巨利を得ているものは全部はき出してもらい、それを国民に分割したのです。

    フォルクスワーゲンという自動車メーカーがありますが、ドイツ語で「フォルクスワーゲン」は「国民車」という意味で、これは国民社会主義が生み出した車なのです。ヒトラーは、「車の利用が豊かなものだけに限られているのは社会的不公平だ。すべての国民の手にわたる車をつくって、国民が安く買えるようにしたい」と、直ちにフェルディナント・ポルシェという自動車工学の権威に委託してカブトムシ型の車をつくってもらって、それを2年後に市販したのです。

    それから、失業者に対して仕事を出さなければいけないけれども、専門的な仕事は限られた人しかできない。一方、もっこを担いだり、ものを運んだりすることは誰だってできる。そこで、道路、いわゆる「アウトバーン」をつくるわけです。あのころは列車の時代で、鉄道が生命だ考えられていましたが、「これからは車だ、道路だ」という考えのフリッツ・トートという人物がいて、彼に全部委託して、現在のドイツで使われている高速道路のかなりの部分をあの時代につくりあげたのです。

    また、貧しい生活をしていて、旅行もできないという人たちに、非常に安く、そして夫婦で豪華客船の旅をするということを、社会福祉で実現するのです。ナチスの福利厚生施設は非常に充実していて、全国で2,500人ぐらいの事務局員を抱えており、7万5,000人ぐらいのボランティア、特に若い人が手伝っていました。それで、映画も見られない、芝居も見られないという貧しい家庭を対象として、いろいろなイベントや催しを提供して、そういうことに縁のなかった人たちがコンサートに行ったり、芝居を見たり、運がよければ船旅ができたりするようになったのです。だから、それまでナチスに対して非常に厳しい目で見ていた人が、なだれを打つようにして支持していったのです。要するに、国民社会主義がここに実現できたわけです。これが1938年までの状況です。

     
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    (1938年までのドイツ)。。その時代には、ヒトラーが非常にすばらしい政治家で、ナチズムがすばらしい思想であるという一面があったということです。こんにち、そのことはあまり知られていません。でも、そうでなくては、敗色が濃くなってから後の戦争でのドイツの粘り方があり得ないわけです。また、アウシュビッツ等での大虐殺についても、あれはシステムがどうしようもなく働いたからだけではあり得ない。なんらかの思想的な背景がなければ、ああいうことはあり得ないと思うわけです。

    先ほどお話ししました通り、たとえばナチスの党大会の記録は、自分がいいと見込んだ、ほとんど無名の女性であったレニに任せる。道路づくりはトートという道路について新しい考えを持っている男に任せる。宣伝は口八丁手八丁のゲッベルスに任せる。ヒトラーという人物は独裁者であって、同時に共催者で、周りに非常に有能なスタッフを抱えていた。ヒトラーの初期がよかったのは、すべてそれがうまくいったからです。

    財務もそうした分野のひとつです。財政については、シャハトという人物にヒトラーは任せました。「ヒトラーを支えた銀行家」という本があって、翻訳もありますが、その人物の評伝です。シャハトは、ナチスの時代の財務を担当して、1920年代の天文学的なインフレを退治した男です。23年に大インフレが起きたときに彼は抜擢さ45オープンカレッジれました。当時のシャハトはまだ40代になったばかりだったと思いますけれども、その彼がドイツ銀行の総裁になるのです。40代で直ちに総裁になって、レンテンマルクという新しい財政法を導入し、それでインフレを退治するわけです。世の中にはいろいろな才能の持ち主がいますけれども、彼は財務の天才にあたるでしょうね。

    シャハトを財務担当に抜擢しましたが、彼自身はもともとナチスが大嫌いで、「ナチスなんていう政体は国を滅ぼす元だ」と公言していました。そのようなことを言う人物をドイツ銀行総裁に任じて、同時に経済大臣に任じたのです。ナチスからすれば、一番おいしい職を部外者、しかもナチスが大嫌いな男に取られるわけですから、ゲーリングなんかは猛烈に反発しました。シャハトを暗殺してしまおう、という感じだったのだと思います。これに対してシャハトは「撃つのは構わない。ピストルを使うのも構わないけれど、後ろから撃ってくれるな。ちゃんと前から撃ってくれ」ということを公然と言っていたのです。それによって、逆に暗殺できなくしたわけです。シャハトは大変な知恵者で、有能で、ナチスの5年間の財務は大きく立ち直りました。

    ヒトラーのやり方は、これと見込んで能力のある人物に全部を任せるのです。当然、いろいろなナチスの焼きもち焼きや取り巻きが「なぜおれじゃなくて、あいつだ」と言ってくるわけです。それを全部強力にバックアップして排除する。34歳の女性がナチスの大イベントの映像を撮影するとか、ある人物が描いたアウトバーンの青写真が3,000kmぐらい実現するとか、そういうことが起こりました。さきほどお話しした福利厚生はロベルト・ライという、これまた天才的な人物が担当するわけです。ほかにも、たとえばヒトラーの写真は、「写真はおまえだ」と、決められた写真家がすべて撮っていました。だから、ヒトラーにはいろいろな写真がありますけれども、全部ハインリヒ・ホフマンという写真家が撮っています。ホフマンはヒトラーの人物像を際立たせるのが非常にうまかったのです。そういう、それぞれが専門的な才能を持っている人物がヒトラーの周りに10数人もいたわけです。

    ただ、1938年ぐらいから、ヒトラーの周りから非常に有能で骨のある人物がひとり欠け、2人欠け、あるいは自殺したりしていき、徐々に離れていくのです。たとえば、シャハトは38年にとうとうゲーリングに職を取ってかわられました。それでもヒトラーはシャハトに未練があって、無任所の大臣に据えておいたのですけれども、44年にヒトラー暗殺事件に関与したとして逮捕されて強制収容所に入れられてしまいます。

    才能ある人たちが死んだり辞めていって、その後がまに、取り持ちや出世ねらいがどんどん入ってきます。彼らは、親分が何気なく言ったことを拡大解釈して受け取ったり、ちょっとしたことを非常に膨らませたりしました。要するに、その意に沿うように立ち回るご機嫌取りですよね。それを政策として実行するわけですから、当然、奇妙な状況になっていきました。だから、38年を境にして、ヒトラーの政治は急激に変わっていきます。批判のない権力構造がいかに早く腐敗するか。組織がいかに自壊していくか、変質していくのが早いのかということは、ナチスの体制を見ていくとよく分かります。

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