大毘盧遮那成佛神變加持經 巻七

經云。謂阿字門一切諸法本不生故者。阿字是一切法教之本。凡最初開口之音皆有阿聲。若離阿聲則無一切言説。故爲衆聲之母。凡三界語言皆依於名。而名依於字。故悉曇阿字。亦爲衆字之母。當知阿字門眞實義。亦復如是。遍於一切法義之中也。所以者何。以一切法無不從衆縁生。從縁生者。悉皆有始有本。今觀此能生之縁。亦復從衆因縁生。展轉從縁誰爲其本。如是觀察時則知本不生際。是萬法之本。猶如聞一切語言時即是聞阿聲。如是見一切法生時。即是見本不生際。若見本不生際者。即是如實知自心。如實知自心即是一切智智。故毘盧遮那。唯以此一字爲眞言也。而世間凡夫。不觀諸法本源故。妄見有生。所以隨生死流不能自出。如彼無智畫師自運衆綵。作 可畏夜叉之形。成已還自觀之。心生怖畏頓躄於地。衆生亦復如是。自運諸法本源畫作三界。而還自沒其中。自心熾然備受諸苦。如來有智畫師既了知己。即能自在成立大悲漫荼羅。由是而言。所謂甚深祕藏者。衆生自祕之耳。非佛有隱也。

2 thoughts on “大毘盧遮那成佛神變加持經 巻七

  1. shinichi Post author

    経〈『大日経』巻二〉に「阿字門一切諸法は本不生の故に」と説かれているのは、阿字が一切法教の本であるからである。凡そ最初に口を開く音には、すべて阿の声がある。もし阿の声を離れたならばあらゆる言説は存在し得ない。故に(阿を)衆声の母とする。凡そ三界の言語は、すべて名〈単語〉に依って成立している。そして名とは字〈文字。またそれによって表される音〉に依って成立するものであるから、悉曇〈サンスクリットの古い文字体系の一つ。ここでは単にサンスクリットの意〉の阿字をもって様々な字の母とする。まさに知るべきである、阿字門の真実義もまたそれと同様であることを。それは一切法〈あらゆる事物・事象・存在〉の義において普遍なるものである。なんとなれば、一切法で衆縁〈様々な条件〉によって生じないということは無いのであるから、縁によって生ぜるものには全て、その初めが有りその本が有る。しかしそこで今、その能生[のうしょう]の縁〈何事かを生み出す条件〉を(それぞれ)観察してみたならば、それらもまた諸々の因縁によって生じたものである。(そのようにその基を突き詰めていけば、果てしなく)展轉し、(すべて)縁に従って生じたものである。(創造神・創造主などといった万物の始源や根源を主張する者は畢竟、無限遡行の過失に陥って、ついにその「究極の始源」を証すことなど出来はしない。)一体、何者がその根本であろうか。そのように観察していった時、則ち「本不生際」とは万法の本であることを知る。それはあたかも、あらゆる言語を聞いた時には必ず阿の声を聞くようなものである。そのように一切法の生を見た時、すなわち本不生際を見るのである。もし本不生際を見る者は、実の如く自心を知る。実の如く自心を知るとは即ち、それが一切智智である。故に毘盧遮那〈大日如来〉は唯だこの一字〈阿字〉を以て真言とされた。しかるに世間の凡夫は諸法の本源を観察することなど無いため、妄りに「生が有る」と考える。そのようなことから生死流転し自ら解脱することが出来ない。それはあたかも、智慧の無い画師が自ら筆を振るって怖ろしい夜叉を描きあげた後、それを自分で見て、そのあまりの畏ろしさに卒倒してしまうようなものである。衆生〈生けるもの〉もまたそれと同様である。自らが(なんらか恒常にして絶対的実在たる)諸法の本源があると妄想して三界を作り上げ、むしろ自らその中に埋没し、自らの心が炎のように燃え盛って諸々の苦しみを受ける。如来という智慧ある画師は、(それが自らが描いた絵に過ぎないものであることを)全く理解しており、その上で(この世の一切が本不生であることを、衆生に視覚的に開示するため、)自在に大悲漫荼羅を建立する。このようなことから、いわゆる甚深秘蔵〈密教〉とは、衆生自らがこれ〈諸法本不生〉を秘密としてしまっているのであって、仏陀が何かを隠そうとしてそうあるものではない。

    Reply
  2. shinichi Post author

    吽字義

    by 空海

    若見本不生際者。即是如實知自心。如實知自心即是一切智智。

    もし本不生際を見る者は、実の如く自心を知る。実の如く自心を知るは、即ちこれ一切智智なり。

    ものごとの根本を見ることができる人は、ありのままに自分の心を知ることになる。ありのままに自分の心を知るということは、すなわち仏(大日如来)の智慧を得ることである。

    Reply

Leave a Reply to shinichi Cancel reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *