逢坂冬馬

 紙面はまるで、赤軍がまったくの無傷で勝ったような書きぶりだった。
そのなかに、詩人、イリヤ・エレンブルグの短い作品が載っていた。
キエフ生まれのユダヤ人。革命前からのボルシェヴィキで、フランスに滞在していたが、対独敗戦前をにソ連に帰国していた彼は、ヨーロッパ滞在時はピカソやモディリアーニといった芸術家とも交流していた耽美主義の巨匠だ。その経歴もあって従軍作家として活躍している彼は、兵士向けにこんな記事を掲載していた。

ドイツ人は人間ではない。我々は話してはならない。殺すのだ。もしドイツ人を一人も殺さなければ一日を無駄にしたことになる。もしドイツ人を殺さなければ、彼に殺される。
ドイツ人を殺せ。ドイツ人を生かしておけば、奴らはロシア人の男を殺し、ロシア人の女を犯すだろう。あなたがドイツ人を殺したなら、もう一人のドイツ人も殺せ。費やした日数を数えるな。歩いた距離を数えるな。殺したドイツ人を数えろ。ドイツ人を殺せ! 母なる祖国はそう叫んでいる。弾を外すな。見逃すな。殺せ!

なんだこれは。セラフィマは眉をひそめた。詩人が書いたとも思えない幼稚で露骨なプロパガンダであり、憎悪以外になにもない。男のエレンブルグが危機感を煽るのに敵が「ロシア人の女を犯す」というのも、女がロシアの所有物だと言われているようで腹が立つ。新聞をそっと閉じて腕で顔を覆った。

3 thoughts on “逢坂冬馬

  1. shinichi Post author

    本屋大賞受賞作で描かれる“戦争の実像”とは

    逢坂冬馬

    サイカル by NHK

    https://www3.nhk.or.jp/news/special/sci_cul/2022/04/story/story_220406/

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    独ソ戦のソ連側の女性スナイパーというのはやったことがない素材だし、たぶん地味なものとして受け止められるんじゃないかというような思いがあったので、今回の受賞は予想外でした。

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    歴史上類を見ない、突出した存在でありながら語られなかった存在で、少なくとも日本の小説の中ではソ連側の女性兵士を素材にした作品はなかった。語られざる人たちを語ることに小説の意義があると思っていたんです

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    (転機となったのは2015年にノーベル文学賞を受賞した、ベラルーシのスベトラーナ・アレクシェービッチさんの『戦争は女の顔をしていない』との出会いだった。500人以上の元女性兵士たちの証言を読み、女性から見た戦争を小説として描くという考えが固まったという。)

    読んだ時に言葉で戦争体験というものを読み取ることができた。そういう体験は初めてで、こういう女性の目から見た戦争というものだったら書けるかもしれないと思ったんです。これは自分がやるべきだし、やらないとひょっとしたらほかの人がやってしまうかもしれないという思いがあって、『俺がやらなきゃ誰がやる』という気持ちと、『俺がやらなきゃ誰かやる』という気持ち、そのはざまで書いたという感じですね。

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    男性兵士からもどことなく阻害され、戦後にも疎外された存在だった女性兵士から見た戦争の苦痛を踏まえ、主人公は何のために戦う存在かということを考えたら、ものすごくジェンダーに対する考え方が前面に出た小説に仕上がった。それがこの小説の特徴ですね。

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    この世のありとあらゆる事象の中で何が嫌いかというと戦争が嫌いなんです。だからこそ書く意味があるというふうに思っていて。嫌いだから全く書かないというやり方もあるけれど、戦争のどういうところが嫌いかを伝えるために、戦争の悲惨さや異常性を書くという方向に進むことにしたんです。

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    (作品の冒頭、主人公は「お前は戦うのか、死ぬのか」と突きつけられる。)

    この二者択一自体が大きな欺まんをはらんでいて、その二者択一の中から選び取る答えに実はメリットがないというのが、この小説のテーマです。作品の中でも、二者択一じゃないものを選んだ人が実は最後に出てくるんです。それが何なのかということが、自分なりの回答なので、ぜひ読んでみてほしい。

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    登場人物の中に決して完成された兵士なんていないんです。まともな倫理観とまっとうな価値観を持っているような子でも、戦場というものに適合した時、気がつくと自分が撃った敵兵の数を数値として競い合うようになっている。内面が変化して、以前の自分ではいられなくなってしまうということ、それはひょっとしたら死とはまた別の恐怖ではなかったか。そういうことを訴えたかった。

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    (作品を作る上で「大きな影響があった」と振り返るのが、祖父から聞いた戦争体験だ。)

    体験したことをいろいろ話してもらって、すごく分かったのが、おそらく戦争に行く前と戦争から帰ってきたあとで、祖父にとってのものの見方とか、人間としての価値観の在り方みたいなのが変わってしまった。そういったところが言葉の端々に聞こえたんですね。

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    戦争に行く前と行ったあとで人間の在り方が変わり、そして人間の在り方が変わった戦後にも人生があるということは、この小説を書く上で非常に意識したところでした。亡くなっていった人にも、生きて帰ってきた人にも、必ずその人にとっての戦争というものがあった。教科書的な史実や数字的なものでははかれない、個人にとっての戦争というものが必ずあるはずだ。そこに肉薄していくことにこの小説の意義があると思ったんです。

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    戦争を扱う小説は怖いから苦手という人や、独ソ戦を知らない若者、戦争ものを読みたいと思っている女性の方、そういう人たちにも幅広く読んでもらいたかった。いつも戦争小説を買っている人たちだけが読む作品だと、なんか閉塞した感じになっちゃうと思ったんです。だから普通の戦争ものとはアプローチを変えて、キャラクターはちょっとやりすぎかなというほどポップで明るく、分かりやすくする。文章はすごく平易にする。この手法は当然賛否両論あるべきであって、でも多くの人に読まれるんだったらこっちを選ぶべきだと確信があった。

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    読んでよかったと言ってくれる人がいるというのがすごくうれしい。

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    タイムリーになりすぎたことは本当につらい。

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    侵攻が始まった瞬間からずっと悪夢を見続けているような気持ちです。いったいウクライナの市民や兵士、そしてロシアの兵士がどれだけ死んでいくんだろうということを考えてものすごく暗たんたる気持ちになりました。始まる前に終わらせないといけなかったのに戦争が始まってしまったというのは、人間が敗北したということなんです。それは今後も、どういう戦争でも変わらないと思います。

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    ウクライナで起こっていることとと重ね合わせて作品を読まれることはしょうがないと思いますが、今恐れているのは誤った読み取り方をされることです。この作品は防衛するために武器を取って勇ましく戦えと言っているようなものに読めなくもない。そうじゃないんだということは、読んでいただければ分かると思うんですけど、あまりにもタイムリーになりすぎたことが本当につらい。

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    突如として自分たちの町が廃虚になっていき、周りの人たちが死んでいくことになったウクライナの市民や兵士。そして直前までウクライナに行くことを知らず、突然の戦いで命を落としたロシア兵。国どうしの争いの背景で死んでいく人たちのことを考えたい。侵攻が終わったあとも、大切な人の帰りをずっと待ち望む人たちが出てくるはずで、そうした人たちの悲しみに思いをはせる1つのきっかけに自分の小説がなってくれたら、自分がやったことは無駄じゃなかったと思うことができます。

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    ほぼ完成している短編があって、それは2084年を舞台にしたSFアンソロジーとして出す予定です。その次もちょっと意外な作品になると思います。今回のような大作ばかりだと書いてる方も疲れてしまうし、読んでる方からそういうイメージができてしまうのはあまり幸運なことではないと思うんです。ただ今後も形やテーマを変えて戦争というものを継続して書いていくことになるとは思います。いろんな戦争に注目したけど、そこにはその戦争にしかなかった固有性と、今につながる普遍性というものを必ず見いだせる。そこを書いていくことが戦争を書く小説家としての自分の信念でもあると考えています。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    キエフ生まれのウクライナのユダヤ人が、ドイツを相手に戦うなかで、自分はロシア人だというアイデンティティーを持ち、ロシア人として「ドイツ人を殺せ」という文章を書く。

    そして状況が違えば、きっと、「ロシア人を殺せ」と書く。

    ボルシェヴィキにもなればメンシェヴィキにもなる。民主主義の味方にも敵にもなる。

    人間というのはそういうものだ。そう言われた気がした。

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