日隈一雄

ただ、当時首相補佐官だった細野豪志さんは割ときちんと答えようとしていた。問題は官です。
政治家は選挙もあり個人名で動くが、官僚は匿名。だから責任を取らない。
彼らに有利な情報しか出さず、常にメディアコントロールしようとする。
日本の民主主義は上っ面だけ。「主権在民」 ではなく 「主権在官」 なのです。

2 thoughts on “日隈一雄

  1. shinichi Post author

    日本は国民主権を標榜している民主主義国家のはずだが、実際は国民が主権者としていかに軽んじられているか、福島第一原発の過酷事故後、政府や東電の記者会見に100回以上にわたって通い続け、志半ばにして故人となった日隈一雄は日本の政治の現状を「主権在民」ではなく、「主権在官」であると喝破した。2月5日に東京新聞一面に登場した日隈は、そこで次のように述べたのである。

    政治家は選挙もあり個人名で動くが、官僚は匿名。だから責任を取らない。彼らに有利な情報しか出さず、常にメディアコントロールしようとする。日本の民主主義は上っ面だけ。「主権在民」ではなく「主権在官」なのです。

    日本の権力層の中心に「官僚」が居座っていることは日隈の指摘通りである。本来、主権者たる「国民」は選挙で一票を投じるぐらいしか主権を行使できる場面を持たない。地方自治では認められている首長の解任や議会の解散を求められるリコール権も国政レベルでは禁じられているという有り様なのである。野田佳彦なる総理大臣を解任したくとも、主権者は国会で内閣不信任案が提出されるのを指を加えて待っているしかないのが、日本の民主主義が到達した今の段階なのである。私は民主主義が最高の政治制度であると考えているが、日本の現状が最高の民主主義を実現しているとは思えないのである。普通選挙をもって日本という国家の民主化の終着点にしてはならないはずだ。この先の民主主義を私たちは構想していかなければならないし、その構想を実現していかなければならないはずだ。敗戦によってアメリカに押し付けられた民主主義をいかに自立させるかという課題である。

    日隈が俯瞰してみせてくれた「主権在官」を今度は虫の目で接近してみるならば、「主権在官」を支える癒着の構造、馴れ合いの習慣が見えてくるのではないか。「官」を中心に「政」「財」「学」「報」が一定の距離を保ちながらも、お互いの既得権益を維持するという癒着と馴れ合いのペンタゴン体制である。「財」とは経済界であり、「学」とは東京大学を頂点としたアカデミズムであり、「報」とは記者クラブを拠点とする新聞を中心としたマスメディアである。「官」は「政」「財」「学」「報」に便宜を図り、既得権益を保障することで「主権在官」を維持してきたのである。「主権在官」となったのは戦後になってからではない。天皇を国体としていた戦前においても、実体は「主権在官」であったのである。軍官僚が天皇大権に属するはずの統帥権を自家薬籠中のものとした結果、大日本帝国は敗戦に至ったのである。今も建前は別にして明治維新以来の「主権在官」が続いているのである。「官」は「政」「財」「学」「報」の協力のもと、アメリカが押し付けた民主主義を今度は自家薬籠中のものとしたということである。むろん、主権者たる国民を疎外してのことである。ペンタゴン体制の広報機関であるとともに国民をペンタゴン体制から疎外する中心的な役割を果たしてきたのが、マスメディアである。記者クラブに結集するマスメディアである。毎週金曜日に首相官邸前に集まる無名の民衆による大飯原発再稼動の抗議活動を新聞やテレビがそれほど熱心に扱ってこなかったのも、癒着の構造、馴れ合いの習慣と無縁なことではあるまい。しかし、インターネットという新大陸を母胎にしてペンタゴン体制とはかかわりの全くないソーシャル・メディアが次々に生まれるに及んで、マスメディアが本質的には「番犬ジャーナリズム」に過ぎないことが民衆の前に晒されはじめたのである。

    国会記者会館は首相官邸前の四階建てのビルである。その屋上は毎週金曜日の抗議活動を俯瞰で撮影するにはもってこいの場所である。そこで非営利のインターネット放送局「アワープラネットティービー」が金曜日の抗議活動を国会記者会館の屋上からライブで放送しようと考え、屋上の使用を願い出た。ところが、この建物を管理する「国会記者会」なる記者クラブは断った。国会記者会館が「国会記者会」を構成する新聞社やテレビ局、通信社などの153社が資金を出し合って建てた私物であれば、非営利のインターネット放送局であれ、使用を許可しないという判断があっても仕方あるまい。競合相手の邪魔をするのは商売の常道である。が、この国会記者会は国有地に建てられたビルであり、しかも所有者は衆議院なのである。「国会記者会」を構成する153社はびた一文払うことなく四階建てのビルを独占しているのである。衆議院の所有ということは、衆議院が国民議会であるという本質からすれば、実は国民の所有にほかなるまい。たとえ、国会記者会の加盟社が会費を払って管理、運営しているとはいえ、主権者たる国民の血税によって建てられた公共のビルである。一定の条件を満たすのであれば、「国会記者会」に属さないメディアであっても使用を許可するのは当然のことではないのだろうか。それを「国会記者会」は拒んだのである。警備に懸念があるとか、断るにあたって色々な理由を並べたてたようだが、「国会記者会」に加盟した「番犬ジャーナリズム」であることが国会記者会館を使うに当たっての「資格」だということなのだろうか。衆議院の便宜を受け、それを既得権益として享受している新聞やテレビは、その時点でジャーナリズムが本来身につけていなければならない批判精神(「自由な言論」と言い換えてもよい)を放棄してしまっているということである。言うまでもなく「国会記者会」にとって衆議院は取材対象に他ならないとすれば、衆議院から四階建てのビルを用意してもらっているということは、利益相反にあたるのではないか。「国会記者会」を構成する153社はジャーナリズムにとって生命線であるはずの中立性や取材対象からの独立性を放棄していると疑われても仕方あるまい。個人としてペンタゴン体制に取り込まれていないことを誇りにし、ジャーナリズムは「個」であると強弁したところで、自らの属する新聞なり、テレビなりが根っこの部分に番犬根性が染み付いている限り、個人の意志とはかかわりなく、己も所詮はペンタゴン体制を補完する「報道ムラ」のパーツであることに変わりないのである。そのことを一介の記者であれば恥じよ。

    7月20日付の東京新聞は「こちら特報部」で、「国会記者会館誰のため?」という記事を掲載し、この問題を取り上げている。全く取り上げない他の全国紙よりもマシであるが、原発を批判するようには歯切れが良くなかったのは当の東京新聞も国会記者会に加わっているためであろう。

    フリーランスの寺澤有のブログ「インシデンツ」(http://www.incidents.jp/news/index.php?option=com_content&view=article&id=473:2012-07-17-21-55-21&catid=1:2010-05-12-10-05-34)のによれば、 7月17日に「アワープラネットティービー」とその代表の白石草は、「(国と国会記者会は)7月29日午後6時から午後9時までの間、東京都千代田区永田町1-6-2所在の国会記者会館屋上を使用させなければならない」とする仮処分を東京地方裁判所に申し立てたそうだ。7月29日にはデモの後、国会議事堂をキャンドルで囲むという「国会包囲」が行われ、これを撮影するためだ。寺澤が7月10日、国会記者会の事務局長だという佐賀年之から国会記者会館の管理について、つぎのような説明を受けたそうだ。

    国会記者会が国会記者会館を使用できて、フリーランスやネットメディアが使用できないのは、国会と信頼関係があるか否か、それに基づく既得権があるか否かの問題。我々は明治以来、120年間、国会と信頼関係がある。既得権には、もちろん商売上のものも含まれる。
    国会との信頼関係とは国権の最高機関との癒着、馴れ合いにほかならず、そうした民主主義からすれば異常な関係がわが国では120年の長きにもわたって克服されることなく延々と続いているということである。「主権在官」を切り崩すのが容易でないのは、報道機関たるマスメディアが「主権在官」の側に身を置きつづけているからである。私たちは「主権在民」を真に実現するためのメディアとしてインターネットを鍛え上げてゆくしかあるまい。現段階では、マスメディアに比べれば小さな影響力しか駆使できなくとも、蟻の一穴として言い続けることで「主権在官」を支えるペンタゴン体制の広報機関をやがて震撼させることになるはずだ。

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