鄧小平

不管黑猫白猫,能捉到老鼠就是好猫
黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ

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  1. shinichi Post author

    黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ

    https://ja.wikipedia.org/wiki/黒い猫でも白い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ

    1958年から始まった大躍進運動と人民公社化運動によって中国経済は巨大な損失を蒙り、いわゆる3年間の困難期には大飢饉により1500万から5500万人に及ぶ死者が生じた。1961年初め、中国共産党第8期中央委員会第9次全体会議(八届九中全会)は「調整、鞏固、充実、提高」(調整し、強化し、充実させ、向上させる)の八字方針(中国語版)を掲げた。1962年初め、七千人大会が開かれ、当時の国家主席劉少奇は大飢饉の原因を「三分天災、七分人禍」と総括し、中国共産党中央主席の毛沢東は自己批判を行った。

    こういった背景のもとに、劉少奇、鄧子恢(中国語版)らは三自一包(中国語版)による国有資産への投資の縮小と自由市場の開放を提起し、鄧小平はそれに猫論を付け加えた。これらの理論が実際に意味したのは、経済の発展と生産力の解放のためにはどのような形式も許容され得るということであった。1962年7月2日(6月15日とも)、鄧小平は三自一包のうちの「包産到戸」について支持を表明し、その際に四川(安徽とも)のことわざとして「不管黄猫黒猫、捉到老鼠就是好猫」(黄色い猫でも黒い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ)という言葉を引用して初めて猫論について述べた。7月7日に発表した「どのように農業生産を回復するか」(中国語: 怎样恢复农业生产)という文章の中で、鄧小平は「包産到戸」の評価について次のように語っている。

    刘伯承同志经常讲一句四川话:‘黄猫、黑猫,只要能捉住老鼠就是好猫。’这是说的打仗。我们之所以能够打败蒋介石,就是不讲老规矩,不按老路子打,一切看情况,打赢算数。现在要恢复农业生产,也要看情况,就是在生产关系上不能完全采取一种固定不变的形式,看用哪种形式能够调动群众积极性就采用哪种形式。

    劉伯承同志がよく使う四川の言葉がある。「黄色い猫でも黒い猫でも鼠を捕るのが良い猫だ」というのだ。これは戦争についての話で、我々が蒋介石に勝つことができたのは、古いきまり、やり方に従わずその時の状況に応じて行動したからなのだ。いま、農業生産を回復するには、生産関係についてひとつの固定された不変の形式を採用するというようなことはできず、どのような形式が人々の積極性を高めることができるかについて見なければならない。

    その後、話が伝わっていく中で「黄猫」は「白猫」に変化していった。

    しかし当時にあってそれは、毛沢東が階級闘争を原則としていたことと矛盾を来していた。1962年8月から9月にかけての北戴河会議及び第8期中央委員会第10次全体会議では、会議の出席者は主に食糧生産の向上などの問題に重きを置いたが、毛沢東は階級闘争の情勢について集中的に述べ、階級闘争について「毎年語り、毎月語り、毎日語ろう」(中国語: 年年讲,月月讲,日日讲)と呼びかけた上に、鄧子恢らの「包産到戸」は資本主義をやろうとしていると批判を加えている。

    文化大革命の間に、猫論は鄧小平と結び付けられ、四人組はそれを鄧小平の「十大罪状」のひとつに数え上げた。四人組の一人である江青らによると、猫論が意味するのは「社会主義でも資本主義でも生産力を発展させられるのが良い主義だ」ということであり、すなわちそれは「唯生産力論」に他ならず、ブルジョワイデオロギーなのである。

    雑誌『紅旗(中国語版)』の1976年第4号に掲載された靳志柏の署名入りの記事「社会主義と資本主義の区別を抹殺するな:白猫黒猫論に反論する」には、「党内で依然として悔い改めないあの走資派の主張通りにすればどうなるか。資本主義の白猫黒猫が一斉に解き放たれて投機や自由経営をやり、しまいに社会主義集団経済は瓦解させられ、社会主義事業は中断し、プロレタリア独裁国家はブルジョワ独裁国家へと変貌するだろう」と書かれている。

    撥乱反正(中国語版)、改革開放の後、特に鄧小平による南巡講話の後に、猫論は広く知られるようになった。鄧小平理論が指導的な思想の地位を占めるにつれて、中国共産党の見解上、猫論は「思想を解き放ち、事実の中に真実を求める(中国語版)」「実践は真理を検証する唯一の基準(中国語版)」そして「三つの有利(中国語版)」などの理論を内包していると見なされるようになった。

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  2. shinichi Post author

    劉少奇

    https://ja.wikipedia.org/wiki/劉少奇

    失脚

    大躍進政策の失敗で影響力を喪失しつつあった毛沢東は、文化大革命を発動して権力の奪回を図った。劉少奇は鄧小平とともに「資本主義の道を歩む実権派」の中心とされ、毛によって打倒の標的とされた。1966年8月の第8期11中全会において、毛は「司令部を砲撃せよ」と題する、実権派の党幹部打倒を指示する論文を配布した。名指しこそされなかったが、参会者はこの「司令部」は劉少奇を示すものと察知した。同会議では党中央政治局および中央政治局常務委員会の改選が行われ、劉は政治局常務委員に残留したものの、副主席の任は解かれ、党内の序列も従来の第2位から第8位に下げられた。しかしこの段階では、劉はまだ自らが打倒される標的だと気づいていなかった。同年10月の中央工作会議で名指しの批判を受けると、これに対して劉は自己批判をおこなった。この自己批判書は事前に毛に提出され、毛は「よく書けている」と評価したものの、その評価を隠されたままリークされ、それがさらなる批判の材料にされた。また、会議ではこの自己批判は承認されなかった。1966年末には劉を名指しで批判する大字報が北京市内に貼られた。

    1967年に入ると党の内外から公然と劉を批判する文書が出回り始め、「実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者」として徹底的な非難にさらされる。劉も自らの置かれた立場に気づき、1月に毛沢東と会って「すべての国家と党の役職から辞任し、国の混乱を終わらせ、農業をして暮らしたい」という意向を伝えた。これに対して毛沢東は明確な返答を示さなかった。同じ月に、中南海の造反(文革)派が劉の自宅の執務室に乱入するようになる。劉は造反派に屈することはなく、論戦を吹っかけてきた彼らに対しその論理の矛盾をついて黙らせるなどしたが、造反派はその後執務室の電話線を切断した。これにより、劉は外部との連絡を絶たれてしまう。ある日、毛派に指示された紅衛兵が劉の自宅に乱入し、劉とその家族に暴行を加えたとき、劉は中華人民共和国憲法を手にして「私はこの憲法に書いてある国家主席だ。あなたたちは今、国を侮辱している」と叫んだが、リンチから逃れることはできなかった。

    1967年4月1日、中央文化革命小組の戚本禹が共産党の理論誌『紅旗』1966年第5期号に発表した評論「愛国主義か売国主義か? – 歴史映画『清宮秘史』を評す」が、『人民日報』に掲載された。この評論では劉を「中国のフルシチョフ」とそれとわかるかたちで非難、これをきっかけに劉に対する攻撃が激化し、大衆の前での批判大会に連れ出され、夫人とともに何度も執拗な吊し上げを受けた。同年7月18日には、中南海の自宅が造反派に襲撃される。表に連れ出された劉は、造反派の批判大会で2時間余りにわたって暴行を受け、批判を浴びた(この批判大会は戚本禹が主催したものであった)。7月18日の批判大会の後、夫人とは別の部屋に隔離され、事実上幽閉された状態になった。9月には夫人が逮捕され、子供も自宅から追い出されて、劉一人が自宅に取り残された。

    この頃、劉が国民党との闘争期に逮捕されながら法廷闘争で出獄したことや抗日戦争の時期に指揮した「偽装転向による党員の釈放」(六十一人叛徒集団事件)などがスパイ行為であるという罪状がでっち上げられた。これらに基づき、1968年10月に開催された第8期拡大12中全会において、劉を「党内に潜んでいた敵の回し者、裏切り者、労働貴族」として永久に中国共産党から除名し、党内外の一切の職務を解任する処分が決議され、劉は失脚した。

    最期

    自宅監禁状態であった劉は病の床に就くが、散髪、入浴ともに許されず、警備員からも執拗な暴行や暴言を受けた。劉の部屋には劉を非難するスローガンを記した紙が壁中に貼り付けられた。治療する医師からは、病状の回復のためにはがす提案もされたが受け入れられなかった。上記の党からの除名は劉の誕生日にラジオで放送され、劉はそれを聞くことを強要された。それ以降、劉は言葉を発しなくなった。過去の病歴のため劉はいくつかの薬を常用していたが、それも取り上げられた。多くの歯は抜け落ち、食事や服を着るのにも非常に長い時間がかかった。1968年夏に高熱を発した後はベッドに横たわる状態となったが、身のまわりの世話をする者はなく、衣服の取替えや排泄物の処理などもされない状態であった。

    1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。受け持った地元の医師が求めた高度な治療に対し、上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示した。限られた治療の中で病状は悪化し、11月12日に没した。享年70。白布で全身を包まれた遺体は、開封の火葬場にて「劇症伝染病患者」という扱いで、死の約2日後の深夜に火葬に付された。遺骨は火葬場の納骨堂に保管され、その保管証には死亡者氏名「劉衛黄」(この名前は劉少奇の幼名だったという)と記されていた。劉の死は当初は高級幹部以外の国民や国外にはほぼ秘匿され、外部からは生死不明の状態が続いた。その間、「生存説」が海外のメディアで報じられたこともあった。

    名誉回復

    毛沢東の死後、鄧小平が実権を掌握していた1980年2月、第11期5中全会において除名処分が取り消され、名誉回復を果たした。劉が1969年に開封で病死していた事実はこのとき初めて内外に広く知られることになった。四人組逮捕後になされた文革期の迫害者に対する名誉回復としては遅い部類に属する。かつてきわめて激しい断罪とともになされた党からの永久追放・除名処分の取り消しには時間を要したためである。

    同年5月に追悼大会が開催された。この席で鄧小平は追悼の辞を述べたが、その中には「劉少奇同志も活動において若干の欠点と誤りがあった」という一節が含まれ、その真意が議論を呼んだ。しかし、詳しい説明はなされなかった。この追悼大会後、遺言(1967年4月、夫人の王光美が批判大会に連行される前日に家族に伝えた)に従い、王光美らによって遺骨は中国海軍の艦艇から海に散骨された。

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  3. shinichi Post author

    鄧小平

    https://ja.wikipedia.org/wiki/鄧小平

    1904年8月22日、清の四川省広安県にて裕福な客家系地主の家庭に誕生する。ちなみに鄧小平は16歳で故郷を出た後、死ぬまで1度も帰郷する事は無かった。

    1920年10月にはフランスに留学し、第一次世界大戦後の労働力不足に応じた「勤工倹学」という形の苦学生であった。鄧が留学した時代のフランスは第一次世界大戦直後の不景気だったため、パリから遠く離れた市立中等校に入学して節約に励むが、生活費を稼ぐために半年で学校を辞め、工員・ボーイ・清掃夫など、職を転々と変えながらも堅実に貯金して、1922年10月に再び田舎町の市立中等学校に入学して3か月間学んだ後、パリ近郊のルノーの自動車工場で工員として勤務する。フランス留学中の1922年に中国少年共産党に入党し、機関誌の作成を担当した。「ガリ版博士」とあだ名される。1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となったため、フランス政府に危険分子と見なされる。これによってフランスでの居心地が悪くなった鄧はパリを発ち、1926年1月にフランスの警察が鄧小平のアパートを捜査に入った。

    1926年1月にはソビエト連邦のモスクワに渡り、東方勤労者共産大学・モスクワ中山大学で共産主義を学ぶ。モスクワ中山大学では当時同じ共青団に所属していた蔣介石の長男で後の中華民国総統である蔣経国と知り合って友人となった。

    1927年に帰国してゲリラ活動を開始した。紅七軍を政治委員として指揮するが、冒険的で無計画な李立三路線に振り回される。1931年8月に蜂起したものの根拠地を失った部隊と共に毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流し、瑞金県書記となる。しかし、コミンテルンの指令に忠実なソ連留学組が多数派を占める党指導部は、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平を失脚させる。

    1935年1月には周恩来の助力で中央秘書長に復帰し、長征に参加して八路軍一二九師政治委員となる。この後、華北方面での抗日ゲリラ戦を戦う。1946年6月以降に国民党と戦った国共内戦では、淮海戦役・揚子江渡河作戦で第2野戦軍政治委員などを務め、大きな戦果を収める。1949年10月の中華人民共和国の成立後も西南部の解放戦を指導し、解放地域の復興に努める。

    1952年8月、毛沢東によって政務院副総理に任命され、1953年9月に財政部長(大臣)を兼任する。1954年9月に政務院が国務院に改組されると、引き続き副総理を務める。1955年4月の第7期党中央委員会第5回全体会議(第7期5中全会)において中央政治局委員に選出された。さらに1956年9月の第8期1中全会で党中央政治局常務委員に選出されて党内序列第6位となり、中央書記処総書記として党の日常業務を統括することとなる。

    1957年6月に始まった反右派闘争では総書記としてその指揮を取る。約55万人が迫害を受け、毛沢東の死後にその99パーセント以上が冤罪であったと認められた事件であった。しかし鄧小平は毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降次第に彼との対立を深めていく。大躍進政策失敗の責任を取って毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の劉少奇と共に経済の立て直しに従事した。この時期には部分的に農家に自主的な生産を認めるなどの調整政策がとられ、一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。その結果1966年5月の文化大革命の勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。

    1968年10月に全役職を追われ、さらに翌年に江西省の南昌に追放された。「走資派のトップ」とされた劉少奇は文化大革命で死を遂げるが、鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されなかった。南昌ではトラクター工場や農場での労働に従事するが、与えられた住居には暖房設備も無く、強制労働は過酷なもので、鄧は何度か倒れたが砂糖水を飲んで凌ぐことしか許されなかった。

    1973年3月には周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活し、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。同年8月の第10回党大会で中央委員に返り咲き、12月には毛沢東の指示によって党中央委員会副主席、中央軍事委員会副主席、中国人民解放軍総参謀長となり、政治局を統括した。

    1974年4月、国際連合の資源総会に中国代表団の団長として出席して演説した。その際訪れたニューヨークの威容に驚嘆し、国家発展のためには製鉄業の拡充が急務と考え、新日本製鐵(新日鉄)などから技術導入を図る。1975年1月、国務院常務副総理(第一副首相)に昇格し、周恩来の病気が重くなると党と政府の日常業務を主宰するようになる。

    着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。前年から行われていた「教育革命キャンペーン」は、悔い改めない走資派(暗に鄧小平を示す)を狙ったものだと党機関紙や人民日報が伝えると、北京大学を始めとした各大学の壁新聞は鄧小平批判で溢れるようになった。さらに清明節の4月4日から5日未明にかけて、江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧(第一次天安門事件)するとデモは反革命動乱と認定され、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚し、全ての職務を剥奪された。しかし、党籍のみは留められ、広州軍区司令員の許世友に庇護される。同年9月に毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後の1977年7月に3度目の復活を果たす。

    ・・・

    1986年12月、反右派闘争などで冤罪となった人々の名誉回復に取り組む総書記の胡耀邦・国務院総理の趙紫陽(いずれも当時)らに対する談話で「自由化して党の指導が否定されたら建設などできない」「少なくともあと20年は反自由化をやらねばならない」と釘を刺した。1987年1月に政治体制改革をめぐって改革推進派の胡耀邦と対立し、胡を失脚させる。しかし、鄧は政治改革に全く反対だという訳では無かった。第一次国共内戦期から党に在籍し、「革命第一世代」と呼ばれた老幹部たちを、自身も含めて党中央顧問委員会へ移して政策決定の第一線から離すなどの措置をとった。ただし、鄧自身は党内序列1位には決してならなかったものの、党中央軍事委員会主席として軍部を掌握し、党中央委員を退いて表向きは一般党員となっても、2年後の1989年11月までこの地位を保持し続けた。1987年11月の第13期1中全会では「以後も重要な問題には鄧小平同志の指示を仰ぐ」との秘密決議がなされたとされる。

    1989年5月、中国を訪問したソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長と会談して関係正常化で一致し、中ソ対立を終結させた。しかし、生涯に3度の失脚(奇しくもうち2回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、民主化を推し進めたゴルバチョフと対照的に鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月には第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切った。この事件については初め趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対して、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲・李先念ら長老や李鵬国務院総理らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断したといわれる。イギリスの機密文書によると「200人の死が中国に20年の安定をもたらすだろう」と語ったと記録されている。

    鄧小平は武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定した。武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民(当時は上海市党委員会書記)を党総書記へ抜擢し、同年11月には党中央軍事委員会主席の職も江に譲った。第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持った。影響力を未だ維持していた鄧小平は、1992年の春節の頃の1月18日から2月21日にかけて、深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表した。経済発展の重要性を主張するのみならず、ペレストロイカによるソビエト連邦の解体などを例にとって「経済改革も和平演変をもたらす政治改革につながる」と主張する党内保守派に対して、これを厳しく批判した南巡講話は、天安門事件後に起きた党内の路線対立を収束し、改革開放路線を推進するのに決定的な役割を果たした。また、南巡講話では「中東には石油があるが、中国にはレアアースがある。中国はレアアースで優位性を発揮できるだろう」(中東有石油、中国有稀土、一定把我国稀土的優勢発揮出来)とも述べてハイテク産業や軍需産業に重要なレアアースの戦略的価値を重視し、当時世界の埋蔵量の8割も中国に存在していたとされるレアアースの大規模な生産を行って後に世界の9割も独占的に供給することになる路線を決定づけたとされる。以後、中国は急速な経済発展を進めることになった。

    鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中国の領海に撒かれた。

    中国中央電視台は鄧の死をトップに報道し、江沢民総書記は弔意を表し、天安門には半旗が掲げられた。死後翌日の2月20日、ニューヨークの国連本部でも追悼の意を表すために半旗が掲げられた。しかし、中国各地の市民の生活は平常通り営まれていた。これは毛沢東が死去した時に盛大に国葬が営まれたのと対照をなす。

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