井上靖

洪水のように、
大きく、烈しく、
生きなくてもいい。
清水のように、あの岩蔭の、
人目につかぬ滴りのように、
清らかに、ひそやかに、自ら耀いて、
生きて貰いたい。

さくらの花のように、
万朶を飾らなくてもいい。
梅のように、
あの白い五枚の花弁のように、
香ぐわしく、きびしく、
まなこ見張り、
寒夜、なおひらくがいい。

壮大な天の曲、神の声は、
よし聞けなくとも、
風の音に、
あの木々をゆるがせ、
野をわたり、
村を二つに割るものの音に、
耳を傾けよ。

愛する人よ、
夢みなくてもいい。
去年のように、
また来年そうであるように、
この新しき春の陽の中に、
醒めてあれ。
白き石のおもてのように醒めてあれ。

3 thoughts on “井上靖

  1. shinichi Post author

    詩集『北国』
    「あとがき」

    私はこんど改めてノートを読み返してみて、自分の作品が詩というより、詩を逃げないように閉じ込めてある小さい箱のような気がした。これらの文章を書かなかったら、とうにこれらの詩は、私の手許から飛び去って行方も知らなくなっていたに違いない。併し、こうしたものを書いておいたお蔭で、一篇ずつ読んで行くと、曾(かつ)て私を訪れた詩の一つ一つが――ふと私の心にひらめいた影のようなものや、私が自分で外界の事象の中に発見した小さな秘密の意味が、どこへも逃げ出さないで、言葉の漆喰塗りの箱の中の隅の方に、昔のままで閉じ込められてあるのを感じた。

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  2. shinichi Post author

    『井上靖全詩集』
    「北国」
    「人生」 
     井上靖

    M博士の「地球の生成」という書物の頁を開きながら、私は子供に解りよく説明してやる。
    ――物理学者は地熱から算定して地球の歴史は二千万年から四千万年の間だと断定した。しかるに後年、地質学者は海水の塩分から計算して八千七百万年、水成岩の生成の原理よりして三億三千万年の数字を出した。ところが更に最近の科学は放射能の学説から、地球上の最古の岩石の年齢を十四億年乃至十六億年であると発表している。原子力時代の今日、地球の年齢の秘密はさらに驚異的数字をもって暴露されるかもしれない。しかるに人間生活の歴史は僅か五千年、日本民族の歴史は三千年に足らず、人生は五十年という。父は生れて四十年、そしておまえは十三年にみたぬと。
    ――私は突如語るべき言葉を喪失して口を噤んだ。人生への愛情が曾てない純粋無比の清冽さで襲ってきたからだ。

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