石垣りん

私はこの夏上高地へ行った、

そびえたつ山々は大きく
私はちいさかった
一緒に行った友もちいさかった
問題にならないほど
人は皆ちいさかった。

人の通る道は
山をはう一筋の糸のごとく
糸よりもあるいは細く
なお消え消えにつづいていた、

その道を登った

One thought on “石垣りん

  1. shinichi Post author

    祖国

    by 石垣りん

    私はこの夏上高地へ行った、

    そびえたつ山々は大きく
    私はちいさかった
    一緒に行った友もちいさかった
    問題にならないほど
    人は皆ちいさかった。

    人の通る道は
    山をはう一筋の糸のごとく
    糸よりもあるいは細く
    なお消え消えにつづいていた、

    その道を登った

    てっぺんへ出ると
    私は素晴らしく大きくなった
    山のように大きくなった
    友の足もとにも
    大きな山々がつづいていた。

    村や町は遠く
    かすかにちいさかった、

    山へ登る道は狭いが
    人が通るには充分であれば
    今きた道に
    もし、ある権力が番人ひとり置いて
    「ここよりはいるべからず」と
    立て札一本立てたとしたら……

    あの熊笹の
    暗いふもとの道から
    一歩も人は登れなくなるだろう、
    人は 山の下のせまい場所で
    顔をつき合わせて
    こせこせと奪い合うだろう、
    人はそのために身も心も貧しく
    人は自分の可能を
    ひろい空と
    眺望のある生を忘れ
    卑屈に、不幸になるであろう。

    頂上の花畑は
    雲や霧がかかり 鳥もいて
    人が行かなければ
    行くものもないと思われる
    静かな美しいところであった。

    人が行かないで誰が行こう!
    ここに住む者が行かないで

    私はふり返った道に
    立札のなかったことを喜んだ
    立札などあるはずもない山の道である。

    あるはずもない
    その山のてっぺんで
    私はなぜともなく叫んでしまった、
    もし立札を立てる者があったら
    それは抜きとろう
    おそれずに
    必ず ぬきとろう、と。

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