フィリピンの人たちの変化(日下渉)

フィリピンが『頑張っても報われないので、日々を生き抜くために人々と支え合う社会』から、『頑張れば報われるかもしれないので、努力している自分の足をひっぱる余計な人間は切り捨ててもかまわない社会』に転換したことが背景にあるだろう。人との『つながり』がすべてだった社会から、自分の成功や生存のためには人との関係を『切断』してもかまわない社会への転換はかなり短期間に、劇的な速さで進んだように思う。とはいえ、自分の手で『余計な他者』をコミュニティーや家族から排除することはできないので、それを代行してくれる警察はありがたいということなのだろう。
成功を目指して頑張っているフィリピン人は、グローバルなサービス産業の構造のもとで自由や自律性を失い、強いストレスのもとにさらされている。たとえば、米国の顧客に対応するコールセンターでは、アメリカ時間に合わせた夜勤、分刻みの顧客対応、上司による徹底的な監視、非人間的で機械的な作業の繰り返しなどに耐え続ける必要がある。出稼ぎの船乗りや家政婦もそうだ。そうした人たちからすれば、働かず、他人の金に頼って自由気ままに暮らしている人々が憎くなるのは当然だろう。グローバルなサービス産業の底辺に組み込まれ、フィリピン社会が急速にストレス社会になったことの反映でもある、

2 thoughts on “フィリピンの人たちの変化(日下渉)

  1. shinichi Post author

    「フィリピン麻薬戦争」死者6000人超、なぜ支持やまない「俺たちのドゥテルテ」

    by 鈴木暁子

    https://globe.asahi.com/article/14550043

    今年はフィリピンに6年に一度やってくるお祭りの年だ。5月9日の大統領選投票日をひかえ、フィリピンの人たちはすでにそわそわしている。「『お客さん、誰に投票するの?』ってタクシー運転手に聞かれて。どの候補がいいかで言い争いになっちゃった」。マニラに住む知人がそう話すのを聞いて私は思った。「そうか、ドゥテルテが大統領ではなくなる日が来るんだ」と。「で、次は誰が」。フィリピンの人たちが大統領に期待するものとは何か。それは、いま世界の多くの人が求めるものと共通している。それはなぜかと問われると、頭が混乱してくる。(鈴木暁子)

    ■「俺たち」の大統領参上

    ベトナムのハノイ特派員としてフィリピンを担当した2016年の秋から、私は就任直後のロドリゴ・ロア・ドゥテルテ氏(76)を追いかけた。いや振り回されたといった方がいい。一番の友好国である米国のバラク・オバマ大統領(当時)をののしって首脳会談をおじゃんにし、自らをヒトラーになぞらえ「麻薬中毒者を喜んで殺したい」と話す。そのたびに出稿に追われた。

    そんなドゥテルテ氏に魅了される自分がいた。17年4月、マニラであった東南アジア諸国連合(ASEAN)首脳会議の記者会見でのこと。彼は女性の記者とだけ写真を撮ると言いだし、「女性たち!」と呼びかけた。「まったく。女好きでしようがないな」と思いつつ、キャーッと壇上に押し寄せる人を押しのけて近づいた。「もてるんですね」と声をかけると、「そうかなあ」と肩をすくめてはにかむ姿がかわいらしかった。

    フィリピンで現地生産する日本車のPRイベントの取材に行った際は、去り際に「あなたも買いますか」と聞くと、わざわざ記者たちの元に戻ってきた。「孫に買おうかなあ。実はこのあいだ中古車を買ってやったら下の子が焼きもちをやいちゃって」と身内の話をはじめた。気さくで話のうまいおじさん。何ともいえぬ魅力に引き込まれそうになった。

    教皇や国連事務総長らへの暴言も多々あったが、実際会うと気取らず、聴衆を笑わせる姿はほのぼのとしてみえた。「ああいう感じは彼の出身地の特徴なの?」。演説中にジョークに笑っていた友人の記者に聞くと、こう返ってきた。「違うよ、彼は『フィリピノ』なのさ」。彼の言葉が当時の人々の気持ちを代弁していたと思う。ドゥテルテ氏はこれまで政治を牛耳ってきたエリートじゃない。「平凡な俺たちフィリピン人」の象徴たる指導者を国民は待っていたのだと。

    私にとってフィリピンは大学時代に1年間留学した、とっておきの大好きな国だ。取材でほぼ20年ぶりに訪ね、「発展したなあ」と驚くつもりでいた。でも、ニノイ・アキノ国際空港に降りたってすぐ、変わらぬ「しょぼさ」に驚いた。土産物店の棚には20年前と同じで男性が飛び出てくる木彫りのおもちゃが並び、売り子があまりおいしくなさそうなソーセージを売っていた。中心部へ向かう道路は相変わらず大渋滞で、いつ到着するか予想もつかなかった。

    変わったことといえば、町にきれいなカフェやモールが増え、おしゃれな服装の人を見かけるようになったことか。世帯で5万~30万円ほどの月収がある「中間層」の人たちが育ったからだ。

    それでもやはり理解できなかったのは、優しくて信心深いあのフィリピン人の多くが、「麻薬犯罪者は殺す」と豪語するドゥテルテ氏の麻薬戦争を支持していることだった。

    ドゥテルテ氏の就任後、フィリピンの現地紙には毎日のように、路上に転がる遺体の写真が載った。国家警察が始めた「トクハン」という麻薬犯罪の捜査は、容疑者の家を訪ねて質問し、抵抗すれば射殺もありうるというふれこみだった。就任から半年の16年12月に警察は、本当に麻薬がらみかどうかわからない人も含め計6182人が殺害されたと発表した。

    何者かに殺された人もたくさんいた。遺体は顔をテープでぐるぐる巻きにされ、「私は麻薬密売人。まねするな」と書いたボール紙が見せしめのように転がっていた。私が訪ねた遺族は豊かとはいえない家庭ばかりだった。マニラで30代の息子とその妻を殺された女性を訪ねたとき、残された男児がぽつんと下を向いて、ベッドに腰掛けていた。その姉は親を失ったショックで話すことができなくなったと聞いた。思い出すといまも胸が痛い。

    でもある日、思いがけない場面に遭遇し耳を疑った。マニラで麻薬密売人が警察に射殺されたと聞いて、私は現場に駆けつけた。庶民的な住宅地の細い路地を進むと、遺体はすでに移され、地面に大きな血だまりが残っていた。近所の女性に話を聞くと、殺された男性の親類だという。警察を批判するだろうと思いきや、彼女は言った。「殺されてよかった。政府の政策はありがたいです」

    ■中間層支持に潜む危うさ

    この政策は支持できない。フィリピンの人たちは変わってしまったのか。もやもやする私が名古屋大大学院准教授(政治学・フィリピン地域研究)の日下渉さんに問うと、こう説明してくれた。
     
    フィリピンが『頑張っても報われないので、日々を生き抜くために人々と支え合う社会』から、『頑張れば報われるかもしれないので、努力している自分の足をひっぱる余計な人間は切り捨ててもかまわない社会』に転換したことが背景にあるだろう。人との『つながり』がすべてだった社会から、自分の成功や生存のためには人との関係を『切断』してもかまわない社会への転換はかなり短期間に、劇的な速さで進んだように思う。とはいえ、自分の手で『余計な他者』をコミュニティーや家族から排除することはできないので、それを代行してくれる警察はありがたいということなのだろう
     
    さらに日下さんはこう話した。
     
    成功を目指して頑張っているフィリピン人は、グローバルなサービス産業の構造のもとで自由や自律性を失い、強いストレスのもとにさらされている。たとえば、米国の顧客に対応するコールセンターでは、アメリカ時間に合わせた夜勤、分刻みの顧客対応、上司による徹底的な監視、非人間的で機械的な作業の繰り返しなどに耐え続ける必要がある。出稼ぎの船乗りや家政婦もそうだ。そうした人たちからすれば、働かず、他人の金に頼って自由気ままに暮らしている人々が憎くなるのは当然だろう。グローバルなサービス産業の底辺に組み込まれ、フィリピン社会が急速にストレス社会になったことの反映でもある

    ドゥテルテ氏を中間層が求めたことは数字にも表れている。民間調査機関ソーシャル・ウェザー・ステーションズなどによると、16年の大統領選でドゥテルテ氏を支持した人は、コールセンターなどで働く中間層以上の45.9%、大卒の49.2%、そして中間層にあたる「在外投票者」の72%を占めた。ドゥテルテ氏に投票したシステムエンジニアの男性(48)は当時を振り返る。「なぜフィリピンはいつまでも貧しいのか。マニラではそこら中に麻薬中毒者やスリがいる。犯罪者が足を引っ張るせいだと思った。ドゥテルテなら変えられると期待したのです」

    私が見た気さくな姿とは別の面も含めて、フィリピンの人たちはドゥテルテ氏を支持したのだ。その支持は今なお続く。新型コロナの流行で社会は混乱したが、昨年9月の民間調査では、ドゥテルテ政権に「満足」という回答は67%を維持した。過去の政権と比べても高い数字だ。

    20年以上日本で暮らすマリ・カーさん(50)は「電力や水、通信などの基本的なインフラが満たされることが私たちの願い。ドゥテルテは公共投資に力を入れて平均以上の成果を上げたと思う」と話す。政権の旗印になったインフラ整備計画「ビルド・ビルド・ビルド」で、日本も関わる首都圏の地下鉄整備などが動き出し、長年の問題だった交通渋滞の改善が期待されている。また、たびたびの更新手続きが煩わしかった運転免許証やパスポートの有効期間が長くなるなど、ささやかでも、日常が便利に変わる手ごたえを人々は実感したのだ。世界銀行の統計によるとフィリピンの貧困率はコロナ前の19年に20.8%と、15年の26%から改善。借金は膨らんでいるが、経済成長率は6%台前後と安定して伸びていた。

    一方で、ウェブメディア「ラップラー」でドゥテルテ政権の麻薬戦争などの検証と批判を続け、昨年ノーベル平和賞を受賞したマリア・レッサ氏(58)は、ドゥテルテ政権が発表する麻薬戦争による死者数がころころ変わったり、ドゥテルテが自身に都合の悪い報道を「フェイクニュースだ」と断じたり、事実と違う発言がソーシャルメディアで拡散したりすることの危険性を訴えてきた。

    雑誌のインタビューでレッサは、「情報操作の意図は一つのことを信じさせようとすることではなく、人々をまひさせること。信頼を壊して何もさせないようにすることだ」と指摘した。

    こうなると、私たちが見ているものは何が本当なのかと思えてくる。例えばラップラーは、ドゥテルテの遺産というイメージのある「ビルド・ビルド・ビルド」のうち、少なくとも10のプロジェクトは前の政権から始まっており、ドゥテルテの手柄とは言い切れないことを報じた。

    思えば麻薬戦争で殺されるのは貧しい人ばかりで、麻薬王と呼ばれる元締の検挙はごくわずかだ。ドゥテルテ氏自身はどうだろう。巧みな話術で笑わせ、自宅では「蚊帳」で寝る庶民派として市民に近づいたけれど、彼の父も政治家であり、自身の3人の子は市長、副市長、下院議員という立派な政治家一族だ。レッサら反対意見を述べる記者は攻撃され、フィリピン最大の放送局は閉鎖された。20年7月には、政権批判者をテロリストと見なして逮捕もしうる「反テロ法」までできた。

    「人権を踏みにじる者は、人なつこい姿で現れる。それを許してはいけない」。私にこの言葉を教えてくれたのは、歴代大統領らの風刺漫画を30年にわたりフィリピンの日刊紙に掲載してきた漫画家のジェス・アブレラさんだ。歴代の誰もが容認してきたこの漫画はドゥテルテ政権下の19年、理由も説明されぬまま突然終了した。
    私は思った。「ドゥテルテ、ちっさ」

    ■「強い」指導者への郷愁

    「BBM!BBM!ボンボン・マルコスは国民の希望だ」

    一日中頭の中でリピートされそうな軽快な曲と歌詞が響く。昨年11月に南部タグム市であった集会で、押し寄せた支援者に両手をあげてこたえる男性候補者がいた。1965年に大統領に就き、戒厳令を敷いて独裁体制をとったフェルディナンド・マルコス(1917~89)の長男ボンボン氏(64)だ。

    世論調査機関パルス・アジアが今年1月に実施した世論調査によると、ボンボン氏の支持率は60%と、主要な5人の候補者の中でダントツの人気を誇る。2位で、ベニグノ・アキノ3世前大統領に近いリベラル派の現副大統領レニ・ロブレド氏(16%)らを大差で引き離している。

    ドゥテルテ氏とマルコスは関係が深い。ドゥテルテ氏の父はマルコス政権下で閣僚だった。「独裁者にならなければ、マルコスは最良の大統領だった」。ドゥテルテ氏は16年の自身の大統領選の演説でこんなふうにマルコスをもちあげた。大統領になると、博物館に保存展示されていたマルコスの遺体を国立英雄墓地に埋葬し、マルコス家の悲願を実現させた。今年の副大統領選の候補としてボンボン氏と共闘するのは、ドゥテルテ氏の長女でダバオ市長のサラ氏(43)だ。

    フィリピンの政治評論家リチャード・ヘイダリアンさんは「マルコス家にとってドゥテルテはいろいろな意味で都合がよかった。ドゥテルテを支持した人たちはいま、ストロングマン(強権的な指導者)の源流にいる『マルコス』を支持している。10年後、ドゥテルテは歴史的にマルコスの『前座』だったと位置付けられるのかもしれない」と話す。

    彼は前座だったのか……。それほどの威力をマルコス家は持っているということか。ヘイダリアンさんはドゥテルテ後に起きることを警戒する。「ボンボンは、もちろん父マルコスでもドゥテルテでもない。いい人柄だとちまたで言われているくらいだ。でも、彼が体現するのは『マルコス家が権力の座に戻る』ということ。歴史を書き換え、父マルコスの後につくられたリベラルな基盤をなかったことにしようとするかもしれない」

    それにしても、なぜフィリピンの人はこれほどまでにボンボン氏を待望するのだろうか。

    「父マルコスの時代、フィリピンはとても豊かな国だった」。ボンボン氏の支持者で、中部バギオで不動産業を営むジェフリー・ガルシアさん(39)はこう話す。彼が送ってくれた80万人が登録するユーチューブのリンクを見てみると、高速道路や病院、稼働直前だった原子力発電所などの公共事業を推し進めたマルコス元大統領を礼賛していた。国づくりの青写真が引き継がれなかったためにフィリピンは貧しい国になったと説明していた。

    マルコスはインドネシアのスハルトとともに、人権よりも経済発展を優先する「開発独裁」の筆頭にあげられる。まるでその復活を目指す宣伝動画みたいだ。でも「しょぼいまま」の国に不満を持つ人の目には夢のように見える。「あの原発があれば今ごろ停電もなく過ごせたはずだった」「シンガポールや日本のような国になっていたはずだった」。ボンボン氏の支持者が口にするのは、美化されたマルコス時代へのノスタルジーだ。

    ソーシャルメディアで広がる情報からは、マルコス時代の暗い過去はばっさり抜け落ちている。60年代のフィリピンは豊かだったが、アテネオ・デ・マニラ大学がウェブ上に開く「マーシャル・ロー・ミュージアム(戒厳令博物館)」によると、戒厳令をへて状況は様変わりした。マルコスの地盤の北部以外では貧困家庭が増え、政権内の汚職などで経済は悪化。61年に3.6億ドルだった国の債務は86年に282.6億ドルにまで膨らんだ。世界銀行によると73年に8.78%だったGDP成長率は、マルコス退陣直前の85年にはマイナス6.85%に落ち込んだ。

    公共事業も汚職の手段になった。86年の朝日新聞を見ると、漁港開発などの円借款に携わる日本企業から数百億円ともいわれるキックバックがマルコス家にわたった「マルコス疑惑」が連日報じられている。不正蓄財への日本の加担は国会で議論され、日本の政府援助の適正なありかたを見直すきっかけになった。90年にはスイスの最高裁が、マルコス家の隠し財産3億5600万ドルがスイスの銀行にあると明らかにし、フィリピン最高裁は03年、国の財産の私物化と見て政府に没収を認める判決を出した。

    こうしたことへの不満から、フィリピンの人たちは86年、「ピープルパワー革命」を起こしてマルコスを国外に追放したのだと、私は理解していた。でも、フィリピンのすべての人が賛同し、納得していたわけではなかったようだ。

    「マルコスが国を去った時は、ラジオを聞いて涙が出た。彼こそ最高の大統領だった」。私の友人のおばで、ルソン島北部カガヤンに住むロザリンダ・ケルビン・パスクアさん(74)はそう話した。彼女は「マルコス・ロイヤリスト」と呼ばれる筋金入りのマルコス家の支持者で、恩恵を受けたマルコス家から再び大統領が出れば「悲願がかなう」と言う。

    「ピープルパワーでフィリピンの人たちは民主主義を取り戻したのではなかったんですか?」と聞いてみた。パスクアさんは「革命に集まった人たちは対抗勢力が学生を集めて反マルコスに仕立て上げたフェイク(偽物)です。私のように地方に住む人たちはあそこにいなかった」。さらにこう続けた。「メディアはすぐ『民主主義』っていうけれど、自由にも規律が必要。道にごみをぽいっと捨てない日本人にはわからないかもしれないけど、フィリピン人には規律を教える厳格なリーダーが必要。マルコスは独裁者でなくしつけが厳しい人だったのです」

    ■民主主義「最先端」のいらだち

    ボンボン氏を支持する人たちの話から垣間見えるのは、ドゥテルテ氏と近いマルコス家のボンボン氏に政権が引き継がれることで、公共投資や麻薬犯罪の撲滅など、彼らが評価するドゥテルテ政権の政策の「継続」を求める気持ちがあることだ。

    ボンボン支持者でもあるマリ・カーさんは、「フィリピンではこれまで、政権がかわるたびに政策がぶつっと途切れてきた。ドゥテルテと同じビジョンをもったネイションビルダー(国を造るリーダー)のボンボンが引き継ぐことができれば、国はさらに発展する。今回の選挙はこれからの国の運命を左右する分かれ道になる」と話した。

    もう一つ、政治評論家ヘイダリアンさんの話を聞いてなるほどと思ったのは、現状を冷ややかに見るようなフィリピンの人々の視点だ。「いまあるこの社会が民主的な社会だというなら、どうぞマルコスにやらせて、直させればいいじゃないかと。多くのフィリピン人はシニカル(皮肉的)な思いを持っているように見える」とヘイダリアンさんは言う。

    これまで政治を担ってきたエリート層の偽善を敏感に感じ取り、反発、さらには憎しみさえ持ったフィリピンの人たちの気持ちはわかる気がする。この20年、フィリピンでは機会は限られた人にしか与えられず、私腹を肥やすかスピード感に欠けてみえるリーダーしかいなかった。たまりにたまった不満がドゥテルテ大統領を生み、さらにマルコスの復活まで求めているのかもしれない。

    ドゥテルテ氏が大統領に選ばれる前から、フィリピンでは裕福な名家がビジネスを牛耳っていると言われた。今も国会議員の8割が世襲とされる。象徴的なのはドゥテルテ氏の前の大統領のベニグノ・アキノ3世。民主化のシンボル、コラソン・アキノ元大統領の長男だ。6%台の経済成長を果たし、腐敗をなくそうと公共事業の見直しに時間をかける「グッドガバナンス(良い統治)」を進めた。だが市民が期待した貧困や渋滞の問題に迅速に対応できず、アキノ氏の愛称をもじった「ノイノイする」は何もしないという意味の俗語になってしまった。

    その前任のグロリア・アロヨ氏も父は元大統領で、米ジョージタウン大ではあのビル・クリントン氏と同期。だが退任後、上院選での与党議員の得票数の改ざんや5億円以上にのぼる公金の不正流用容疑で逮捕された。さらに前任のジョセフ・エストラダ氏は「貧者のためのエラップ」の愛称で当選したが、汚職疑惑で任期途中で引きずり下ろされた。

    アジア経済研究所上席主任調査研究員の川中豪さんは86年のフィリピンの民主化に感動し、フィリピンの政治から民主主義のゆくえを注視してきた。だが昨年1月、テレビを見て仰天した。米国でトランプ氏が負けた大統領選の結果を「不正だ」と考えた市民が議会に押し寄せていたからだ。「フィリピンの地方選挙でよくみる動きが、民主主義のモデルと言われた米国で起きた。いよいよだなと感じた。民主主義という制度の中で紛争を解決することに、もはやみんなが合意していない」

    「モデル」となる民主国家がなくなり、世界中の人が今のままでいいのかと思い始めている。だが、クーデターで突然軍に政権を掌握されたミャンマーのような事例はそう多くはない。「民主国家だけど運営の仕方が権威主義的という国が増えている。その最先端を行くのがフィリピンだ」と川中さんは言う。

    「民主主義は一つのやり方にすぎず、権威主義よりもよい結果が出る保証はない。でも、そのやり方にこそ価値がある」と川中さんが話すのを聞いてはっとした。「民主化すれば目的を果たした」と思っていなかったか。民主国家ならば、何もしなくても安心して暮らしていられると。とんだ勘違いだ。

    フィリピンにも日本にも、世界中の国にもそれぞれの課題がある。その「穴」を埋めるように、立場や意見の違う人が話し合い、合意点をさぐりながら生きていく。それが民主的であるということなのだろう。こうした手間をかけるのはかなり面倒くさい。でも、それを省いた先に行き着くのはどんな社会だろう。
    話し合いに参加している実感がないフィリピンの人たちは、大統領選に投票することで「変われ」という声を社会にぶつけているように見える。その背中から、私たちは何をくみ取ることができるだろう。

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    上の文章(日下渉さんが言ったこと)の「フィリピン」を「日本」に置き換えて、

    日本が『頑張っても報われないので、日々を生き抜くために人々と支え合う社会』から、『頑張れば報われるかもしれないので、努力している自分の足をひっぱる余計な人間は切り捨ててもかまわない社会』に転換したことが背景にあるだろう。人との『つながり』がすべてだった社会から、自分の成功や生存のためには人との関係を『切断』してもかまわない社会への転換はかなり短期間に、劇的な速さで進んだように思う。とはいえ、自分の手で『余計な他者』をコミュニティーや家族から排除することはできないので、それを代行してくれる警察はありがたいということなのだろう。
    成功を目指して頑張っている日本人は、グローバルなサービス産業の構造のもとで自由や自律性を失い、強いストレスのもとにさらされている。たとえば、顧客に対応するコールセンターでは、夜勤、分刻みの顧客対応、上司による徹底的な監視、非人間的で機械的な作業の繰り返しなどに耐え続ける必要がある。出稼ぎの船乗りや家政婦もそうだ。そうした人たちからすれば、働かず、他人の金に頼って自由気ままに暮らしている人々が憎くなるのは当然だろう。グローバルなサービス産業の底辺に組み込まれ、日本社会が急速にストレス社会になったことの反映でもある、

    と書いてみたら、日本の病巣が浮かび上がってくる、フィリピンで起きていることは、日本人にとって、決して他人事ではない。

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