永野一男、山際徹也

  
母親が新興宗教に入れあげ、豊田商事事件の永野一男は極貧の少年期を送った。
母親が新興宗教に入れあげた安倍総理銃撃事件の山上徹也と同じく『宗教2世』だったのだ。
統一教会だけが悪いわけではない。
  

4 thoughts on “永野一男、山際徹也

  1. shinichi Post author

    豊田商事 永野一男の生い立ち
    母親が新興宗教に多額献金で借金生活

    カメラの前でまさかの殺害!被害総額約2000億円の巨大詐欺事件…巧妙な手口に立ち向かい、約122億円を取り戻した真相とは!

    日テレ「仰天ニュース」

    https://www.ntv.co.jp/gyoten/articles/324b5a5qi32aq1xuku7.html

    1985年6月。

    男性が多くの報道陣の目の前で襲われ、殺害された。殺害されたのは豊田商事という会社の会長、永野一男。この日、永野が逮捕される可能性があると報道陣が自宅前に集まっていた。

    豊田商事事件と言われる、悪徳商法で主に高齢者を騙した巨額詐欺事件。豊田商事はどんな悪事を働いたのか?なぜ、人々は騙されたのか?そして、永野はなぜ殺されたのか?

    永野が殺害される4年前の1981年・大阪。

    弁護士・三木俊博に東京の知り合いから連絡が入った。「豊田商事という金を売る会社が訪問販売で高齢者に強引に販売しているらしいので、話を聞いてほしい」という内容だった。

    後日、相談者から話を聞いてみると、相談者の母親がやってきたセールスマンに長時間に渡り金塊を持つことの利点を説明され、すっかり信用して金を買ってしまったのだという。

    しかし、その金塊は手元にはなく会社が預かっており、賃借料として1年で10%を払うと説明され「純金ファミリー契約証券」という証券を渡されていた。相談者の母親はその後、さらに金塊を買い足し、総額は1000万円にものぼったという。

    息子はすぐに解約を申し入れたが、満期になっていないため契約料の30%を違約金として支払う必要があると告げられた。1000万円の契約であれば、ただただ300万円を失うとことになるのだ。

    その後も三木弁護士に、同様の相談が立て続けに来た。

    相談者は高齢者ばかりで、満期になっても金もお金も返してくれないというもの。

    それにしてもなぜ、高齢者ばかりが被害にあうのか?そこには豊田商事の徹底された営業方法があった。

    その手口はまず、テレホンレディと言われる女性たちが老人クラブや高額所得者名簿などを見ながら電話でセールスを行う。

    興味を持った人の自宅へセールスマンが訪れる。セールスマンたちは豊田商事独自のセールスマニュアルビデオで徹底的に勉強しており、手土産を持参し、世間話をしながら警戒心をとく。仏壇があったら必ず手を合わせ、優しい人間であることをアピール。

    そして時が来たら「おばあちゃん、純金ってわかる?」 とセールスを持ちかけるのだ。そして、金を買うことは貯蓄を移し替えることだと説得するのだという。

    セールスマンたちは家に入ったら5時間は出てくるなと教えられ、それでも契約が取れない場合は土下座をしろと教えられた。

    営業成績優秀者には桁外れの報酬が払われ、月収1000万円、年収で1億円を超えるセールスマンもいた。

    弁護士の三木たちはまず当時社長だった永野と直接交渉をしたが、永野は一貫して違法性を否定。三木らは豊田商事に対し個別に損害賠償請求を行い、いくつか返金されたケースもあったが、一方で被害は増加していた。ときには、寝たきりの老人を無理やり連れだし金を引き出させるなど、手口も荒々しくなっていった。

    やがて三木たちには実際に豊田商事は金塊を取引しているのかという疑問が。三木は金の流通を調査している日本金地金流通協会で調べると豊田商事は国内の業者から金を買っていないことが判明した。

    豊田商事は顧客が購入した金塊を、会社で預かりそれを運用して資産を増やし、満期になったら返金すると説明していたが、その金塊を購入していなければ運用なんて不可能。つまり詐欺にあたるのだ。とはいえ詐欺として告発するには、時間がかかる。そこで三木たちはマスコミに取り上げてもらうことを目的に、1983年10月6日に全国218人の弁護士連名で、豊田商事が「本当に金塊を持っているのか」という公開質問状を手渡した。

    豊田商事からは「企業秘密」だと明確な回答が得られなかったがマスコミ各社は大々的に報道し、会長、永野は一斉に注目を浴びた。

    1952年。永野は岐阜県・恵那で生まれた。

    永野が中学に上がった頃、両親は離婚し、母親は永野を連れ、島根県の実家へ。その後、永野は定時制の高校に通いながら愛知県内の大手自動車メーカーの下請け企業に就職するが、2年で工場も高校も辞め、21歳の時、証券会社で働き始める。

    永野の営業成績は良く、莫大な金を動かす相場の世界に浸かっていった。ところがある時、永野は顧客の金を勝手に相場につぎ込み3000万円もの損害を出し解雇された。

    その後、永野は個人で金の商品取引業を行う豊田商事を始めた。客が大手企業と勘違いして信用するよう、この名を付けたという。永野は最初から詐欺まがいの方法で儲けようと考えていたのだ。

    その詐欺の手口はまず、顧客に金に投資するようセールスし、顧客から投資金を受け取るが実際に投資は行わない。金の市場価格が上がり顧客に儲けが出た場合は「もっと上がる」と追加で払わせ、一方、金の市場価格が下がり顧客に損が出た時には保証金が足りないという理由でさらに保証金を徴収したという。

    当時は金への投資が一般に浸透し始めたころで法律の整備もできておらず、詐欺まがいの方法で永野は荒稼ぎしたのだ。

    そして、1年後には大阪、福岡、岐阜、三重に支店や営業所を持つほどになった。

    しかし、この頃純金の価値が1年間で4倍まで跳ね上がる異常事態に。多くの顧客は売りに出たが豊田商事にはそれを清算する金がなかった。また、その頃同じような手口で詐欺まがいの行為をしていた悪徳業者が摘発されたこともあり、豊田商事にも一斉に解約を求め客が殺到。

    豊田商事はほぼ倒産状態に陥ったが、そこで考えられたのが、高齢者をターゲットにしたファミリー証券だった。そして営業マンの強引なセールスもあり、初年度に集めた金は、約92億円、2年目には約304億円、3年目には540億円と売り上げは倍増していった。

    そして、豊田商事がファミリー証券を売りだしてから3年目。弁護士たちがマスコミを集め豊田商事に対し質問状を手渡し、マスコミが一斉に豊田商事の強引な商法を報じ始める。1984年、弁護団はようやく大阪地検に刑事告訴したが、豊田商事へ容疑を固めるには入念な準備が必要なため、警察もすぐには動けなかった。 その間にも被害者は増えていき、1985年には被害総額約2000億円、被害者数は約3万人に。

    その頃、豊田商事は莫大な社員への報酬や土地やゴルフ場、レジャー施設への投資などで多額の赤字を出していた。赤字を隠すため粉飾決算をしていた財務部長が、「本当は400億も赤字だって僕が公表したら、どうなりますかね?」と脅し、1億円を要求。

    永野はその後、恐喝されたと警察に相談し、財務部長は逮捕された。しかしその裁判の証拠品として本当の確定申告書が提出され、豊田商事が400億円の赤字であることが大々的に報じられたのだった。これにより、豊田商事には返金を求める人が殺到。警察もようやく動きだした。永野逮捕は時間の問題だと思われていた1985年6月。

    多くのマスコミが永野の自宅マンションに押し寄せた。そして、そこに2人の男が現れ永野を刺殺。犯人の2人は逮捕されのちに主犯格の男には懲役10年、もう一人には懲役8年の刑が確定した。

    弁護士たちは、すぐに破産申し立てを行い全国の営業所の資産を差し押さえたが、現金は1000万円程度、金塊はなんと200gしかなかったという。

    一体、金をどこから徴収し、被害者に返済すればいいのか?まず、会社の持ち物であった机や椅子などの備品、社用の高級車、当時最新の小型飛行機などを、合計約7億円で売却。さらに、全国67か所の営業所の賃貸契約する際の保証金に目を付け、約12億円の返還を達成。

    また、豊田商事グループが投資していた土地、ゴルフ場、マリーナ、ホテルなどを売り払い、約68億円を回収。極め付きは国税局へ出向き、従業員が得ていたのは本来受け取る権利のない金であり税の対象にはならないとして裁判を起こし、その結果、427人分の所得税、約12億円が返金された。 そして最終的な返金額は約122億円に。豊田商事の元役員5人は詐欺罪で逮捕され、1989年、それぞれ10年から13年の懲役刑が言い渡され、その後確定。

    この豊田商事事件以降、商品を預かって運用するなどと言って実際には行わない預託商法に対応する「預託法」という法律が作られた。

    しかし、金など一部の商品に限った法律だったのでそれ以外の詐欺事件が相次いだ。

    そのため、今年6月から「預託商法を原則禁止」という法律が施行されている。つまり、正式な許可が下りていない預託商法は行った時点で違法にあたるというもの。

    都合のいい儲け話は、鵜呑みにしないことが大切だ。

    (40年前の2000億円詐欺の豊田商事。刺殺された詐欺犯豊田商事会長永野一男(当時32歳)の母親が新興宗教に入れあげ、彼は極貧の少年期をおくった。つまり安倍元総理銃撃殺人の山際徹也容疑者と同様の過去があったのだ。)

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  2. shinichi Post author

    「豊田商事事件〜時代が生んだ悲劇〜」

    アナザーストーリーズ 運命の分岐点
    NHK
    2020年6月23日
    https://www.nhk.jp/p/anotherstories/ts/VWRZ1WWNYP/episode/te/5ZK67PWGRY/

    白昼、報道陣の前で起きた衝撃の事件!1985年6月18日、金の現物まがい商法で2000億円をだまし取った豊田商事会長・永野一男が突如侵入した暴漢に殺された。犯人が窓ガラスを割って部屋に入る様子や、血まみれの永野会長の姿は全国に放送された。事件を防ぐことはできなかったのか?現場に居合わせた記者やカメラマンが知られざる事件の真相を明かす。そして謎に包まれた永野会長の生い立ちから見えてきたものとは?

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  3. shinichi Post author

    死よりも遠くへ

    by 吉岡 忍
    1989/6/1

    彼らは、語りかける…、死よりも孤独な場所から。豊田商事事件の永野一男、アイドル歌手岡田有希子の自殺、看護婦殺害の医師森川映之、金閣寺住職村上慈海の死、天皇崩御…。時代の終わりに見た「生と死の風景」をニュージャーナリズムの気鋭作家が鮮やかに描く。

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  4. shinichi Post author

    被害総額2000億円!豊田商事「会長刺殺事件」の凄惨な結末
    バブル前夜に起きた巨額詐欺事件

    週刊現代
    2016.06.26(2016年6月18日号)
    https://gendai.media/articles/-/48878

    豊田商事事件 / 現物まがい商法(ペーパー商法)を手口とする組織的詐欺事件。高齢者を中心に数万人が被害に遭い、被害総額は2000億円に上った。’85年には、会長の永野一男がマスコミの前で二人組の男に惨殺される。その様子がテレビで放送され世間に衝撃を与えた。

    「本当に殺したのか」——白昼の惨劇だった。血まみれの永野会長が運び出される姿が、テレビに映し出される。これは現実なのかと、誰もが言葉を失った。

    冨村和光  / ’40年広島県生まれ。大阪地検特捜部副部長として’86年から豊田商事詐欺事件の主任検事を務める。’99年京都検事正を最後に退官し弁護士に

    吉岡忍  / ’48年長野県生まれ。ノンフィクション作家。著書に永野らの生涯を追った『死よりも遠くへ』や日航機墜落事故を描いた『墜落の夏』などがある

    西村秀樹  / ’51年愛知県生まれ。’75年に毎日放送入社。永野会長刺殺事件当日は、現場で記者として取材に当たる。現在は近畿大学人権問題研究所に所属

    報道陣の目の前で

    吉岡 ’85年6月18日に起こった豊田商事事件は、被害総額2000億円という日本最大級の詐欺事件ですが、それ以上に印象的だったのは、会長の永野一男(当時32歳)が取材陣の前で刺殺され、その様子がテレビで放送されたことでした。

    西村 事件当日は、40人くらいの報道陣が永野会長の自宅マンション(大阪市北区)の前で張り込んでいました。そこへ、自称右翼の二人組の男が突然、現れたんです。

    毎日放送の記者だった私が「何しに来たんですか」と質問すると、「被害者から永野をぶっ殺してくれと頼まれたんや」と主張。そして、カメラマンが持っていたパイプ椅子で、永野の部屋のドアをドンドンと叩きだした。

    冨村 当時、私は広島地検の刑事部長(のちに豊田商事事件の主任検事として捜査、指揮)でしたが、ブラウン管を通じて「これは本当に現実なのか」と衝撃を受けました。

    西村 同時にもう一人の男が防犯用の窓格子を引っ張ったら、それがボコッと取れ、窓ガラスを蹴破り、室内に押し入った。「これはやばい」と思って、私は慌てて、3軒隣の部屋に行き110番通報を依頼しました。現場に戻ったのは、血まみれの犯人が部屋から出てきた時でした。手には軍刀が握られていた。

    吉岡 生中継があったのは夕方で、NHKではアナウンサーが「子供には見せないでください」と慌てて呼びかけていた。

    さらに写真週刊誌『FOCUS』が、断末魔の形相をした永野の死体写真を掲載し、世間に相当なショックを与えました。

    西村 男は「警察を呼べ! 俺が犯人や」と報道陣に向かって叫び、アパートから出たところで逮捕。駆けつけた警察に対しマスコミが「(犯人を)早く逮捕せえや」という声も流れました。

    吉岡 当時の報道を見てみると、犯人が現場に現れて部屋に入るまで15分ぐらいマスコミとやり取りをしている。視聴者からは、「現場にいながら、なぜ報道陣は止めなかったのか」、「マスコミも同罪だ」という批判が出ました。

    西村 止めに入ったら、何をされるか分からない恐怖はもちろんありましたが、僕たちマスコミはあくまで「報道が第一」だと考えていた。

    警察はなぜ動けなかったか

    吉岡 永野は、衆人環視の中で殺されたと思っている人がいるかもしれないが、二人が窓から入ったあと、カーテンが邪魔で、室内で何が起こっているのか分からなかった。

    西村 まさか殺すとは、その場にいた誰もが想像していませんでした。これは推測ですが、犯人たちも最初は殺すつもりはなかったと思うんです。「目立ってやろう」と来ただけなのに、報道陣を前に引っ込みがつかなくなってしまったのかもしれない。

    吉岡 確かにインタビューを受けている時もニヤニヤして悲壮感はまったくなかった。のちに裁判で彼らは「殺すつもりはなかったがマスコミに煽られた」と主張しているけど、あれは一部本当かもしれないわけか。

    西村 永野の刺殺については、警察の捜査にもミスがあると思います。犯行の前日に、兵庫県警が外為法違反で永野のマンションを捜索し、それで永野が自宅マンションにいることが世間に知れわたってしまった。その段階で建物の入り口を、警察官が警備していれば、犯行は防げたはず。

    冨村 それに関しては、警察も批判されて致し方ない。この時すでに事件は社会問題化しており、永野に対する世間の非難も頂点に達していた。永野に怒りを持つ者が、突発的な暴挙を起こす可能性は予測できたはず。

    西村 なぜ警察は、永野の逮捕に踏み切らなかったのですか。

    冨村 詐欺で立件するには、証拠が少なすぎたんです。当時、まだ豊田商事は破産しておらず営業活動中。そんな中、強制捜査を行うと「警察や検察に営業を妨害された」と主張し、破産の口実にする可能性があったからです。そうなれば詐欺として立件するのが難しくなる。

    吉岡 豊田商事事件が起きた当時は、経済犯罪に警察も慣れていなかったですからね。2000億円の詐欺なんて常軌を逸しているから、「普通のビジネスなんじゃないか」という認識が警察にあったのかもしれない。最初の段階では利子も払っていたし、すぐに違法とは言えなかったのでしょう。

    西村 民事不介入という理屈ですね。

    永野を殺した二人には、懲役10年と8年の実刑判決が下されましたが、「詐欺事件を考慮した温情判決だ」と世間の議論を呼びました。しかも最後まで明確な殺害動機は、分からないままだった。

    冨村 「殺害を指示した人物がいる」との臆測も流れましたが、結局は何も出てこなかった。証拠を見る限り、口封じ目的で永野を殺したとも考えられませんね。

    吉岡 実は最初の頃、この詐欺事件の被害者は、マネーゲームに狂奔した、いわば「欲に目が眩んだ連中」だと思っていた。ところが裁判を傍聴して誤解だと気づいた。加害者の豊田商事側の人間は、ビシッとスーツ姿なのに、被害者側は、普通の主婦や、うらぶれた独居老人ばかりだったんです。

    西村 被害者の中には、「あんないい人たちが、詐欺なんてするはずない」と信じ込んでいる人もいました。

    冨村 それだけ巧妙な手口だったわけです。訪問先ではまず「お仏壇はどこですか?」と訊ね、「線香を上げさせてください」と言って、寂しい老人の話し相手をするんです。その後、「金は現金と同じで、しかも税金がかからない。絶対に値上がりする」と、セールストークを繰り返し顧客の脳裏に刷り込んでいく。そうやって金を買わせるんだけど、渡すのは証書だけで、金そのものは渡さないのです。

    西村 普通に考えれば怪しいのに、誰も詐欺だと疑わなかった。

    人間がカネに支配された時代

    冨村 私は、永野が殺された翌年に大阪地検に異動し、この詐欺事件を担当することになるのですが、捜査は苦労の連続でした。従業員は7000人以上。全国には100もの支社があったのに、社員は蜘蛛の子を散らすように消えてしまった。

    西村 実態は詐欺グループでありながら、それだけの規模にまで成長させた永野には、正直驚きました。

    吉岡 事件の数日後に、永野の遺品を引き取った叔父の家を訪ねた時、驚く光景を目にしました。新聞に掲載された遺体写真が、床の間に飾られていたんです。聞けば「大人になってからの永野の写真がない」と言う。それを聞いて永野の人生に強い興味が湧きました。

    西村 永野は岐阜県の生まれで、小学校卒業後に、母親の弟がいる島根県に預けられる。そこで中学校時代を過ごしていますよね。

    吉岡 永野が生前暮らしたアパートや家を一軒一軒訪ねたんだけど、それが誰も彼のことを憶えていないんだよ。担任教師ですら覚えていない。これは不思議だったね。

    西村 その存在感のなさが、彼の特徴だったのかもしれませんね。

    吉岡 中学卒業後は、愛知県の自動車部品メーカーに勤めている。当時の給料は1万円。今とは物価が違うといっても安すぎる。それで永野は、こんなところにいても意味がないと感じたんじゃないかな。しかも自分は中卒だから偉くもなれない。そこでの体験が、おカネに対する「執着心」を生んだのかもしれない。

    西村 工場を辞めてからは、消火器の販売や不動産会社を転々とし、その後、先物取引の会社に就職します。

    吉岡 そこで永野は、カネを儲けるには「右から左に動かすのが一番賢いやり方だ」と思い込んだわけです。物を作って売ってもいくらにもならないけど、相場なら莫大なカネが動くと。

    冨村 実際、豊田商事の記録の中で永野は「事業はマネーゲームだ。その意味では相場が一番で、その次がマルチ、ペーパー商法だ。商売に道徳は必要ない」と語っていたようです。事業は博打だと考えていたんでしょう。

    西村 ’85年と言えば、時代的にもちょうど日本がバブルに向かう直前。株や不動産が急激に値上がりして、濡れ手で粟を掴んだ人も多かった。「ラクして稼いで何が悪い」、「多少の悪いことも許される」という雰囲気が、社会全体に蔓延していた。

    吉岡 そうした時代背景があるから豊田商事は急成長し、2000億円という莫大なカネを集めることができた。でも永野自身の生活は質素そのものだったようです。

    殺された時の所持金はわずか711円。遺品で目ぼしい物は、30インチのブラウン管テレビとカラオケセットだけ。あとは舟木一夫とか歌謡曲のLPレコードと本が100冊ほど。金儲けと田中角栄に関する本がほとんどだった。

    西村 小型飛行機やクルーザー、ランボルギーニなどのスーパーカーを所有していたそうですが、その一方で住まいは大衆的なマンションと、実にアンバランスでした。

    吉岡 要はおカネの使い方をまったく知らなかったんだよ。典型的な成金。でもそれは永野だけじゃない。バブル前夜のあの時代は成金がたくさん生まれたけど、彼らはその稼いだカネを何に使うのかがわからなかった。人間がカネに支配された非常に「いびつな時代」だったと思う。

    冨村 永野が貧しい生活を送っていた一方で、豊田商事の幹部社員たちはすごくいい暮らしをしていた。一部の幹部は、1000万円もの月給をもらっていた。

    吉岡 当時としては珍しいオートロック付きのマンションに住んでいたからね。永野のマンションとは大違い。永野に同情の余地はないけど、結果から見ると、利用され、祭り上げられただけだったのかもしれない。

    西村 いわゆるカリスマ性とか「巨悪」という印象はありませんね。恐らく消火器を売りつけていた時と同じ感覚のまま、気づいたら2000億円も騙し取っていた感じではないでしょうか。

    冨村 永野は、「(会社が)こんなに大きくなるとは思っていなかった。これだけの規模にしたのは、部下がやったこと。でも、これだけ大きくなってしまったら、もうお仕舞いだ」と言っていたそうです。永野には自分の行く末が悲惨なものになるとの予見はあったのでしょう。

    西村 もし永野が生きていれば法廷でいろいろなことを喋っていたはず。カネの流れも分かっていた可能性があると思うと残念ですね。

    冨村 豊田商事のセールスマンの中には、自分が詐欺に関わっているとの自覚を持っていた人も多いけど、それをすべて立件するのは、不可能だったからね。

    吉岡 事件から30年が経過し、法律も整備され経験値も上がっているはずだが、類似の詐欺事件は後を絶ちません。豊田商事の残党が関わったと思われる事件も起きている。人間のカネに対する執着はいつの時代も変わらないのかもしれない。

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