なぎさ(山本文緒)

 憧れていた海はなんだか想像したものと違っていた。もっと晴れやかな気持ちになるに違いないと思っていたのに、大きな心もとなさを寄越しただけだった。
 引っ張られて連れ去られることは恐い。恐いけれども行ってみたい気にもなる。自分が住んでいるこの土地は、そういう人間の弱くてやわい気持ちが流れ出していかないように、かっちりせき止めているのかもしれない。高いところにできた水たまりのような故郷に、確固たる安心感を持ったのはそのときが初めてだった。どこへでも行けるという可能性の雲に乗るよりも、ここで生きると両足を踏みしめる幸福を知った瞬間だった。
 だから生まれ育った故郷を出ることを決断するには勇気が要った。出て行くことを告げると、両親は私をなじった。知り合いという知り合いは山々にがっちりと根ざす樹木のようになっていて、表面上は「遊びに行くね」と笑顔を見せても、眼の底は冷ややかだった。
 森をつくる一本の樹だった私たちは、せっかく張った根を引き千切るようにして長野県を出た。縁もゆかりもない海辺の町へゆくために。

2 thoughts on “なぎさ(山本文緒)

  1. shinichi Post author

    なぎさ

    by 山本文緒

    故郷を飛び出し、静かに暮らす同窓生夫婦。夫は毎日妻の弁当を食べ、出社せず釣り三昧。行動を共にする後輩は、勤め先がブラック企業だと気づいていた。家事だけが取り柄の妻は、妹に誘われカフェを始めるが。

    角川書店
    http://shoten.kadokawa.co.jp/tachiyomi/bunko/index.php?pcd=321511000300

    **

     生まれ育った土地には海がなかった。四方を山々に囲まれて、山よりも高いものはやはり山だった。その間を縫うようにしてのんびりと走る鉄道で、県庁所在地である街に出ると見上げるようなビルが沢山建ってはいたが、駅前デパートの屋上から見渡す風景はやっぱり雄大なる山脈だった。
     どこまでも続く深緑と青の隆起。その向こうに突然白い氷の壁がそびえている。北アルプスは山というよりは切り立った氷の崖に見えた。幼い頃、あの氷壁は世界の果てであり、行き止まりだと思っていた。人間がこの世からうっかりこぼれ落ちないように、あの巨大な壁がせき止めている、というふうに感じていた。氷の山の外側は奈落である。底なしの真っ暗な落とし穴だ。誰に言われたわけでもないのになんとなくそう思っていた。
     学校に上がればもちろん地理を習うわけで、自分の住む国が地球儀上のどこなのか、自分の住む県が日本地図のどのあたりにあるのか明らかになった。長野県須坂市。それが私の生まれ育った土地だ。家の子供部屋から見えるひときわ高い頂は飯縄山と戸隠山。街にゆくときに渡る川は千曲川。池を抱く臥竜公園は桜の名所で、公園のまわりを細長い動物園がぐるりと囲んでいる。後に全国的に有名になったアカカンガルーのハッチはここにいた。昔は製糸業が盛んで生糸の生産地だったが今は廃れ、農家の多くは林檎と葡萄を作っている。そんな知識が身についても、実感はいまひとつわいてこなかった。地球が丸いだなんて、丸い地球の七割が海で、陸よりも圧倒的に海の方が広いだなんて。日本が海に囲まれた島国で、海に面していない県の方が少ないだなんてまったく腑に落ちない。歴史の教科書に載っている天動説を唱えた人々の気持ちの方がよほどわかった。
     海に行ってみたいと父に頼んだのは十歳のときだった。熱烈に海を見たいと願っていたわけではない。両親は商売をやっていたので長い休みが取れず、家族で旅行へ出ることは稀で、行っても近場の温泉だった。
     ところがその夏の日、急に父が「行きたいところへどこへでも連れて行く」と言い出した。そうは言ってもまたどうせ温泉なのだろうと思いながら、海、と呟いた。言ってしまってから、それより遊園地と言えばよかったと後悔したくらいだ。翌日の夕方、父はぴかぴかなワンボックスカーにどこかから乗って家に戻ってきて、いまから海へ行くと宣言した。風呂上がりでパジャマ姿の妹とふたり、唖然としたまま車に乗せられた。父は新しく自家用車を買って相当はしゃいでいたらしい。今から急に出かけるなんてと母は小言を呟きながらも、夕飯の残りをおにぎりにしたりして嬉しそうだった。
     生まれて初めて見た海は日本海だった。車の後部座席で眠っていたのを起こされて、外を見てみると明け方の海があった。興奮して妹を揺すったが起きなかったので置いていった。八月なのに風は冷たく、羽織ったパーカーを前でかきあわせる。空を覆う雲は低かった。母に言われてスニーカーを脱ぎ渚に向かう。浜には海藻や木片や古いペットボトルなどが散乱していて、素足で歩くのは気持ちが悪かった。ぴょんぴょん跳ぶようにして、急いで波打ち際に走った。足の裏に濡れた砂を踏む奇妙な感触がし、思わず立ち止まると、波がやってきて脛を濡らした。水の冷たさにびっくりし、後ろにいるはずの両親を振り返る。彼らの姿はそこにはなくて、自分が脱ぎ捨てた靴だけがぽつんと見えた。不安になってあたりを見回すと、離れたところで両親は手をつなぎ、同じように波打ち際に立って、自分たちの足元で寄せては引く波を見つめていた。大人でも海は珍しいのだとわかって少しほっとした。
     本物の海は、テレビや映画で見たものとはずいぶん違うと思った。なにしろ水が青くないし、砂が白くない。海と空の色が同じような鈍色でその境目はぼやけている。
     急に足元がぐらついて転びそうになり慌てて両足を踏んばった。寄せる波よりも、引く波の力が強い。足裏の下の砂がすごい力でさらわれる。なんだか恐いと思って足元から目が離せなくなった。少しでも気を抜くと海にさらわれる。波がこないところへ逃れなくてはと思うのだが、引っ張られることも何故だかちょっと気持ちがよくて、恐怖と誘惑が寄せては引いていく。だんだん体がだるくなってきて、座り込んでしまいたくなった。そのとき腕を掴まれて名を呼ばれた。母が心配そうな顔でこちらを覗き込んでいた。
     そのまま一家は海沿いの町にあった温泉に寄り、夜を徹して運転してきた父は休憩所の畳でいびきをかいていた。体のだるさが取れなくて父の隣で丸くなっていると、母が額に手を触れてきた。ひんやりしていて気持ちがよい。母は眉間に皺を寄せると、波打ち際で腕を掴んだときと同じような強さで私を立たせた。そして知らない町の小さな医院で注射を打たれた。せっかく来たのにと文句を言いながら、父はひと眠りしただけでまた長時間運転をし、山麓の町へ戻った。
     高熱は二晩続き、やっと起き上がることができた朝、自宅の庭に出て見なれた山の景色をしみじみ眺めた。
     憧れていた海はなんだか想像したものと違っていた。もっと晴れやかな気持ちになるに違いないと思っていたのに、大きな心もとなさを寄越しただけだった。
     引っ張られて連れ去られることは恐い。恐いけれども行ってみたい気にもなる。自分が住んでいるこの土地は、そういう人間の弱くてやわい気持ちが流れ出していかないように、かっちりせき止めているのかもしれない。高いところにできた水たまりのような故郷に、確固たる安心感を持ったのはそのときが初めてだった。どこへでも行けるという可能性の雲に乗るよりも、ここで生きると両足を踏みしめる幸福を知った瞬間だった。
     だから生まれ育った故郷を出ることを決断するには勇気が要った。出て行くことを告げると、両親は私をなじった。知り合いという知り合いは山々にがっちりと根ざす樹木のようになっていて、表面上は「遊びに行くね」と笑顔を見せても、眼の底は冷ややかだった。
     森をつくる一本の樹だった私たちは、せっかく張った根を引き千切るようにして長野県を出た。縁もゆかりもない海辺の町へゆくために。

     JR久里浜駅の改札口を見つめ、私はもうずいぶんと長く立っていた。妹との待ち合わせの時間は三十分前に過ぎている。携帯電話は何度かけてもつながらなかった。約束の時間の十五分も前からここに立っているので彼女の姿を見逃したとは思えない。さらに二本ほど電車を待ってみたがそれでも妹は現れず、苛立ちは心配へとすっかり取って代わっていた。
     意を決して窓口の奥にいた駅員に声をかけ、待ち合わせの人が来ないので、どこかの駅で病人が出ていないか問い合わせてくれないかと聞いてみた。駅員は当惑の表情を浮かべ、京急の改札と勘違いされているということはないでしょうか、と答えた。
     久里浜にはJRと私鉄である京浜急行のふたつの駅があり、その駅舎は連絡していなくて少し離れている。立派な駅ビルを有しているのは京急久里浜駅の方で、バスターミナルも商店街もそちら側にあり、昔ながらの木造駅舎のJR久里浜駅は、駅ビルの背中についている巨大駐輪場だけを眺める恰好になっている。
     地元の人にとっては京急久里浜の方が表玄関で、待ち合わせもそちらの方にするのが自然である。けれど、私が妹に久里浜というところは横須賀線の終着駅だと説明したとき、いやに彼女は感心して「それじゃあ横須賀線で行ってみるよ」と笑ったのだ。だから間違えるはずはない。それでも、もしかしたらと思い、京浜急行の改札まで行ってみることにした。改札口はビルの二階部分にあり、海側と山側をつなぐ連絡通路には人が大勢行き来していた。人待ち風な顔をして立っている人をひとりひとり確認するようにして彼女の姿を探した。
     切符売り場の横にミニスカートの女の子のふたり連れ、その隣にスーツ姿で携帯電話を片手に話している男性がひとり、壁に寄りかかり文庫本に目を落としている背の高い男の子がひとり、その向こうにはベビーカーを傍らに置いた若いお母さんがひとり、と思いながら歩いていき、ふと足を止めた。壁の前の男の子が顔を上げてこちらを見ている。
    「冬乃ちゃん」
     笑顔でその子は私を呼んだ。妹だ。片手を挙げて合図する彼女のシャツの袖口から白い包帯が見えた。斜めがけしたバッグに文庫本を入れる様子を私は凝視する。
    「菫?」
    「久しぶり、冬乃ちゃん、変わらないね」
    「菫はなんだか、男らしくなって」
    「そうかなあ。髪のばしているのになあ」
     確かに髪は肩に届くくらいに伸びている。背丈があって肩が張っていて。胸もお尻も平たい彼女はもともと中性的であったが、無造作に伸ばした髪はさらに彼女の少年っぽさを増幅させている。でもこうして向かい合えば懐かしい妹だった。

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  2. shinichi Post author

    ALL REVIEWS

    書き手:中江 有里

    『なぎさ』(角川書店)

    https://allreviews.jp/review/274

    「日常」という「大きな世界」を生き抜く力をくれる小説

    とりとめのない話に思えるのに、なぜこれほど深く沁みるのだろう。映像でもなく、ノンフィクションでもない小説の力をあらためて感じる。

    山に囲まれた故郷を逃れるように出て、海のある久里浜に居を構えた佐々井夫妻。夫の会社がブラック企業と気づいた妻の冬乃は夫が解雇される前に仕事を決めようと考えているが、内心「ほどほどに働きたい」と一歩踏み出す勇気を出せないままでいる。夫妻のもとに転がり込んできた妻の妹の菫に誘われ「なぎさカフェ」を久里浜で始めることになるが――。

    日常を薄くはがすように丁寧に描写される。ひとり眠る夫の真意をはかりかね不安になるのに、同じベッドでは眠れない冬乃。住まい、家族、仕事など、人は様々なものに縛られる。そして同時に縛られないことを恐れてもいる。夫が仕事に疲弊し、どんどん病んでいく様子は、読んでいて怖くなってきた。

    「いろんなことが鬱陶しい。なのに人恋しい」と佐々井の部下である川崎は嘆き、「同じ悩みにそろそろ飽きろ。人生の登場人物を変えるんだ」と「なぎさカフェ」のオーナーであるモリは言う。どちらの言葉も真に迫っていて、両人ともあまり好ましくないのに妙に共感してしまう。そして「探せばどこかに自分の体と心に丁度いい仕事があるに違いない」と幻想を抱く冬乃を「甘い」と思いながら、自分だって同じことを考えていることに気がつく。人の善悪を超越し、それぞれの持つ悩み、苦しみが波のように押し寄せては引いていく。

    『なぎさ』の世界観は、海と山に挟まれた久里浜の地形に似ている。故郷を離れたように山を背にして波打ち際に立つと、思いがけない力強さで波に足をさらわれそうになる。不安定な砂の上で両足を踏ん張るより、このままさらわれてしまいたい「恐怖と誘惑が寄せては引いていく」という感情は、生と死とを分かつ此岸を彷彿とさせる。踏ん張った足をどこへ踏み出そうかとだれもが迷っているのだ。

    わたしの目の前にもきっと見えない「なぎさ」はある。「なぎさ」はあらゆるものに例えられるが仮に「世界」だとする。騒いだり凪いだりしている「世界」となるべく離れていきたいが「世界」と無関係に生きていくことはできない。いつかは「世界」と向き合い、時に「世界」に屈する場合もある。普遍的な人間を描きながらこんなにも大きな世界につながった衝撃に読後しばし呆然とした。

    勝ち目も爽快感もなくても、とにかく今日を生きる力を手渡してくれる一作だ。

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