3 thoughts on “Paganini – Violin Concerto No.4 in D minor – II. Adagio

  1. shinichi Post author

    Niccolo Paganini – Violin Concerto No.4 in D minor – II. Adagio flebile con sentimento (attacca -)

    Violinist Salvatore Accardo
    Conductor Charles Dutoit
    London Philharmonic Orchestra

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  2. shinichi Post author

    ニコロ・パガニーニ

    ウィキペディア
    https://ja.wikipedia.org/wiki/ニコロ・パガニーニ

    ニコロ・パガニーニ(Niccolò(あるいはNicolò) Paganini, 1782年 – 1840年)はイタリアのヴァイオリニスト、ヴィオリスト、ギタリストであり、作曲家である。特にヴァイオリンの名手としてヨーロッパ中で名声を獲得した。

    パガニーニがヴァイオリンを弾き始めたのは5歳の頃からで13歳になると学ぶべきものがなくなったといわれ、その頃から自作の練習曲で練習していた。それら練習曲はヴァイオリン演奏の新技法、特殊技法を駆使したものと言われる。父親に習ったこと、A.コッラに半年間だけ習ったこと以外はその驚異的なテクニックを独学で身に付けた。なお、父親による指導は少しでも情熱が足りないと思われると食事も貰えないという過酷なものだった。

    そのヴァイオリン演奏のあまりの上手さに、「パガニーニの演奏技術は、悪魔に魂を売り渡した代償として手に入れたものだ」と噂されたという。そのため彼の出演する演奏会の聴衆には、本気で十字を切る者や、本当にパガニーニの足が地に着いているか確かめるため彼の足元ばかり見る者もいたという。

    少年時代から病弱であったが、1820年に入ると慢性の咳など体調不良を訴え、『毒素を抜くため』に下剤を飲み始める。1823年には梅毒と診断されて水銀療法とアヘンの投与が開始された。さらに1828年頃には結核と診断され、甘汞を飲み始め、さらに下剤を飲み続けた。その後、水銀中毒が進行して次第にヴァイオリンを弾くことができなくなり、1834年頃についに引退する。そして1840年に水銀中毒による上気管支炎、ネフローゼ症候群、慢性腎不全によりニースで死去。

    一般に死因は喉頭結核もしくは喉頭癌といわれているが、主治医の診断から結核ではなかったことがはっきりとしており、記録に残る症状(歯肉炎、振戦、視野狭窄など)から、水銀中毒だったことは明らかである。

    前述の噂が原因で埋葬を拒否され、遺体は防腐処理を施されて各地を転々とし、改葬を繰り返した末に1876年にパルマの共同墓地にようやく安置された。

    • 目つきが鋭く、また病弱だったためにやせていて肌が浅黒かった。その容姿も悪魔の伝説に貢献した。
    • 猛特訓の末に左手が柔軟になっていたことが彼の超絶技巧を可能にした。これは、マルファン症候群によるものという説があり、アイザック・アシモフはその著書において、悪魔的とまで言われた演奏技術は、マルファン症候群特有の指の長さや、関節のなめらかな動きがもたらしたものではないかとする見方を示している。しかし、パガニーニが中背だったという記録が残っている(絵画等には長身の人物として描かれているものもある)ことから、この説は考えにくいという説もある(ただし、マルファン症候群の罹患者は全て長身と言うのは俗説であり、身長はマルファン症候群と診断する際の必須の条件ではない)。
    • 青年時代には、恋愛と賭博を好み、ナポレオン1世の妹のエリーズ・ボナパルトとポーリーヌ・ボナパルトと浮名を流した。賭博で大負けし、演奏会の前日に商売道具のヴァイオリンを巻き上げられたこともある。
    • 興行師としての才能もあり、木靴に弦を張って楽器として演奏しひともうけした後、金に困った女性を助けたなどの逸話もある。また演奏会にて、弾いている最中にヴァイオリンの弦が切れていき、最後にはG弦しか残っていなかったのに、それ一本で曲を弾ききったと言う逸話もある。しかしながら、弦が頻繁に、高いほうから都合よく順に切れていったこと、一番低いG弦は決して切れなかったこと(弦楽器は開放弦より低い音を出す事は出来ない)などから、パガニーニ本人がパフォーマンスの一環として、伸ばして鋭くした爪で演奏中に弦をわざと切っていたと言われている。
    • 自身の利益や金銭に執着する人物であったと言われる。高い評価や人気を得るにつれ、演奏会のチケット代は高額を要求するようになった。やがて偽造チケットも多く出回ったため、自ら会場の入口に立ち、チケットをチェックするほどの徹底ぶりであったと言われる。
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  3. shinichi Post author

    「悪魔」を売りにした天才バイオリニスト、ニコロ・パガニーニの惨憺たる⼈⽣と ねじれこじれの結末

    arthuman

    https://art-human.com/2020-08-17-makiko/

    幼少期に受けた「悪魔」のお告げ

    1782年、⽇本では江⼾中期、天明の⼤飢饉があっていた年に、イタリアのジェノヴァでニコロ・パガニーニは⽣まれました。パガニーニの⽗は港の労働者でその傍らでマンダリン弾きとしても稼いでいました。この⽗から5歳の時にマンダリンを教えられ、その他にもギター、そして7歳の時にバイオリンを始めます。⼩さい頃から病弱でしたが、体調の優れない時でも何時間もの厳しい特訓について来なければ暴⼒を受けたり⾷事を与えてもらえなかったそうです。パガニーニの⺟はパガニーニが5歳の時に奇妙な夢を⾒ます。それは、⾚い炎に包まれた劇場でパガニーニが悪魔と命を賭けた演奏勝負をしていると⾔うものでした。そこに天使が現れ、「彼は素晴らしいバイオリニストになる、そして名は世に知れ渡る」と告げたそうです。

    当時すでにタルティーニ(イタリアの有名な作曲家・バイオリニスト)が夢の中でバイオリンを弾く悪魔を⾒たと⾔う話があり、世間ではバイオリンと悪魔のイメージがすでに結びついていました。パガニーニは⺟が⾒たこの「悪夢」または予⾔のような話を売りにしてその道を極めていきました。

    魔⼒のような魅⼒

    パガニーニが19歳の時、ある政治家に呼ばれイタリアのトスカーナ州にある⼩さな街の教会の儀式で演奏することになりました。28分間の演奏の中で彼は⿃の鳴き声やフルートの⾳、トロンボーンの⾳などをバイオリンでそっくり真似してみせました。その完成度の⾼さに観客は驚き、教会と⾔う静寂な場所にも関わらず笑い声や歓声まで上がりました。彼の有名な24の奇想曲(カプリース)も19歳の時に作曲し始めたそうです。

    ここから27年間、彼はイタリア内でどんどん有名になって⾏きます。ナポレオン第⼀世の妹エリザの宮廷で演奏したり、エリザの旦那の講師もしていました。基本がしっかりとした演奏⼒に加え、「7つの戦術」を巧みに使っていました。弦のチューニングの仕⽅、⼸の動かし⽅、指で弦を弾く演奏法、⾼⾳の使い⽅や変化のつけ⽅、などなどです。今までにない演奏構成で⼈々を驚かせ魅了する⼀⽅、逆にそれを批判する評論家もたくさんいました。

    彼の魅⼒はその容姿にもありました。⻑く波うった⿊髪にガチッとした四⾓い輪郭と⿐、ヒョロッとしていて、いつも⿊づくめの服装。演奏中は予想外で⼤胆な動きをし、酔っ払いのようだったと⾔うコメントも残っています。こうして「悪魔にとりつかれたバイオリニスト」というイメージが定着していったのです。

    成功が欲と⾦と⼥と妬みをもたらす

    パガニーニが46歳の時、彼の知名度はついにイタリアの国境を越えました。3年間でドイツ、ポーランド、ボヘミア、フランスなど50の街で125回コンサートを開き、たくさん稼ぎました。バイオリニストとしては前例のない稼ぎっぷりでした。稼げば稼ぐほど欲が深まり、チケットの料⾦も通常の2倍にしてみたり、わざと観客を⻑く待たせたりして、“付加価値”をつけようと企みました。

    そんなミステリアスでカリスマ性のある彼にはいつもたくさんの⼥性がたかっていました。パガニーニは⼥性にギャンブルに、どんどん溺れて⾏きます。この様⼦に勿論たくさんの妬みと批判もかいました。3年間のツアーコンサートを終えた時点で元々病弱な彼の体はボロボロになっていました。しかしそれでも次はパリ、ロンドンと移動し活動を辞めません。これは同じようにギャンブル好きで、過剰に厳しく彼を育てた⽗親の影響が強いと⾔われています。幼少期に植えつけられた狂気的なチャレンジ精神がこの先もあだとなって⾏くのです。

    病と⽀え

    体調が悪化していっても更に⾝体にムチを打ち続け、52歳の時についに結核と診断されます。その前にも、40歳の時には梅毒と診断されていました。処⽅薬には⽔銀とアヘンが含まれていて、この⽔銀の薬は何年も服⽤していたそうです。結果的には⽔銀中毒だったのではないかと⾔われています。体調が悪化し仕事も上⼿くいかなくなってきたパガニーニを懸命に補助したのは、彼が42歳の時に、彼とソプラノ歌⼿との間にできた⼦供のアキリでした。もうろうとするパガニーニがあるお偉いさんと喧嘩になろうとした時に、まだ当時6歳だったアキリがさっと間に⼊り和解をさせたというエピソードが残っています。

    そんな⽀えも報われず、さらなる不幸が訪れます。

    最後のあがき 猫の鳴き声

    1836年、パリでのカジノ建設案に声がかかりパガニーニは所有者の⼀員となりま
    す。しかし運営の許可がおりず事業は⼤失敗に終わってしまいます。そこで彼は法的処分を逃れるためにニースに逃げました。(ニースは今はフランスですが、当時はサルデーニャ王国という国の⼀部でした。)それまでに稼ぎまくったお⾦も⼀瞬にしてなくなり、とうとう所持していた楽器まで⼿放さないといけなくなりました。

    パガニーニが住んでいたニースのアパートは、今でも存在しています。⽯碑には、「1840年5⽉27⽇ニコロ・パガニーニの魂は、この家を後にして永遠の調和の源へと繋がり、魅⼒的な⾳⾊の⼒強い弦は横たわるが、ニースの⼼地よい⾵の中でその⾄⾼の優しさは今もなお⽣きている。」(魅⼒的な⾳⾊の⼒強い弦=パガニーニ。横たわる=亡くなる・埋葬される。ともとれる。)(訳:イタリア在住のハルミさん)
    こんなに素敵な⾔葉が書かれているのですが、それとは裏腹に切実なエピソードが語り継がれています。それは、奇妙なことにここの窓から夜な夜な猫があがき苦しむような鳴き声がしていたのだとか。しかしそれは、⼼が落ち潰れ、ひねくれたパガニーニがバイオリンで真似して弾いていた⾳だったそうです。ご近所への嫌がらせです。とても反感をかい嫌われていたそうです。

    それから間も無くして、パガニーニは突然の体内⼤量出⾎で亡くなります。57歳でした。この不吉な死に⽅と彼の「悪魔」のイメージのせいで、どこの教会からも埋葬を断られ、約2年間遺体は友⼈の間を⾏ったりきたりし、⼀度は違法的に個⼈の⼟地に埋葬されるのですが、それから3回ほど場所を移し替えられ、死後36年後やっとイタリア北部のパルマの墓地に埋葬されます。そしてそれからまた20年後、パルマの別の新しい墓地に移され今やっと静かに眠っています。

    パガニーニは「悪魔」のイメージを⾃ら商売道具にし、⺟が⾒た夢を⾒事に実現させました。しかしご覧の通りそのイメージは彼を良い⽅にも悪い⽅にも導きました。とうとう死ぬ間際、彼はどんな気持ちだったのでしょう。パガニーニの⼒作を良かったら是⾮お聞きください。悪魔のイメージとはまた違う感性豊かな表現者としてのパガニーニを聴き取ることができます。この夏の暑さが和らぐぐらい素敵です。

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