そこにはもちろん数百人の騎士や、武装した相当数の歩兵もいたが、そのほかに、ぼろ着をまとった数千もの女、子ども、老人までいる。それは、まるで侵略者によって故郷を追われた集団とでもいおうか。さらに伝えられたところでは、彼らは全員、十字架の形の布切れを背中に縫いつけている。
そこにはもちろん数百人の騎士や、武装した相当数の歩兵もいたが、そのほかに、ぼろ着をまとった数千もの女、子ども、老人までいる。それは、まるで侵略者によって故郷を追われた集団とでもいおうか。さらに伝えられたところでは、彼らは全員、十字架の形の布切れを背中に縫いつけている。
Les Croisades vues par les Arabes
Amin Maalouf
éditions Jean-Claude Lattès
(1983)
J Ai Lu Editions
(1999/2023)
Juillet 1096 : il fait chaud sous les murailles de Nicée. À l’ombre des figuiers, dans les jardins fleuris, circulent d’inquiétantes nouvelles : une troupe formée de chevaliers, de fantassins mais aussi de femmes et d’enfants marche sur Constantinople. On raconte qu’ils portent, cousues sur le dos, des bandes de tissu en forme de croix. Ils clament qu’ils viennent exterminer les musulmans jusqu’à Jérusalem et déferlent par milliers. Ce sont les “Franj”. Ils resteront deux siècles en Terre sainte, pillant et massacrant au nom de Dieu. Cette incursion barbare de l’Occident au coeur du monde musulman marque le début d’une longue période de décadence et d’obscurantisme. Elle est ressentie aujourd’hui encore, en terre d’islam, comme un viol.
アラブが見た十字軍
アミン・マアルーフ著
牟田口義郎・新川雅子訳
リブロポート、1986年
ちくま学芸文庫、2001年
1096年7月: ニカイアの壁の下は暑い。イチジクの木陰、花畑で、不穏なニュースが流れた。騎士、歩兵だけでなく女性や子供も含む部隊がコンスタンティノープルに進軍している。背中に十字架の形をした布を縫い付けている。彼らはイスラム教徒を殲滅するためにエルサレムまで来ており、数千人規模で押し寄せている。それが「フランジ(フランク)」だ。彼らは二世紀にわたって聖地に留まり、神の名において略奪と虐殺を行うことになる。イスラム世界の中心部への西側諸国によるこの野蛮な侵入は、長い退廃と隠蔽主義の時代の始まりを示している。イスラムの国では今日でもそれは一種の強姦(レイプ)のように感じられている。
『アラブから見た十字軍』 — 千年のトラウマと今の争い
by vaivie
https://provaiciao.jp/leggere/arab-2/
『アラブが見た十字軍』 アミン・マアルーフ 牟田口義郎・新川雅子/訳
リブロポート 1986 (ちくま学芸文庫 2001)
著者の「史談」の巧みさもあって、予想以上に面白く読んだ。
「十字軍は西洋からの視点でしか語られて来なかった」のは、
1980年代も今も変わっていない。
これは十字軍だけのことではなくて、
私たちが「世界史」と言ってるものがそもそもそうなんだけれど。
その意味で、西洋ではない視点で物事を見るというのは、常に必要だ。
たとえば今のシリアやイラクとかも。
レバノンのジャーナリストがフランス語で書いたこの本では、文中に十字軍という言葉はほとんど出てこない。イスラム社会で、十字軍勢はフランクと呼ばれていた。フランス人もドイツ人もイタリア人もフランクである。
一方中世イタリアでは、トルコ人もアラブ人もペルシャ人も、みな「サラセン」であったのだから、似たようなものではある。それに、当時はヨーロッパというくくりもなければ、今のフランスやドイツやイタリアという国もなかった。
それで、どういうふうに十字軍が結成されたかという説明もなければ、第何次、といった区分けも記されていない。ただ、侵略、占領、反撃、勝利、猶予、追放と、語られていくだけである。
このことだけでも、
イスラムにとって十字軍がどういうものであったのかが、見える。
当初、彼らには、フランクの聖都奪還という概念が理解できなかった。
宗教的(狂信的)な侵攻というものが理解できなかったのだ。
著者は十字軍を、
「イスラム世界と西洋の間に以後千年にわたって続く敵対関係の発端」
と記す。
ただしこれを、宗教対立とは書いていない。
というのも、特に最初の半世紀、イスラム側では、
フランクの侵略とその防衛戦争を、
宗教をめぐる戦いとは思っていないのだ。
これはイスラムが、ユダヤ教とキリスト教を下敷きにして出現した宗教だ、
ということもあるかもしれない。イスラム世界では、
唯一の神を信じ、その神から啓示を与えられた「啓典の民」として、
ユダヤ教徒もキリスト教徒も、ムスリムと共存が可能だった。
この頃、彼らの争いは常に領土をめぐってであった。
12世紀初頭のイスラム社会は、かつての統一帝国ではなくなっていて、
分裂した領国は絶えず近隣からの侵略に怯えていた。
最初の半世紀にイスラムがやられっぱなしであったのも、
これらの内戦と同時並行でしか、十字軍に対応できなかったからだ。
アンティオキアやトリポリといった重要な都市の攻防も、
都市の軍隊と住民だけの持久戦では、陥落で終わる。
例えば、イスラム世界の重要都市であるアレッポがフランクに攻められた。
救援を求められたダマスカスは、本来なら、
他都市にも同盟を呼びかけて救援に向かうのが筋であるように思える。
だがダマスカスは、アレッポの勢力が増大すのを恐れるあまり、
フランクと手を結び、アレッポ陥落を容認するのである。
彼らは、多くは骨肉相食むことになる勢力争いをけん制するためにも、
フランクに占領された十字軍都市をむしろ利用しようとした。
極論を言えば、彼らにとっては、異教徒に奪われた十字軍都市も、
ある時は敵となり、別の時は味方となる、
単なる別の勢力に占領された一都市にすぎなかったのだ。
もちろん、宗教的な反発は民衆の間にも広く存在したし、
その宗教的対抗心は、ふがいない領主たちに対する絶望と相まって、
次第に高まってはいく。
なかには己の領土の保持獲得だけで動く領主ではなく、
敬虔なムスリムとして聖戦を戦おうという領主も現れる。
けれども、それらが成果を上げ始めるのは半世紀を経た頃からであり、
最終的にエルサレムがイスラムの手に戻るのは、
1世紀後のサラディンを待たなければならない。
しかしこれも、宗教的な一体感や連帯感による成果かというと、
それだけでもない。
サラディンがエルサレムを奪い返すには、
まず分裂していたイスラム世界を、
特にカイロとバクダッドを政治的に統一支配することが前提であった。
この流れから、13世紀のフリードリッヒ二世の無血聖都奪還も、
見る必要があるだろう。
当時のエジプトのスルタン、アル・カーミルは、
弟が支配するダマスカスとのあいだにフランクの都市があるのは、
むしろ自領にとって有利であると考えたのだ。
だが、フリードリッヒがキリスト教世界から非難されたように、
アル・カーミルもイスラム世界から非難を浴びることになる。
いずれの世界も、外交的妥協とそれによる経済的安定や平和より、
宗教的な威信の獲得と異教徒の流血による勝利を求めたからである。
イスラムの対フランクとの闘いの旗印は、当初神でもコーランでも無かったが、
この頃には、フランクの聖都奪還に対抗して目覚めたかのように、
宗教による対立と抗争の色が濃くなっていた。
だが、押さえておくべきは、フランクにも、
宗教心だけによるのではない侵略と略奪の意志があったことである。
1204年のヴェネツィアの十字軍の矛先は、
ビザンチンはコンスタンティノープルであった。
今もサン・マルコ寺院の宝とされるブロンズの馬や聖母のイコンは、
このときの戦利品である。
ビザンチン・東ローマ帝国はキリスト教国である。
そもそも十字軍の発端は、ビザンチンの要請にあったのである。
そのビザンチン帝国攻略を、ヴェネツィアは十字軍参戦の条件とし、
略奪を果たした。
宗教的な衣の下にある領土・利権争いの内実は、
信仰心篤い人々の意識の表層には登らずとも、
政治という現実を動かしていく首長の立場であれば、
フランクであれイスラムであれ、見ていたということだろう。
では十字軍は、フランクとイスラム双方に何をもたらしたのか。
興味深い考察が、終章でなされている。
イスラムは、ギリシャ・ローマの遺産をアラビア語翻訳で保持し、学んでいた。
当時の文化・科学・技術は、西より東がはるかに高かった。
この「文化の移転」が、十字軍によって、今度は東から西にもたらされた。
やがてフランクの中世は終わり、ルネッサンスを迎え、
芸術や科学技術、思想や法律、政治制度が発達していく。
だが、約二世紀にわたる西からの侵略に勝利したイスラムに、
同様の発達は起こらなかった。何故か。
これはずっと私の素朴な疑問でもあった。
著者は、十字軍はフランクには飛躍をもたらし、
一方、アラブ・イスラム文明には停滞を与えたことの理由に、
それ以前から患っていたふたつの「疾患」をあげる。
まず、9世紀以来、イスラムの指導者たちのほとんどがアラブ人ではなく、
外からやってきた外国人、即ちトルコ人であったり、
アルメニア人であったり、サラディンのようにクルド人であったこと。
これにより、イスラムの文化的な発展が阻害されてしまった、という。
二つ目は、「安定した法制を組み立てることが出来なかった」こと。
この本を読んでいて、これは千年前ではなく今の話しではないのか、
と思うことが多かった。
これは、1103年の、暗殺教団というシーア派秘密結社の話だ。
敵を暗殺によって倒すことを教義とするこの教団は、
ただ殺すだけではなく、大衆の面前で殺す。その目的は、
デモンストレーションにより人々に恐怖を植え付けて支配すること、
及び、実行者を、逃げ延びさせることではなく、
暗殺直後の殉教に導くことである。
— 大きな争いの後、イスラムはまたもやいくつもの領国に分かれ、
聖都エルサレムは異教徒の領土となっている。
シリアやイラクでは宗派や民族が対立し、争っている。
「フランク」もやはり自分たちの「領土」の保守拡張のため、
自国の有利になる側を支援している。
ある地域では「領主」を倒そうとしている「暗殺教団」を、
別の地域では「暗殺教団」の反乱を押さえきれない「領主」のほうを — 。
これは21世紀初頭現在の争いの図である。
なんと千年前の図に、ぴたりと重なることか。
今の「フランク」では「聖都奪還」と「領土」が、
「民主主義の擁立」と「資本主義経済」に名前を変えただけである。
著者はアラブ・イスラム世界の停滞と長く続く混乱の原因に、
外的な問題だけでなく内的な問題があることを指摘している。
それは単に、「遊牧的血統」のひと言で説明できる類のものではない。
「安定した法制を組み立てることが出来なかった」とするならば、それは何故か。
フリードリッヒ二世はメルフィ憲章を、ローマ法を学んで練り上げた。
ギリシャ・ローマの文献を翻訳し、学んでいたはずのイスラムは、
何故ギリシャやローマの政治・法制度を学ばなかったのか。
イスラムがあまりに完成された(法や政治制度を含む)宗教であったからか。
市民階層の発展を促す社会・経済システムの問題なのか。
強権が部族宗派を束ねるコミュニティーが、あまりに安定的であったからか。
あるいはもっと異なる、何らかの要素作用によるのか。
「一刀両断」に裁くような答えは、
この本が書かれてから30年を経た今も、まだ出ていないように思う。
私の素朴な疑問は、あいかわらず疑問のままである。
イスラムの内的な問題を指摘しながらも、著者は最後に、
こう書かずにはいられない。
これはトラウマともいうべきものだが、
このトラウマはおそらく、オスマントルコの崩壊後、
「フランク」が両世界大戦を経てアラブ社会を分割統治したこと、
だましうちのようにイスラエル建国に手をかし、
西欧社会がこれを認めたことによって、よみがえった。
あるいはさらに傷を深めた。
その後も、「フランク」は傷を癒すどころか、
さらに広げてしまうようなことばかりを重ねてきた。
そのことの帰結としてだけではないにしても、残念ながら、
今現在のアラブ・イスラム世界は、この本が書かれた1983年よりずっと、
十字軍の時代に近いように見える。
1096年7月: ニカイアの壁の下は暑い。イチジクの木陰、花畑で、不穏なニュースが流れた。騎士、歩兵だけでなく女性や子供も含む部隊がコンスタンティノープルに進軍している。背中に十字架の形をした布を縫い付けている。彼らはイスラム教徒を殲滅するためにエルサレムまで来ており、数千人規模で押し寄せている。それが「フランジ(フランク)」だ。彼らは二世紀にわたって聖地に留まり、神の名において略奪と虐殺を行うことになる。イスラム世界の中心部への西側諸国によるこの野蛮な侵入は、長い退廃と隠蔽主義の時代の始まりを示している。イスラムの国では今日でもそれは一種の強姦(レイプ)のように感じられている。
2024年8月9日(金)
西のほうから 理解不能な人たちが 襲ってきた
今週の書物/
『Les Croisades vues par les Arabes』
Amin Maalouf 著、
éditions Jean-Claude Lattès (1983), J Ai Lu Editions (1999/2023)
『アラブが見た十字軍』
アミン・マアルーフ著、牟田口義郎・新川雅子訳
リブロポート、1986年刊/ちくま学芸文庫、2001年刊
何のせいか、最近「西欧の視点が世界を覆っている」と感じることが多くなってきた。アメリカを含めた西ヨーロッパの視点が正しいとされ、それ以外の視点は正しくないとされる。私たちはそんな世界に生きているのではないか。少なくとも日本は、そんな場所になってしまったのではないか。
世界は広い。だから西欧の視点を否定する人たちは多い。中国やロシアの人たちはもちろん、東欧や中東の人たちのなかには、西欧に対する複雑な感情があるように思う。それは否定する気持ちであり、憧れでもある。
感情が複雑になれば、西欧の視点への対処の仕方も複雑になる。デモクラシーというやり方に賛成しながら 内心はそれがいいものとは思っていなかったり、人権という価値が普遍的だと言っていても 内心ではそうは思っていなかったりする。
アフリカや東南アジア・南アジアの国々の指導者たちの多くは(そして富裕層の人たちの多くは)アメリカ・西ヨーロッパの教育を受けていて、西欧の視点を否定する気持ちはあまりないかもしれない。でも、そういう国々の民衆のほとんどは否定の気持ちを持っている。
日本ではあたりまえのようにウクライナを支援する空気が社会を覆っているが、そんな空気があたりまえでない場所は多い。西欧の視点を否定する人たちには、それなりの論理がある。
非西欧側の視点を持つ人の数は、地球上で間違いなく多数派を占めている。その人たちの論理を軽んじていると、いつか大きなしっぺ返しにあうのではないか。そういう問題意識を持ってインターネットに接してみると、驚くほど多くの非西欧側の視点で書かれたウェブページが出てくる。
読んでみると、書いてあることの切実さに打たれる。私たちがあたりまえと思ってきた西欧の視点のおかしさや さまざまな不条理に気づくのだ。
そう、今週は、そんな非西欧側の視点で書かれた代表的なエッセイを味わう。『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ著、牟田口義郎・新川雅子訳、リブロポート (1986年刊)/ちくま学芸文庫 (2001年刊))だ。『Les Croisades vues par les Arabes』(Amin Maalouf著、éditions Jean-Claude Lattès (1983) / J Ai Lu Editions (1999/2023))の日本語訳で、翻訳作業を想像するだけで訳者たちには頭が下がる。
この本を読み始めたのは はじめてではないが、最後まで読んだのは はじめてで、おかげで「終章 アラブのコンプレックス」のなかの「十字軍が残した傷跡」で素晴らしい文章に出会うことができた。
という一節だ。日本語訳は、
というものなのだが、この一節が この本の結論だと言えなくもない。西洋が絶え間ない侵略のあとムスリムは見事に立ち直って、オスマントルコの旗のもと、ヨーロッパの征服に出かけるまでになる。だがそれは、うわべにすぎなかったと アミン マアルーフ は書く。
なぜこんな結論めいたことを先に書くのかというと、読み進むうちに混乱していったからだ。渇き、飢え、大軍、同盟、合戦、勝利、惨敗、攻撃、襲撃、突撃、守備、防衛、自衛、死守、内紛、陥落、出陣、奮戦、抵抗、寛容、残虐、惨劇、復讐、圧勝、捕縛、奇襲、夜襲、戦死、陰謀、暗殺、処刑、略奪、攻略、滅亡、壊滅、消滅、公正、完全、待伏せ、裏切り、人殺し、人殺し、人殺し。くらくらしてくる。
「ひとつひとつの戦闘に勝つということと 長いあいだの争いに勝つということとは、あまり関連ないんじゃないか」「社会が活性化するか 衰退するかも、戦いにはあまり関係ないのではないか」というような疑問は、読んでいるうちに消えるどころか、膨らみ続けた。
フランクに狙われたのはエルサレムだけではない。普通の街が狙われる。狙われた街の人たちには、なぜ襲われるのかがわからない。襲う側には異教徒の殲滅というという理由があるのだが、襲われる側にはそんな理由は想像もつかない。
フランクがやって来るまでは、侵略には領土拡張という明確な理由があった。侵略する側にも 侵略される側にも、民間人をむやみに殺さないとか、抵抗しない者に暴力をふるわないといった暗黙の了解があった。そんな暗黙の了解など持たないフランクの侵略は、災害でしかなかった。
正義という言葉があるが、そんな言葉はフランクを前にしたとき、ただただむなしい。読んでいて、すっきりしないのだ。
「国が細分化され、互いに争っている」という状態ほど、読者をいらいらさせるものはない。隣国を助けるとか、協同してことにあたるとかいう発想が、誰にもないのだ。「隣国が弱くなることは、いいことだ」と みんなが思っているところに攻め入るのは、そう難しいことではない。
フランクという災害は、繰り返しやってくる。忘れたときに再びやって来るというのは、自然災害に似ている。防ぎようがないというところも、自然災害のようだ。
災害に遭った記憶が地域全体に共有されると、フランクを過大評価して恐れたり、必要以上に用心深くふるまうようになる。侵略が 100年・200年と続いたとき、地域の人たちの記憶がどのようなものになっていったのか、地域の人たちにどんな影響を与えたのか、そんなことを考えていると、この本一冊ではなにも見えてこないように思えてくる。
人権や民主主義などといった理想が戦争の正当な理由として認められるならば、十字軍のようなものまでが正当化されてしまう。理想のための戦争は十字軍的なものとして否定されるべきだと思い知らされる。そんなふうに、読んでいるときに自然といまのことに思いが飛ぶ。
フランクの侵略がなければ、いまの シリア、レバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルといった国々の混乱はなかっただろう。そう考えるとき、フランクの侵略を災害に例えるのは、どこか違っていると感じる。
侵略した側の責任とともに、侵略された側の責任も大きいと気づいた。そんな読書だった。侵略された側のメンタリティーは、どこかいまの若い日本人のメンタリティーに通じるものがある。日本はいったい何に侵略されたのだろう。
Pingback: めぐりあう書物たちもどき | kushima.org
Women want peace
Desire happiness
Men interest war
Desire winning
I prefer ideal of Science Cafe
Topical Cafe
a great place for people to exchange ideals freely
without fear of being laugh at.
a place for people to explore and learn from others at interests of their choice.
a place to talk minds out loud, frustration out loud , stupidity out loud and laugh out loud till the feel of stomach pain.
What a splendid blissful idea!
a place to establish relationships from same hobbies, same interests,
a place to expanding awareness and horizon of your choice. a place to open your curiosity mind even wider and extend beyond.
a place to feel inspired by people sit next to you and people just like you.
a place to relax, to listen,think,talk and to meet, make friends last lifelong.
Pingback: めぐりあう書物たちもどき | kushima.org