If you are ever tempted to look for outside approval, realize that you have compromised your integrity. If you need a witness, be your own.
誰かに認められたいと思った時には、自分に妥協しているということに気づいてください。誰かに見てほしいと思ったら、自分に見てもらえばいいのです。
If you are ever tempted to look for outside approval, realize that you have compromised your integrity. If you need a witness, be your own.
誰かに認められたいと思った時には、自分に妥協しているということに気づいてください。誰かに見てほしいと思ったら、自分に見てもらえばいいのです。
エピクテトス
ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/エピクテトス
エピクテトス(Επίκτητος, Epiktētos、50年ごろ – 135年ごろ)は、古代ギリシアのストア派の哲学者。その『語録』と『提要』は、すべてのストア哲学のテキストの中でおそらくもっとも広く読まれ、影響力の大きなものであるといわれる。苦難の中にあって平静を保つことや、人類の平等を説いたその教えは、皇帝マルクス・アウレリウスの思想にも引き継がれており、ストア主義の歴史上重要な意味を持つとみなされている。
エピクテトスは西暦50年ごろにフリギアのヒエラポリスで生まれたと考えられている。母親は奴隷階級だったらしく、自身も奴隷としてローマ帝国の皇帝ネロの解放奴隷であるエパプロディートス(英語版)に売られた。ローマでの彼の生活は不健康だったという。有名なストア哲学者ムソニウス・ルーフスの下で哲学を学ぶことをエパプロディートスに許され、ストア哲学を学んだ後、エパプロディートスによって奴隷から解放された。自由人となったエピクテトスは哲学の教師となったが、89年に皇帝ドミティアヌスが出した哲学者のイタリアからの追放令のためにローマを離れ、ギリシア東部のエピルスの大都市ニコポリスに落ち着いて哲学の学校を開いた。これはきわめて有名になり、皇帝ハドリアヌスも訪問したほどであった。エピクテトスは短い旅行を除き135年ごろに死ぬまでニコポリスに住んだと考えられている。
後年エピクテトスは片足の自由がきかず、そのことが何度か『語録』で触れられている。これはエパプロディートスによる残酷な虐待の結果といわれることがあるが、片足の自由がきかなくなった理由については『語録』で述べられておらず、はっきりしたことはわかっていない。高齢のためという推測もある。
エピクテトス自身は著作を残さなかったが、(後にアレクサンドロス3世の伝記などを著した)アッリアノスが若い頃エピクテトスの下で学んだとき、エピクテトスが話すのを「できるだけそのままの言葉で」書き留めたものが『語録』として広まった。また、アッリアノスは『語録』から要点をまとめたものも残しており、それは『提要(エンケイリディオン)』と呼ばれている。
他人の顔色を気にしすぎる人が、自分に言い聞かせたいたった一つの言葉
by 荻野弘之
https://diamond.jp/articles/-/215343
過剰な承認欲求が、我々を奴隷に仕立てあげる
今回は、エピクテトスの以下の言葉を取り上げて解説したい。
だからどんな場合でも、君が現に哲学者であるという事実で満足せよ。だが哲学者だと思われたいということまで望むなら、自分自身にそう思われるだけでよい。それで十分である。
誰だって、自分が好きな相手や友人、尊敬する人物に気に入られたいという願いをひそかに抱いているものだ。化粧や服装でも、まずは「恥ずかしくないように」という身だしなみや礼儀から始まるが、さらに積極的に自分を美しく、かっこよく見せようと装い飾り立てるのも、すべて他人の視線を意識してのことである。
一方で、人を愛することは自分次第だが、人から愛されるのはそうはいかない。相思相愛なら申し分ないが、自分がいくら好きだからといって相手から同じように好かれるとは限らない。
いろいろな場面で生じる、愛されたい、好かれたい、気に入られたい、という願いは総じて「承認の欲求」とでも言えようか。これは確かにごく自然な人間の欲求ではあるが、その願いが叶えられない時、人は悲しんだり、諦めたり、挫折を味わいながら、嫌でも人生の冷厳な現実を思い知らされるのである。
そして、この欲求が強すぎるといささか問題が生じてくる。何としてでも気に入られたいと願う瞬間、人は奴隷になる。いつの間にか自分の行動原理を他者に握られてしまう。目上の人に対して礼儀正しいのはよいけれど、会社の上司や学校の先生、有力者や権力者に対して、必要以上に卑屈になる人やへつらう人がいる。
いつでも他人の顔色をうかがいながら振る舞う生活は、奴隷の最大の特徴である。自分の感情や好悪を隠し、ひたすら主人の機嫌に応じて右往左往することになるから、どうしても面従腹背、二重人格、機会主義者、風見鶏……要するに個性を押し殺した「特性のない人」になってしまう。
そういう意味では、奴隷制は何も古代世界にあった過去の遺物だとは言い切れない。現代社会のいたるところに奴隷制はなお生きている。
「自分自身にそう思われればよい」と言い聞かせる
奴隷の両親から生まれたエピクテトスは、当然のことながら若い時期は奴隷として暮らしていた。だから年季明けで主人から解放されてからは、何よりも「真に自由な生き方」を自覚的に追究したのかもしれない。
だからこそエピクテトスは、他人からではなく「自分自身にそう思われればよい」と説いた。他人からの評判を気にするあまり自分を見失うことなく、真に自由でいられるようになれと言っているのだ。
仕事においてもプライベートにおいても、他者から誤解され、実態と評判とが食い違う合もあるだろう。だが、あえてそうした誤解や過小評価に甘んじて、他人に「そう見てもらいたい」という欲望に身を委ねないことが大切である。まさにその点にこそ、エピクテトスの言う「哲学者」の本領がある。