平等を構成する二つの要素である、フェアとイーブンの違いを説明してみたい。
フェアとは機会の平等である。全ての人に等しく挑戦の機会を与える意味での平等だ。フェアにおいては結果の平等は保障しない。各人が自分の力で挑戦し、成功を享受する権利と失敗に終わった際の責任を負う。フェアは、個人の能力とそれによって成功を勝ち得る可能性に依拠して成立する。フェアに典型的な発想にはハンディキャップ制が挙げられる。例えば将棋なら、実力が優位な人は自分の強力な持ち駒を抜いてから勝負する。これは実力の異なる人同士でも挑戦の機会を保障する仕組みなのだ。
イーブンとは結果の平等をさす。イーブンは全ての人が等しくなにかを持てることを目指す。イーブンにおいては、極端に言えば機会の平等から生じる結果への権利と責任を認めない。つまり個人の成果は山分けであり、失敗した場合には助けの手が差し伸べられる。イーブンに典型的な発想としては、セーフティネットがある。各種の保険制度がその例である。たとえば火災保険加入者は平等に保険のための基金を拠出する。加入者宅が万が一火災に見舞われた場合には、集められた基金からその損失に見合った額が提供される。
Hatena::Diary
Catch the cow
平等の2つの意味 フェアとイーブン
http://d.hatena.ne.jp/gunzyou/20070709/p2
平等という言葉は長らく曖昧な言葉だと思ってきた。例えば男女は平等であるべきだ。とか。どのような平等??と聞き返したくなる。平等の定義は人によってまちまちなのだ。だから平等を理由にした政策として、一方で「男女は平等なのだから男女別の公衆トイレは廃止」などといったナンセンスも生まれ、他方では「男女は平等なのだから働く機会は均等に与えられるべきである」という当たり前のようでいて大事な政策も実施される。どちらも平等を理由にしているのだが、男女別トイレ廃止論の方をナンセンスに感じる理由は、平等をフェアとイーブンに分けて定義しないことにあると思う。
そんなことにワタミ社長の記事を読んでいて気づいた。平等を構成する二つの要素である、フェアとイーブンの違いを説明してみたい。
フェアとは機会の平等である。全ての人に等しく挑戦の機会を与える意味での平等だ。フェアにおいては結果の平等は保障しない。各人が自分の力で挑戦し、成功を享受する権利と失敗に終わった際の責任を負う。フェアは、個人の能力とそれによって成功を勝ち得る可能性に依拠して成立する。
フェアに典型的な発想にはハンディキャップ制が挙げられる。例えば将棋なら、実力が優位な人は自分の強力な持ち駒を抜いてから勝負する。これは実力の異なる人同士でも挑戦の機会を保障する仕組みなのだ。しかしもちろん勝負だから結果の平等は保障していない。
イーブンとは結果の平等をさす。イーブンは全ての人が等しくなにかを持てることを目指す。イーブンにおいては、極端に言えば機会の平等から生じる結果への権利と責任を認めない。つまり個人の成果は山分けであり、失敗した場合には助けの手が差し伸べられる。イーブンに典型的な発想としては、セーフティネットがある。各種の保険制度がその例である。たとえば火災保険加入者は平等に保険のための基金を拠出する。加入者宅が万が一火災に見舞われた場合には、集められた基金からその損失に見合った額が提供される。
平等を純粋なフェアとイーブンに分解すると以上のようになると思う。実際はひとつの制度の中にフェアとイーブンは混在していて、きれいに割り切れるものでもない。それでもこうして分けて考えると平等に関する意見の食い違いは減るのではないだろうか。
ちなみに冒頭で登場した「男女は平等なのだから男女別の公衆トイレは廃止」がナンセンスなのは、フェアの概念を適用すべきところに、イーブンの概念を適用したからである。
男女は生理的な構造が違うから用を足す時間も頻度も違う。また文化的には化粧をするか否かや、異性と一緒に用を足すことは恥ずかしいと思う状況がある。それらはイーブン(同一)にすべきことではないし、できないだろう。それらは男女間での異なった特徴として尊重してフェアに扱うべきなのだ。
もし、フェアの発想で公衆トイレを設計するなら、文化面での性差を考慮して男女別はもちろんである。加えて女子トイレの面積を男子トイレより相対的に広くとり女子トイレの便座を増やすといい。そうすれば、用を足す時間が相対的に長く、かつ頻繁にトイレに行く必要がある女性にフェアだろう。特に混雑するイベント会場や高速道路のインターチェンジなどでは有効だと思う。
あるいはイーブンの発想を公衆トイレに取り入れるとしたら、男女共に起こりうる緊急の排泄欲求を満たすために、男女共用のトイレを男女別トイレの脇にいくつか併設するといいだろう。まさにセーフティネットである。