Henri Bergson, アンリ・ベルクソン

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Essai sur les données immédiates de la conscience Time and Free Will 時間と自由

One thought on “Henri Bergson, アンリ・ベルクソン

  1. shinichi Post author

    題名からしてこれだけ違うのだから、なかみが違うのはあたりまえ。

    “Essai sur les données immédiates de la conscience” は、ビール友達のベルナールが喋っている感じ。そうだ、そうだ、と思っているうちに読み終わる。

    “Time and Free Will” は、学校の先生が講義しているみたい。はい、はい、わかりました。で、試験に出るのは、どのページですか?と聞きたくなる。。

    「時間と自由は」は、とにかく難しい。「意識の諸状態に安定した名前を、それらの不安定さにもかかわらず、与えることができ、また個々別々の名前を、それらの相互浸透にもかかわらず、与えることができるから」「意識状態を客観化し、それらを言わば社会生活の流れの中に参入させることができる」。。。ふざけるな、だ。

    日本では、そこから先がすごい。「小林秀雄のベルグソン」とか、「稲垣足穂のベルグソン」、「柄谷行人のベルグソン」、「福田和也のベルグソン」。。。数限りないベルグソンがあって、そこではほとんどの場合、ベルグソンとは関係のない不思議な世界が構成されている。

    ただただ知らないことを知ろう、わからないことをわかろうと、考え続けた人の文章が、こむずかしい訳のわからない文章に変えられ、理屈が理屈を呼び、ベルグソンが忘れられるなかでベルグソンが語られる。

    私の大好きな 『松岡正剛の千夜千冊』 の 『思構篇 1212夜』 の 『アンリ・ベルクソン 時間と自由』 http://1000ya.isis.ne.jp/1212.html は次のように始まる。

    物質は記憶か。時間は持続か。
    自由は、エラン・ヴイタールか。
    あえて形而上学に挑み続けたベルクソンを
    いま、どう読むか。
    ぼくをかつて揺動させたフランスの「生の哲人」は、
    なお何を、語り告げようとしているのか。
    それはまた、あの稲垣足穂の「機械学」の香りと、
    どんなふうに交信していたのか。

    あの、言ってはいけないのでしょうが、ベルグソンは稲垣足穂の「機械学」の香りと交信したりはしないと思います。

    日本の「ベルグソン」を否定する気はまったくないけれど、日本で「ベルグソン」を語る人たちとベルグソンの話をしようとは思わない。いずれにしても、私には難しくてわからないのだけれど。

    ベルグソンが書いたことって、もっともっといいものだっていうことは、日本の読書家には永遠にわからないだろう。明治時代からの教養主義の犠牲者が増え続け、日本の文化は衰退していく。そりゃあそうだ。こんな難しい文章、興味を持てと言われても、それはやっぱり無理でしょう。

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