Henri Bergson, アンリ・ベルクソン 1 Reply Essai sur les données immédiates de la conscience Time and Free Will 時間と自由
shinichi Post author14/03/2013 at 2:44 pm 題名からしてこれだけ違うのだから、なかみが違うのはあたりまえ。 “Essai sur les données immédiates de la conscience” は、ビール友達のベルナールが喋っている感じ。そうだ、そうだ、と思っているうちに読み終わる。 “Time and Free Will” は、学校の先生が講義しているみたい。はい、はい、わかりました。で、試験に出るのは、どのページですか?と聞きたくなる。。 「時間と自由は」は、とにかく難しい。「意識の諸状態に安定した名前を、それらの不安定さにもかかわらず、与えることができ、また個々別々の名前を、それらの相互浸透にもかかわらず、与えることができるから」「意識状態を客観化し、それらを言わば社会生活の流れの中に参入させることができる」。。。ふざけるな、だ。 日本では、そこから先がすごい。「小林秀雄のベルグソン」とか、「稲垣足穂のベルグソン」、「柄谷行人のベルグソン」、「福田和也のベルグソン」。。。数限りないベルグソンがあって、そこではほとんどの場合、ベルグソンとは関係のない不思議な世界が構成されている。 ただただ知らないことを知ろう、わからないことをわかろうと、考え続けた人の文章が、こむずかしい訳のわからない文章に変えられ、理屈が理屈を呼び、ベルグソンが忘れられるなかでベルグソンが語られる。 私の大好きな 『松岡正剛の千夜千冊』 の 『思構篇 1212夜』 の 『アンリ・ベルクソン 時間と自由』 http://1000ya.isis.ne.jp/1212.html は次のように始まる。 物質は記憶か。時間は持続か。 自由は、エラン・ヴイタールか。 あえて形而上学に挑み続けたベルクソンを いま、どう読むか。 ぼくをかつて揺動させたフランスの「生の哲人」は、 なお何を、語り告げようとしているのか。 それはまた、あの稲垣足穂の「機械学」の香りと、 どんなふうに交信していたのか。 あの、言ってはいけないのでしょうが、ベルグソンは稲垣足穂の「機械学」の香りと交信したりはしないと思います。 日本の「ベルグソン」を否定する気はまったくないけれど、日本で「ベルグソン」を語る人たちとベルグソンの話をしようとは思わない。いずれにしても、私には難しくてわからないのだけれど。 ベルグソンが書いたことって、もっともっといいものだっていうことは、日本の読書家には永遠にわからないだろう。明治時代からの教養主義の犠牲者が増え続け、日本の文化は衰退していく。そりゃあそうだ。こんな難しい文章、興味を持てと言われても、それはやっぱり無理でしょう。 Reply ↓
題名からしてこれだけ違うのだから、なかみが違うのはあたりまえ。
“Essai sur les données immédiates de la conscience” は、ビール友達のベルナールが喋っている感じ。そうだ、そうだ、と思っているうちに読み終わる。
“Time and Free Will” は、学校の先生が講義しているみたい。はい、はい、わかりました。で、試験に出るのは、どのページですか?と聞きたくなる。。
「時間と自由は」は、とにかく難しい。「意識の諸状態に安定した名前を、それらの不安定さにもかかわらず、与えることができ、また個々別々の名前を、それらの相互浸透にもかかわらず、与えることができるから」「意識状態を客観化し、それらを言わば社会生活の流れの中に参入させることができる」。。。ふざけるな、だ。
日本では、そこから先がすごい。「小林秀雄のベルグソン」とか、「稲垣足穂のベルグソン」、「柄谷行人のベルグソン」、「福田和也のベルグソン」。。。数限りないベルグソンがあって、そこではほとんどの場合、ベルグソンとは関係のない不思議な世界が構成されている。
ただただ知らないことを知ろう、わからないことをわかろうと、考え続けた人の文章が、こむずかしい訳のわからない文章に変えられ、理屈が理屈を呼び、ベルグソンが忘れられるなかでベルグソンが語られる。
私の大好きな 『松岡正剛の千夜千冊』 の 『思構篇 1212夜』 の 『アンリ・ベルクソン 時間と自由』 http://1000ya.isis.ne.jp/1212.html は次のように始まる。
物質は記憶か。時間は持続か。
自由は、エラン・ヴイタールか。
あえて形而上学に挑み続けたベルクソンを
いま、どう読むか。
ぼくをかつて揺動させたフランスの「生の哲人」は、
なお何を、語り告げようとしているのか。
それはまた、あの稲垣足穂の「機械学」の香りと、
どんなふうに交信していたのか。
あの、言ってはいけないのでしょうが、ベルグソンは稲垣足穂の「機械学」の香りと交信したりはしないと思います。
日本の「ベルグソン」を否定する気はまったくないけれど、日本で「ベルグソン」を語る人たちとベルグソンの話をしようとは思わない。いずれにしても、私には難しくてわからないのだけれど。
ベルグソンが書いたことって、もっともっといいものだっていうことは、日本の読書家には永遠にわからないだろう。明治時代からの教養主義の犠牲者が増え続け、日本の文化は衰退していく。そりゃあそうだ。こんな難しい文章、興味を持てと言われても、それはやっぱり無理でしょう。