吉野輝雄

昭和62年に当時の建設省に山崎川が「ふるさとの川モデル河川」に指定された。それを受け、中流域の護岸の修理・橋のかけなおしとともに、住民と山崎川の距離を縮めるために川と川全体が整備しなおされている。鯉を放流し、川の片方の道を遊歩道にし、公園の前に階段を設け川に降りられるようにした。これらの工事のために、桜の木を切り工事が終わるとそこに若い木を植えている。護岸の表面をコンクリートから岩にかえ一般的な都市河川よりも自然の川らしく化粧直しした。しかしながら、このような変身は自然のようにみえて全く自然から程遠いものになっていることを意味している。人間が計画してそのとおりになることを義務づけられた川は本当に自然の川になれるだろうか。

2 thoughts on “吉野輝雄

  1. shinichi Post author

    私は、5歳のときから東京の大学に行くまで名古屋市内の同じところにずっと住んでいて、最寄りの駅ならぬ最寄りの川は「山崎川」であった。山崎川とは、いくつかの水源はあるが主に名古屋市北東部千種区猫が洞池から南に昭和区・瑞穂区・南区・港区にぬけ名古屋港にそそいでいる全長13.6km 流域面積26平方kmの2級河川である。自分の生活と最も関わりがあったところはこの川の中流部である。上流部は細く浅く部分によっては両岸と底面はコンクリートに覆われており、また一部は道路の下を流れるようになっている。中流部は、上流部より深く底面はコンクリートではなく両岸のコンクリートの堤防の上には桜並木が整備され一部階段で堤防下まで降りられるところがある。日本の桜100選にも選ばれている。河口部は、港湾地帯であり太く水深は目に見えるより深く川というよりは港の一部ともいえる。上流部・中流部・河口部総じていえることは流れがないということである。一般的な都市河川である。

    数十年前に青春時代をこの川の周辺で迎えていた父・伯父そしてその親である祖父の三人に山崎川の思い出を聞いてみたが、総じて印象が薄い。少なくとも、山崎川は家族の農業や漁業などの生活の糧にはなってはおらず、また魚やつくしを取るなど川は子どもの遊び場の一つではあったけれども必ずしも水と触れ合うのに川である必要はなかった。市営のプールができたのは父や伯父が少年時代をおくっていたころであった。上下水道が整備されプールが開設されることにより、この地域の人間の生活と山崎川の距離は遠くなっていった。その山崎川と人間の関係は今も変わっていない。今のほうが山崎川との距離は遠くなったかもしれない。父の時代よりも護岸が進み山崎川に子どもが遊ぶものがなくなった。私も川の前を通り過ぎることはしばしあるが、山崎川に何か目的で行くことは滅多になく、行くにしても4月の花見のときだけである。私に山崎川で遊んだ記憶は皆無である。父の世代にとっても私の世代にとっても日常生活の「水」とは自然の川ではなく上下水道という人間によって管理された「水」のことである。

    人間が山崎川と流れている水を管理しようと試みはじめたのは、父の時代ではない。父の時代よりはるか昔、祖父が生まれたころ大正13年であった。当時、名古屋港は世界と繋がる港としての需要が増しており、最も使用されていた国内輸送であった鉄道と接続し国内と海外の迅速な物流を必要とされていた。港から離れたところになる駅と接続する運河としては堀川があったが、名古屋港に輸入されたものや名古屋港から輸出されるものを載せた船の行き来が激しく渋滞状態であった。この渋滞を緩和するために新堀川が掘られたが解決せず、大正13年新たに四つの運河の開削が都市計画事業運河網計画に決められた。その中の一つに山崎川運河があった。しかしこの計画は、中川運河開削だけで渋滞が緩和され陸上輸送が鉄道から自動車に移ることで立ち消えとなる。人間が効率よく川を使うために山崎川を管理する試みはここについえた。

    その後の山崎川は、人間が積極的に利益を得るための管理ではなく人間に害をもたらせないように管理する時代を迎える。コンクリートで固め人間の開発の邪魔になれば川を地下に埋めてしまうような管理である。川が特段有益なものとみなされない中で起こったのは山崎川の汚染であった。そもそも山崎川があまり流れのない川であり、排水に含まれる化学物質の量が増えたにもかかわらず対策が追いつかなかったために汚染は進んだ。自分が通っていた高校は山崎川の一つの源流である鏡池の前にある。高校時代、手伝いで技術室の本棚の本の移動をしていたときに偶然本に挟まっていた一枚の紙に出くわした。手書きをコピーした紙には、池の向かいにある大学の廃液垂れ流し問題について書かれていた。高校時代には校内の一部では、鏡池の水質調査のために魚や亀・アヒルをはなっているのだといううわさもあった。大学の環境衛生管理室のウェブページによると昭和40年ごろから問題となり昭和50年代に廃液処理施設ができ学内で処理されるようになったという。しかし、昭和55年に鏡池を埋め立て池の面積を小さくしたことや施設で処理できるようになったことで汚染の規模がおさまり排水処理施設代替施設として名古屋市の認定を受け平成11年まで大学からの廃液の排水は続いた。現在も学内の雨水が排出されているため、phと化学的酸素要求量の測定を行っている。名古屋都市センターのウェブページによると山崎川全体の汚染のピークは昭和40年代であり、昭和43年の山崎川中下流域の道徳橋付近の汚染はウェブページ上で比較されている四つの川の地点のなかで二番目に汚染がひどかった(生物化学的酸素要求量50mg/l)。40年代後半以降対策が進んだからか状態は改善にいたっている(現在は生物化学的酸素要求量10mg/lを下回る)。かつてはドブ川であり今も決して清流とはいえないが、人々の記憶からは今以上の汚染があったことは忘れ去られている気がする。社会化の教科書に載っているような公害は決してどこか遠くで起きていたのではなく身近な川でも起こっていたのだということを改めて自覚した。しかしながら、川自身が私たちの生活に身近ではない。

    そして現在、山崎川はこれまでにない姿を見せようとしている。昭和62年に当時の建設省に山崎川が「ふるさとの川モデル河川」に指定された。それを受け、中流域の護岸の修理・橋のかけなおしとともに、住民と山崎川の距離を縮めるために川と川全体が整備しなおされている。鯉を放流し、川の片方の道を遊歩道にし、公園の前に階段を設け川に降りられるようにした。これらの工事のために、桜の木を切り工事が終わるとそこに若い木を植えている。護岸の表面をコンクリートから岩にかえ一般的な都市河川よりも自然の川らしく化粧直しした。しかしながら、このような変身は自然のようにみえて全く自然から程遠いものになっていることを意味している。人間が計画してそのとおりになることを義務づけられた川は本当に自然の川になれるだろうか。そのような変身は動物園か水族館の演出と同じではないだろうか。愛知万博で注目されたのは里山であったが、里山は人間が山の維持を目的に手を入れることではなく人間の生活の為に手をいれることで山が雑木林にならずに維持される。つまり、人間はこの山を共同利用する生物の一つに過ぎず、人間が総合管理者になるのではなく人間が里山を節度を持って利用することだけが管理であった。人間の川への態度は、支配しようとしているようにも見える。はじめ労働者として酷使しようとし、労働者としての価値を失うと非可触民として放置し、しかし自由になったわけではなく人間のエゴを押し付けられ、その返り血を自ら浴びそうになると「自然らしい」川のあり方を押し付け川の姿だけでなく生態系にまで介入しすみなく管理支配しようとしている。本当に生きるのに必要なだけ川に関与すればよかった。人間が川を改革しようと大上段に構えるのではなく、他の生き物と同等な立場になろうとすればよかったのだ。もちろん、山崎川への政策は川を自然に戻すことではなく、住民と川を触れ合わせることである。触れ合わせるだけならば柵を取り払いコンクリートをどけ盛り土だけにしてたんぽぽでも生えるのを待てばいいのではないか。もちろん、だれでも水と触れ合えるようにスロープ等は建設する必要はあるかもしれないが。人間が川に関心を失ったのは人間だけによる単調な管理が原因だったのではないか。人間以外の他の生き物にも川を変化させる余地を与えなかったからではないだろうか。その川らしさ(川のアイデンティティ)は人間だけでないその川に関係する生き物が決めることができれば四季折々に全く姿を変える多様な川を見ることができるようになるだろう。そして、人間は川に戻り、川に重大なダメージを与えない範囲で川に入り生活のためにものを取ったり遊んだりする。私は、そんな山崎川を見てみたい。

    Reply

Leave a Reply to shinichi Cancel reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *