紀貫之

kokinそれ、まくらことば、春の花にほひすくなくして、むなしき名のみ秋の夜のながきをかこてれば、かつは人のみみにおそり、かつはうたの心にはぢおもへど、たなびくくものたちゐ、なくしかのおきふしは、つらゆきらがこの世におなじくむまれて、このことの時にあへるをなむ、よろこびぬる。人まろなくなりにたれど、うたのこと、とどまれるかな。たとひ時うつり、ことさり、たのしび、かなしびゆきかふとも、このうたのもじあるをや。あをやぎのいとたえず、まつのはのちりうせずして、まさきのかづら、ながくつたはり、とりのあと、ひさしくとどまれらば、うたのさまをもしり、ことの心をえたらむ人は、おほぞらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも。

One thought on “紀貫之

  1. shinichi Post author

    古今和歌集 仮名序

    (貫之の歌論)

    http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanajo.html

    本居宣長『古今集遠鏡』の口語訳:
    むすび―和歌の未来
    さて我々どもが義は、よみ歌はおもしろいところもないのに、実でもない歌ばかり上手なやうに云ひはやされる事なれば、世間の人の聞くところもなんとあらうかと思はれ又一つには歌の思ふ心も恥かしけれども、拙者どもが此の世に同しやうに生れあはせて、かやうな仰せ付けられのある時節に逢うたことをさ、たつても居ても寝てもさめても悦びます。かの人麻呂はとう無くなつてしまうたけれども、歌の道はのこつてある。さてさて難有いことかな。これから後たとひ時代が段々かはつて、どのやうになりゆくと云ても、此の集が若し世間にたえうせずに末長う久しう伝はつてさへあつたならば、末代に至つて、歌のやうすをもよく知り、物を心得てあらう人は、此の集を、さてさて結構な集ぢやと云て、天な月を見るごとくに仰ぎたつとんで今此の御当代をしたはぬと云ふ事はあるまいわさて。

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