井上靖

堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこの霊峰館だった。
わしは土間に立ったまま、帳場で炬燵にあたっている中年輩の丸刈の主人に、これで一晩泊めてくれと言って五円紙幣を出した。代は明日戴くというのを無理に押しつけると、主人は不審な顔つきでわしを見詰めていたが、急に態度が慇懃になった。十五、六の女中が湯を持って来た。上り框に腰かけ、衣の裾をまくり上げて、盥の湯の中に赤くなって感覚を失っている足指を浸した時、初めて人心地がついた。そしてこの旅館では一番上等の、この座敷に通されたのだった。すでにとっぷりと暮れて燈火をいれなければならぬほどの時刻だった。
わしは一言も喋らず、お内儀の給仕で食事をすませると、床の間を柱にして坐禅った。わしはその時、明朝浮御堂の横手の切岸に身を沈めることを決心していた。石が水中に沈んで行くように、この五尺の躰が果して静かに沈んで行けるかどうか、わしは不安だった。わしは湖の底に横たわる自分の死体を何回も目に浮かべながら、一人の男の、取り分け偉大な死がそこにはあるように思った。

4 thoughts on “井上靖

  1. shinichi Post author

    レトリック感覚
    by 佐藤信夫

    第4章 提喩
    堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出にしたように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。

     坪内逍遥によると、提喩は森田思軒(文蔵)がシネクドックという言葉に充てた翻訳語らしい。またディマルセは提喩は換喩の一種であり、その区別は喩える対象と喩えられる対象が外部的に隣接している比喩を換喩と呼び、双方が含有・被含有関係にある比喩を提喩だと区別している。たとえば米を食料の象徴とすること、大岡越前を名裁判の代表とすることが提喩であるという。しかし隣接と含有の関係を明瞭に区別することは難しい。たとえば「レンズが記録した決定的瞬間」のレンズはカメラの一部分だといえば提喩となるだろうが、写真家のことならば換喩となる。つまり提喩と換喩の区別はできないという意見がでてくる。
     提喩について古典レトリックの大まかなまとめは次のようになる。提喩は平叙文としてなりたっている単語や言葉遣いに注目して、それらの上位区分(または下位区分)に属する言葉を遣う表現である。そしてこれらは換喩には還元することができない提喩独自の表現形式といえるだろう。たとえば井上靖『比良のシャクナゲ』のなかには「舞っていた白いもの」ということばが雪の提喩として表現されている。白は雪のひとつの特徴である。だが白いものならばすべて雪である保証はない。この「白いもの」が雪であることは文脈から暗に示されているものの、白いペンキ、白鳥、小麦粉であるかもしれない。提喩をつかうのは、雪といってしまうよりも「白いもの」という言葉が概念としては抽象的であるにもかかわらず、文脈のなかではより具体的で現実的な意味をもつことにある。白いものと表現することで雪であることとその特徴をすなおに表現し、読者にその情景を想像させる力をもつ。このように提喩を理論立てて説明すると複雑である。しかし提喩の力は言葉の意味を自在に膨張、収縮させ、読者に一瞬にして無自覚にその比喩を読み取らせてしまうはたらきにある。
     古典レトリックでは提喩と換喩がほぼ区別なく扱われてきた。しかし提喩はむしろ換喩と対立する比喩であり、隠喩に近いといえるのではないか。また提喩は比喩表現を上位区分にも下位区分にも移行することができるので、ほかの比喩に比べてより幅の広い表現が可能となる。限られた語彙からははみだしてしまう事柄を表現することが比喩の重要な働きであることを考えると、提喩はとくに重要な表現技法である。
     下位区分に概念での提喩のひとつが広く意味を共有するほどになった表現を換称(アントノマーズ)という。釈迦をブッダ(悟った人)、イエスをキリスト(救世主)、秀吉を太閤、味の素やセロテープなどの商品名がそのもの自体の名前として代用されることをいう。
     語の本来の意味を転じて臨時のあやどられた意味のことを転義(トロープ)という。古典レトリックでは直喩、隠喩、換喩、提喩のことを指していたが、即ち比喩のことである。比喩の分析は言語表現の巧拙や説得と美のための手段を研究してきた。だがそうした意図のほかに、同時進行で想像的な認識の型を探っていたのである。竹内芳郎はフロイトの精神分析理論の中での夢の意味作用の分析方法が古典レトリックの比喩=転義の分類と似ていることを指摘する。古典レトリックの研究は人間の想像力にどのような論理があるのかを研究してきたのを考えると、この類似性も理解できるだろう。

    佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社,1992)の紹介掲載
    by 高田一樹
    立命館大学大学院 先端総合学術研究科
    http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9200sn.htm#rhetoric03

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