shinichi Post author18/06/2013 at 1:50 pm レトリック感覚 by 佐藤信夫 第7章 緩叙法 「笑いごとじゃないぞ」とウィングが言った。「笑う気はないさ」、シェーンはライターの火をつけた。「もっとも、だからと言って泣きたいとは思わんがね。」 緩叙法はあることがらを積極的に肯定することによって、反対のことがらを強く否定する表現である。反対のことを取上げて読者の視点を移動させる。正反対からの表現を加えることで、あらためて対象に真実味を帯びさせるはたらきがある。たとえば「笑いごとじゃないぞ」という表現は「笑うな」ということの緩叙法である。その応答で「笑う気はないさ」「もっともだからと言って泣きたいとも思わんがね」ということばはさきほどの緩叙法にたいする遊びの緩叙法である。 また「・・・にちがいない」、「・・・以外のものではない」という二重否定の表現として緩叙法の慣用表現もある。たとえば「関係がある」ということがらを「・・・は無関係ではないかもしれない」と表現とどのような効果があるのだろうか。それはたんに関係の強調をするためではない。論理的な結論を表現するのではなく、結論へと向かう経過とそこにあるゆれる心情が写し出されているのである。簡単には結論が出ない、出せないという模索がことばによって現れているのである。 否定するということは極めて人間的で言語的な操作である。たとえばパントマイムなどのことばのない動作で否定を表現することはかなり難しいだろう。何かをしていいないことを表現するためにじっとしているだけでは不充分だからである。なぜならじっとしているという動作をしていることになる。つまり否定することとは事実を記号化して(言語化して)しか理解することはできないのではないか。たとえば「ピエールがいない」というとき、確かにその場にはピエールはいないが、それはピエールの存在を浮き上がらせている。ピエールの存在を否定するということは何も言わないことである。そしてその記号化(言語化)する過程の意味付けにおいて誤解の余地が生まれる。事実は人間が介入して記号化しない限りは常に肯定的なのではないだろうか。 「是れ小児の言にあらず」は「知者の言である」ということの緩叙法だというが本当だろうか。知者の対義語は小児ではなく、愚者ではないのか。対義語は多種多様な対立関係を見出せるので確定することは難しい。むしろ対義が可能なほど縁が深いので類義語だといってもよいかもしれない。わたしたちは標準的な対義語の型が安定的に制度化されているとおもっている。ときにはその安定の具合を辞書を参照してみるのもよいが、標準的な対義語関係のネットワークを疑ってみることはさらによいことだろう。 佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社,1992)の紹介掲載 by 高田一樹 立命館大学大学院 先端総合学術研究科 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9200sn.htm#rhetoric03 Reply ↓
shinichi Post author18/06/2013 at 2:12 pm 修辞法の分類 by 雨宮俊彦 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/word/Rhetor.html 3.伝達のひねり(語用論的レトリック) 3.2.弱く遠回しに言ってつたえる ○緩叙法(litotes) 「「笑いごとじゃあないぞ」とウィングが言った。「笑う気はないさ」、シェーンはライターの火をつけた、「もっとも、だからと言って泣きたいとも思わんがね。」」(ハリデイ「大急ぎの殺人」)、「ちょっと期待はずれでした」、「わたしは彼を評価しないわけではない」 Reply ↓
大いそぎの殺人
by ブレット・ハリデイ
レトリック感覚
by 佐藤信夫
第7章 緩叙法
「笑いごとじゃないぞ」とウィングが言った。「笑う気はないさ」、シェーンはライターの火をつけた。「もっとも、だからと言って泣きたいとは思わんがね。」
緩叙法はあることがらを積極的に肯定することによって、反対のことがらを強く否定する表現である。反対のことを取上げて読者の視点を移動させる。正反対からの表現を加えることで、あらためて対象に真実味を帯びさせるはたらきがある。たとえば「笑いごとじゃないぞ」という表現は「笑うな」ということの緩叙法である。その応答で「笑う気はないさ」「もっともだからと言って泣きたいとも思わんがね」ということばはさきほどの緩叙法にたいする遊びの緩叙法である。
また「・・・にちがいない」、「・・・以外のものではない」という二重否定の表現として緩叙法の慣用表現もある。たとえば「関係がある」ということがらを「・・・は無関係ではないかもしれない」と表現とどのような効果があるのだろうか。それはたんに関係の強調をするためではない。論理的な結論を表現するのではなく、結論へと向かう経過とそこにあるゆれる心情が写し出されているのである。簡単には結論が出ない、出せないという模索がことばによって現れているのである。
否定するということは極めて人間的で言語的な操作である。たとえばパントマイムなどのことばのない動作で否定を表現することはかなり難しいだろう。何かをしていいないことを表現するためにじっとしているだけでは不充分だからである。なぜならじっとしているという動作をしていることになる。つまり否定することとは事実を記号化して(言語化して)しか理解することはできないのではないか。たとえば「ピエールがいない」というとき、確かにその場にはピエールはいないが、それはピエールの存在を浮き上がらせている。ピエールの存在を否定するということは何も言わないことである。そしてその記号化(言語化)する過程の意味付けにおいて誤解の余地が生まれる。事実は人間が介入して記号化しない限りは常に肯定的なのではないだろうか。
「是れ小児の言にあらず」は「知者の言である」ということの緩叙法だというが本当だろうか。知者の対義語は小児ではなく、愚者ではないのか。対義語は多種多様な対立関係を見出せるので確定することは難しい。むしろ対義が可能なほど縁が深いので類義語だといってもよいかもしれない。わたしたちは標準的な対義語の型が安定的に制度化されているとおもっている。ときにはその安定の具合を辞書を参照してみるのもよいが、標準的な対義語関係のネットワークを疑ってみることはさらによいことだろう。
佐藤信夫『レトリック感覚』(講談社,1992)の紹介掲載
by 高田一樹
立命館大学大学院 先端総合学術研究科
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9200sn.htm#rhetoric03
修辞法の分類
by 雨宮俊彦
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~ame/word/Rhetor.html
3.伝達のひねり(語用論的レトリック)
3.2.弱く遠回しに言ってつたえる
○緩叙法(litotes)
「「笑いごとじゃあないぞ」とウィングが言った。「笑う気はないさ」、シェーンはライターの火をつけた、「もっとも、だからと言って泣きたいとも思わんがね。」」(ハリデイ「大急ぎの殺人」)、「ちょっと期待はずれでした」、「わたしは彼を評価しないわけではない」