亀山郁夫

ロシアの歴史は失敗の歴史だ、そこには一貫性というものが著しく欠けている、とは亡命批評家ウェイドレの言でしたね。ロシアはこれまで一度として幸福を知ることがなく、シジフォスさながら、歴史のやり直しを何度も強いられてきたのでした。というか、彼らは常に一からやり直さないと気のすまない人々なのかもしれません。改名の問題にしてもそうです。ユーリー・ロトマンも書いていますが、ロシアでは改革は常に「始まり」の意識とむすびついていて、敬称という観念は存在しない。彼らの終末論的観念と改名が完全に一致している、と。タタールの軛、動乱時代、十月革命、そしてソ連崩壊・・・・・・しかし、失敗の歴史を生き、断絶の歴史を生き延びる彼らには、他の西欧諸国にはみられない 「生成」 のエネルギーが絶えず満ちあふれていました。彼らにとって「衰弱」とか「枯渇」という言葉は無縁でした。貧しさのゆえに、彼らの語る言葉は常に約束の重みを帯び(ロシア語の「スローヴォ(言葉)」が同時に「約束」という意味を帯びているのは、とても暗示的です)、未来への希望と原初の輝きを失うことがなかったのです。

4 thoughts on “亀山郁夫

  1. shinichi Post author

    あまりにロシア的な。

    by 亀山郁夫

    (上に引用した文章は、私が買った本では、213-214頁)

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  2. shinichi Post author

    (sk)

    亀山郁夫は、ロシア語の「слово(言葉)」は「約束」という意味を帯びているという。

    試しに辞書を眺めてみると、「обещание дать слово(約束とは言葉を与えること)」とか、「разговор в любви не нужны слова(愛を語るのに言葉はいらない)」とか、確かにやたらと重い。

    重い言葉を話すロシア人が、どこまでも軽い言葉を話すアメリカ人を前にした時、もしくは功利的な言葉を話す中国人を前にした時、どれだけの不信感を持つか、想像に余りある。

    それがなに人でも、重い言葉を持つ人たちには、誠意を持って接しなければならない。

    ___________

    翻訳という作業には、誠意など入り込む余地はない。時にして翻訳は、言葉の置き換えに終始し、大事なことを伝えそこなう。

    どんな料理も日本に来たとたん日本化し、もとの姿をとどめることがない。

    同じように、どんな文章も翻訳の途中で日本化し、新しい文章は日本人のメンタリティーを持つ者にしかわからない。原作者が日本語を理解できたら、訳を読んでなんと言うだろう。。。とよく思う。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    中国語の「信」という字を思い出した。

    「人」が「言」うことは「信」じる。

    「人」が「言」うときは「信」じてもらえることを口にする。

    何千年も前には、中国でも、言葉は重いものだったという感じがする。

    ロシアも、あと何年かで、軽い言葉を話すロシア人ばかりの国になってしまう。。。のかもしれない。

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  4. Garfield

    昔、父の「ドストエフスキー全集」で読んだ時は、それこそ重すぎてよく分らなかったのですが、亀山郁夫さんの新訳のお蔭で、何とか「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」を読めました。
    最近は新訳ブームですけど、絶対旧訳の方がいい!と思うのもありますが・・・

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