小林秀雄

3hoso「来るべきものが遂に来た、」といふ文句が新聞や雑誌で実に沢山使はれてゐるが、やはりどうも確かに来てみないと来るべきものだつたといふ事が、しつかり合点出来ないらしい。
「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」
いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。
何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。
やがて、真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考へた。僕等は皆驚いてゐるのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。

One thought on “小林秀雄

  1. shinichi Post author

    小林秀雄「三つの放送」昭和17年1月『現地報告』

    http://homepage2.nifty.com/yarimizu2/kobayashiwar1.html
     

    「来るべきものが遂に来た、」といふ文句が新聞や雑誌で実に沢山使はれてゐるが、やはりどうも確かに来てみないと来るべきものだつたといふ事が、しつかり合点出来ないらしい。

    「帝国陸海軍は、今八日未明西太平洋に於いてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり」

     いかにも、成程なあ、といふ強い感じの放送であつた。一種の名文である。日米会談といふ便秘患者が、下剤をかけられた様なあんばいなのだと思つた。僕等凡夫は、常に様々な空想で、徒らに疲れてゐるものだ。日米会談といふものは、一体本当のところどんな掛け引きをやつてゐるものなのか、僕等にはよく解らない。よく解らぬのが当り前なら、いつそさつぱりして、よく解つてゐるめいめいの仕事に専念してゐれば、よいわけなのだが、それがなかなかうまくいかない。あれやこれやと曖昧模糊とした空想で頭を一杯にしてゐる。その為に僕等の空費した時間は莫大なものであらうと思はれる。それが、「戦闘状態に入れり」のたつた一言で、雲散霧消したのである。それみた事か、とわれとわが心に言ひきかす様な想ひであつた。

     何時にない清々しい気持で上京、文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した。僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ。それは、日常得たり失つたりする様々な種類の自信とは全く性質の異なつたものである。得たり失つたりするにはあまり大きく当り前な自信であり、又その為に平常特に気に掛けぬ様な自信である。僕は、爽やかな気持で、そんな事を考へ乍ら街を歩いた。

     

     やがて、真珠湾爆撃に始まる帝国海軍の戦果発表が、僕を驚かした。僕は、こんな事を考へた。僕等は皆驚いてゐるのだ。まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。何故なら、僕等の経験や知識にとつては、あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は動かせぬではないか。名人の至芸と少しも異るところはあるまい。名人の至芸に驚嘆出来るのは、名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。処が今は、名人の至芸が突如として何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。偉大なる専門家とみぢめな素人、僕は、さういふ印象を得た。

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