池内紀, Stefan Zweig

08091_big児玉さんはツヴァイクが好きだった。ドイツ文学科の学生のころ、辞書と首っぴきで全集をあらまし読み終えたという。大学院に進み、学者の道を歩むはずだったが、ひょんなことから俳優になり、ドイツ文学と縁遠くなっても、おりにつけツヴァイクは読んでいた。俳優のかたわら無類の本好きとして書評や本をめぐるエッセイを綴るとき、何かのときにツヴァイクの名前が出てきた。

2 thoughts on “池内紀, Stefan Zweig

  1. shinichi Post author

    チェスの話
    ツヴァイク短篇選
    SCHACHNOVELLE UND ANDERE

    http://www.msz.co.jp/book/detail/08091.html

    〈われらの書痴児玉清〉がもっとも愛した表題作「チェスの話」をはじめ、歴史的状況と人間心理への洞察に満ちた名作3篇を収録する。第一次大戦とインフレを背景にして、盲目の版画コレクターと博識のユダヤ人愛書家が辿る悲惨な運命を描いた2篇「目に見えないコレクション」と「書痴メンデル」。弁護士の奥方の不倫を扱った、いかにもウィーン風の風俗劇たる「不安」。そして1941年、ツヴァイクが亡命の途上で書いた最後の小説「チェスの話」、これはナチスの圧制下でホテルに軟禁されたオーストリアの名士を主人公にした、一冊のチェスの本をめぐって展開する陰影に満ちた物語である。両大戦間で、よき市民=ふつうの読書人に愛読された作家の傑作選。

    目次
    目に見えないコレクション
    書痴メンデル
    不安
    チェスの話
    解説(池内紀)

    シュテファン・ツヴァイク
    Stefan Zweig
    作家。1881年、オーストリアのウィーンに、ユダヤ系の裕福な紡績工場主の息子として生れる。ウィーン大学で哲学を学び、第一次世界大戦中は、ロマン・ロランとともに反戦平和の活動に従事する。
    大戦後は、ザルツブルクに住み、数々の作品を発表。ヨーロッパの多くの作家、芸術家と親交を結ぶ。ヒトラーの政権掌握後、ロンドンに亡命。その後アメリカ、さらにブラジルへ移住するが、1942年、第二の妻とともに自ら命を絶つ。伝記小説に、『人類の星の時間』『ジョセフ・フーシェ』『マリー・アントワネット』『メリー・スチュアート』、評論に『昨日の世界』『時代と世界』などがある。

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  2. shinichi Post author

    ツヴァイクは、ウィーンできわめて富裕なユダヤ系織物工場主であるモーリッツ・ツヴァイクと、妻(イタリア人の銀行家の一族出身)のイダとの間に生まれた。ウィーン大学で哲学と文学史を学び、1904年に博士論文「イッポリート・テーヌの哲学」で哲学博士号を取得した(この博士号は1941年、ナチス支配下のオーストリアで「人種的理由から」剥奪され、2003年4月になって回復された)。

    ツヴァイクは世紀末ウィーンの優れた文化的環境のもとで、ギムナジウム時代から文学、芸術に親しんでいた。ホーフマンスタールの流れを汲む新ロマン主義(派)風の叙情詩人として出発する。詩集『銀の弦』で文壇にデビュー。当時の前衛運動である青年ウィーン(英語版)運動に関与した。

    第一次世界大戦開戦当初は愛国心に動かされ、オーストリアの戦時文書課で軍務につくも、ガリツィアの戦禍に触れたこと、ロマン・ロランとの交際などから次第に戦争への疑問を深める。反戦劇『エレミヤ』の初演を機に中立国であったスイスのチューリッヒに渡る。その後『ウィーン新自由新聞』の特派員として記事を送ることを条件にスイスに留まり、ロマン・ロランらともに反戦平和と戦後の和解に向けた活動に従事する。

    第一次大戦後はオーストリアに戻り、1919年から1934年までザルツブルクに滞在する。ザルツブルクでの住居はカプチーナベルクのパッシンガー城であった。1920年にフリデリケ・フォン・ヴィンターニッツと結婚する。以降広く知識人と交わり始め、ヨーロッパの精神的独立のために尽力した。この期間には多くの代表作が書かれ、中でも1927年の『人類の星の時間』はドイツ語圏では、彼の代表作とされている。1928年にはソヴィエト連邦を旅行して、マクシム・ゴーリキーと交際する。1930年にはアメリカに旅行し、亡命中のアルベルト・アインシュタインに面会して 『精神による治療』を献呈する。1933年ヒトラーのドイツ帝国首相就任の前後からオーストリアでも反ユダヤ主義的雰囲気が強まり、1934年に武器所有の疑いでザルツブルクの自宅が捜索を受けたことを機に、ユダヤ人で平和主義者だったツヴァイクはイギリスへ亡命する。

    ツヴァイクはその後、英国(バースとロンドン)に滞在し、1940年に米国へ移った。1941年にはブラジルへ移住。1942年2月22日、ヨーロッパとその文化の未来に絶望して、ブラジルのペトロポリスで、1939年に再婚した二番目の妻であるロッテとともに、バルビツール製剤の過量摂取によって自殺した。死の一週間前には、旧日本軍によるシンガポール陥落の報に接し(シンガポールの戦い)、同時期にリオデジャネイロのカーニバルを見ており、自分達のいる所とヨーロッパとアジアで行なわれている現実のギャップに耐え切れず、ますます悲観したようである。

    遺著となった『昨日の世界』は、自身の回想録で、著者が失われたものと考えたヨーロッパ文明への賛歌でもあり、今日でも20世紀の証言としても読まれている。

    作曲家のリヒャルト・シュトラウスが、ナチ政権下で自身の作品歌劇『無口な女』における、台本作家としてのツヴァイクの名前のクレジットを守るために戦ったことは良く知られている。このため、アドルフ・ヒトラーは予定されていたこの歌劇の初演への出席を取りやめ、結局この歌劇は、3回の公演後に上演禁止とされた。

    2009年3月になってツヴァイクの死に一つの説が出てきた。それはアメリカ海軍が新型駆逐艦にシュテファン・ツヴァイクの名前を付けようとして、その事を知ったツヴァイクがますます絶望したという説である。その抗議の手紙(手紙の主は、ツヴァイクと親交があった作家トーマス・マンであったと思われる)により、アメリカ海軍作戦部長アーネスト・キングは、新型駆逐艦にツヴァイクの名前を付ける事に取りやめを命令したという。

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