yumi1960

先週の水曜日の講座から東郷先生の大ファンになってしまった。というのも、最新の著作本にサインをいただいたり、講座の最後に写真撮影を申し出た際に「じゃ、二人で撮ろうよ。」と、嘘かまことか?まことか嘘か?サラッと、おっしゃてくださって 見事に 東郷先生とのツーショットの画像まで 手に入れてしまった・・・そんなわけでなのだ。
微動だにしない、私のこの見事なミーハぶりも、他の追随を許さないかも。にわかに 東郷先生のミーハーになられた如是我門氏も まだまだ 私には勝てないだろう。
御歳 70歳は超えるであろう 東郷先生の体躯は、背が高くガッシリとされていたことは予想外であったし、ネット大の最新の黒板にマジックで書かれる身のこなしも、とても柔軟で、頼もしく 今日初UPの千畳敷海岸のような雄姿にも見えるのであった。この景観には、思わず感動だった。これが千畳敷だ!日本海だよ おっかさん。
講座開始間際のごあいさつに「今年生誕100年で、こんなことになるとは思わなかった。太宰治検定、太宰治マラソン、果ては年寄りの私まで引っ張りだされるとは・・・芝居も、映画も漫画まである。」とお話されていたが、ご自分でおっっしゃていた「としより」なんて形容を完全に払いのける、骨格の太い、しかも緩急抑制の利いた、質量ともに今講座中 Max 級の 本流太宰論の excellent な講義だったと思う。
最近は、弘大の方でも 集中講義をされてきたということであったが その内容もきっと 素晴らしいものであっただろうことは 間違いない。
太宰研究の三本柱のおひとり 早稲田大の名誉教授である東郷先生の講義は、約一時間半、大河ドラマのような様相を呈して、名作「津軽」を、太宰という一人の作家を…読み説いてくれるのであった。

3 thoughts on “yumi1960

  1. shinichi Post author

    東郷克美講座 (三鷹ネットワーク大学)

    http://plaza.rakuten.co.jp/yumi1960/9000/

    東郷 克美(とうごう かつみ、男性、1936年12月9日 – )は、日本近代文学研究者、早稲田大学名誉教授。 鹿児島県出身。早稲田大学教育学部卒業、成城短期大学教授、早稲田大学教育学部教授を務め、泉鏡花、太宰治などを論じ、2002年『太宰治という物語』で第十回やまなし文学賞受賞、『井伏鱒二全集』(筑摩書房)の編纂を行った。2006年定年退職。

    著書 [編集]
    異界の方へ 鏡花の水脈 有精堂出版 1994
    太宰治という物語 筑摩書房 2001
    きれいな日本語が聞きたい ゴマブックス 2002
    佇立する芥川龍之介 双文社出版 2006
    ある無名作家の肖像 翰林書房 2007
    太宰治の手紙 大修館 2009
    編著 [編集]
    太宰治 渡部芳紀共編 双文社出版 1974
    日本文学史概説 近代編 平岡敏夫共著 有精堂出版 1979
    日本文学研究資料新集 泉鏡花 有精堂 1991
    太宰治事典 学燈社 1995
    井伏鱒二 昭和作家のクロノトポス 寺横武夫共編 双文社出版 1996
    井伏鱒二の風貌姿勢(「国文学解釈と鑑賞」別冊) 至文堂 1998
    近代小説<異界>を読む 高橋広満共編 双文社出版 1999
    近代小説<都市>を読む 吉田司雄共編 双文社出版 1999
    井伏鱒二全集索引 双文社出版 2003
    ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

    先週の水曜日の講座から東郷先生の大ファンになってしまった。

    というのも、最新の著作本にサインをいただいたり、講座の最後に写真撮影を申し出た際に

    「じゃ、二人で撮ろうよ。」

    と、嘘かまことか?まことか嘘か?サラッと、おっしゃてくださって 見事に 東郷先生とのツーショットの画像まで 手に入れてしまった・・・そんなわけでなのだ。(ちなみに撮影はH先輩にお願いした)

    微動だにしない、私のこの見事なミーハぶりも、他の追随を許さないかも。

    にわかに 東郷先生のミーハーになられた如是我門氏も まだまだ 私には勝てないだろう。如是我門氏は 東郷先生が 写真撮影の際に 少し恥ずかしげにされていた、とご覧になっているが・・・私の顔も 十二分に、どえれぇ緊張感で コッチン コッチンだったのだ。

    御歳 70歳は超えるであろう 東郷先生の体躯は、背が高くガッシリとされていたことは予想外であったし、ネット大の最新の黒板にマジックで書かれる身のこなしも、とても柔軟で、頼もしく 今日初UPの千畳敷海岸のような雄姿にも見えるのであった。

    ☆この景観には、思わず感動だった。
    これが千畳敷だ!日本海だよ おっかさん。

    講座開始間際のごあいさつに 

    「今年生誕100年で、こんなことになるとは思わなかった。

    太宰治検定、太宰治マラソン、果ては年寄りの私まで引っ張りだされるとは・・・芝居も、映画も漫画まである。」

    とお話されていたが、ご自分でおっっしゃていた「としより」なんて形容を完全に払いのける、骨格の太い、しかも緩急抑制の利いた、質量ともに今講座中Max級の 本流太宰論のexcellentな講義だったと思う。

    最近は、弘大の方でも 集中講義をされてきたということであったが その内容もきっと 素晴らしいものであっただろうことは 間違いない。

    太宰研究の三本柱のおひとり 早稲田大の名誉教授である東郷先生の講義は、約一時間半、大河ドラマのような様相を呈して、名作「津軽」を、太宰という一人の作家を…読み説いてくれるのであった。東郷先生の講座、感動巨編の始まりだ。

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  2. shinichi Post author

    東郷克美 「津軽」1

    http://plaza.rakuten.co.jp/yumi1960/9001/

    「津軽」は代表作。

    「人間失格」も特にいろんな意味で問題的な代表作だが、この「津軽」も代表作のベスト3には入りそうな作品と言ってよいだろう。

    実物は、「新風土記叢書」の紀行文として、企画されて、書かれているものだ。

    作家の亀井勝一郎も「津軽」を太宰の代表作にあげている。

    私は、これを出来るだけ構造的に読み解きたいと思う。

    これを書いたことが、非常に画期的なことだった。

    「津軽」を書いたことによって、太宰が変わり、それがどんな意味をもつのか?

    井伏鱒二に相談したら

    「僕だったら旅をするような形で書くなぁ。」

    それで このような紀行文的な形になった。

    しかし、2週間のこの旅が その後の太宰の文学を大きく変革させた。

    故郷との複雑で屈折した事情を見直し、これをきっかけに太宰の故郷感が、ガラッと変わった。

    これを元にして「お伽草紙」も書かれている。

    ユートピアという夢を描くようになった。

    ユートピアとは、どこにもないという意味である。

    その夢は、ある意味でアナーキズム的なユートピアを目指したが

    その夢が、戦後の社会の進行と対義して、ぶつかっていく。

    斜陽館で、太宰は6番目の子、実質的には4番目の子として生まれた。

    多額納税者の父親が作ったこの家は、津軽の名門と言われてきたが

    この家が、明治になってからの「成り上がり」の家だということが研究でわかった。

    その研究家、相馬正一研究によると、最初は10丁歩ほどの地主だったが、たかだか30年の間に想像もつかないぐらい急激に膨張した。(250丁歩もの土地を獲得した。)

    「津軽」の凶作年表をみると、津島家が大きくなった原因、金貸しによって大きくなったことがわかる。

    百姓たちが、土地を担保に金をかりる。それが凶作によって、はした金で土地をとりあげられる。その土地を財力にものをいわせて掻き集めて大きくなったのが津島家だ。

    斜陽館は「成り上がり」の家だ。趣味の統一がない。

    洋風なレンガ塀、入るとすぐの帳場、二階はロココ風、50畳の宴会場、金の仏間、豪農風の囲炉裏が一緒になっている。

    太宰がこの家の長男ではなく、4男に生まれたことが太宰にとって決定的なことになったのだ。

    フクモトイズムによって、昭和のはじめに学生が左傾化してゆくのだが、その流れによって

    高等学校時代には太宰も影響を受けた。

    太宰という人間にとって、この左翼体験は普通の人間とは異なる意味をもつ。

    それは、成り上がりの家に生まれ、一般のプロレタリアートとは違った意味、自分を全否定する形いったんは受け入れる。

    その後に東大に入り、小山初代さんと一緒になる。

    しかし、昭和7年に太宰は転向する。

    昭和8年には、大変な時代だ、蟹工船の小林多喜二が虐殺されるというような時代。

    治安維持法というのは、大変な法律だった。

    転向によって、自己解体を行った「太宰治」という作家が生まれたのは、昭和8年からだ。

    太宰治という作家を読み説くには、この転向ということ

    考えなければ、読み解けない。

    太宰治というペンネームを使って小説を書き始めたのもこれからだ。

    井伏鱒二さんによると、このペンネームはサ行タ行の訛りを隠すために

    この名前を考えたんだ、と面白いことを言っている。

    「地図」という初期の創作集を読むと、サ行、タ行は、ほとんど訛っている。

    あのスタイリストが、結構酒を飲みながら訛っていたのかもしれない。

    小山初代との結婚によって、分家除籍になった太宰は、家に帰ることを許されない。

    昭和16年の、タネの重体でようやく家に帰ることが許される。

    望郷の思いで、ずっと小説を書き続けてきた。

    人によっては、長男の文治に向けて書かれているという人もある。

    こういう思いで「津軽」が書かれている。

    だが、この「津軽」は、今までの、故郷思考とは違って書かれているのだ。

    自分でも語っている

    一種の終末の意識だ。時代もおかしい。そして自分も、なんかおかしい。終末観とまとめて言っていい。

    そんな時に、自分はどこから来たのか?を考えたくなる。それは、納得のゆく考え方だ。

    この2週間の旅は、自分の人生にとっては、ある意味大きな事件になった。

    なによりも、自分は津軽の百姓であるということを知る。

    津軽の『つたなさ』を知ることによって、自分はホッとする。

    『つたなさ』というのは、つまりは スマートさもない文化的なものもない、ということだ。

    自分(太宰)という作家は大きく変わった。

    そこで、自分(太宰)は 安心したのだ。津軽人であることを知って自分は安心したのだ。

    その安心したことによって、自分(太宰)の小説も変わったのだ。

    それは、自分にとっては大きな事件だったのだ。

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  3. shinichi Post author

    東郷克美 「津軽」2

    http://plaza.rakuten.co.jp/yumi1960/9003/

    ここで 私は文化人類学的な枠組みを使いたいと思うのだが

    それは、中心という考え方と、周縁という考え方だ。

    中心周縁理論だ。

    我々を取り囲んでいる空間を創造していただければ良いと思うのだが

    中心といえば 町でいえばお城があるところが中心。

    その周りに 周縁部分がある。たとえば、城下町を創造してもらうと(東京でもいいのだが)

    そこには、権力があり、文化があり、秩序がある。

    そこは、整理されていて得体のしれないものはない。

    ところが、周縁に行くと 遊郭があったり、お寺、墓地、芝居小屋がある

    中心の秩序文化と反対のもの、そういうものは大体周縁部分に追いやられる。

    それを文化人類学の中心周縁理論というのだが。

    得体の知れない混沌、カオス的な世界がある。

    東京でいうと差別的になるかもしれないが、川向うには吉原があったり、芝居小屋があったり

    文化人類学は、この周縁を高く評価する。

    中央は、いつも物事を固定化、硬直化するが周縁は、そのような制度や秩序にとらわれないので、こここには河原乞食もいたり。

    中心は、その周縁のエネルギーによって変わってゆく。

    太宰は 今までは、中心思考、東京思考ということだったのだが、今度の旅は、「東京」という中心的な世界から、「津軽」という周縁的な世界に旅立った。

    そういう旅で、周縁の旅で、自分の出自を発見した。

    さらに、今度は津軽をみると

    彼の生まれたところの、金木は中心であり、彼は、この金木と弘前と青森と浅虫、大鰐温泉しか知らなかった。

    そこで中心理論をあてはめてゆくと、この「津軽」の旅というのは、「東京」という中心から「津軽」という周縁、辺境への旅である。「津軽」の旅は、今までは、金木、兄を中心にしていたが、今回、初めて蟹田という辺境の地へと向かう。

    ここを通って三厩、龍飛へゆく、そのあと金木に行くが、どうも金木はしっくりゆかない。

    小泊が終点であるのだが。

    結論を先に言う。

    この「津軽」の旅も、今までのような「中心」への旅ではなく

    今度 初めて津軽の「周縁」を廻ったのだ。

    最期は、遡って、十三湖、小泊でタケさんに再開してクライマックスになる。

    要するに、「津軽の旅」で、東京という「中心」から「周縁」への旅をした。

    蟹田でまっさきにNさんに会い、龍飛という「果て」に行く 旅から始めた。

    この旅も「周縁的な世界」の発見なのだ。

    人間を周縁的な世界に例えれば、無名の津軽の人たち、つまりは、周縁的な人間に会う。

    そして、これが自分の『育ちの本質』だということを発見する。

    最後にタケさんにあい、この人が、自分の育ての親なのである。

    そうか、だから自分には、こんなガサツな所があるんだ、という自己発見をする。

    「津軽」は、そういう旅だった、と私は考えている。

    蟹田での面白いところは、彼は行く先々で必ず飲み会をする。

    この「宴」は、「祭り」と同じだと言える。

    「祭り」というのは、何か?と言うと、日常的なものをぶっ壊すものだ。

    日常的な労働とかそのようなものを、バーンとぶっ壊すことだ。

    社会的秩序も、年齢的な秩序もないような場所で、そして暴れまくる。

    それは、つまり「周縁的」なものと似ている。

    彼は、至るところでこの「宴」をやるのだ。

    蟹田でSさんのところに行っても

    そして、彼は、終始津軽の「オズカス」として接した。

    意識して純粋な津軽弁を使うように努めた。

    しかし、これは、小説では標準語で書かれている。

    これが、この小説の問題点なのでもあるが。

    要するに、標準語と方言を比較すると、これは中心周縁とも関係してくるが

    標準語はいわば、中心で作られた言語で、方言というのは周縁の言語で

    まさに母語なのである。

    津軽弁で書いても分からない部分、Sさんが言う部分もある。

    これを 実際に、先日の弘前大の講義で 学生に「読んでみてくれ。」と言ったところ、それは急には出来ないといわれ

    「雀こ」を やってもらったら、これが、ほとんどフランス語のようであった。

    さて、このSさんが、「それ!シュベルトをやれ!」とか

    立て続けにサービスしようとする、ここには洗練された客の接待なんかはない。

    疾風怒涛のごとくの接待だ、といっている、こういう愛情の表現は、関東関西では暴力的に思われる。

    このSさんを見て、「津軽人の宿命」を感じる、そして最後のタケさんのところで

    非常に無愛想な出会いがある。

    純粋な津軽人だから、このようなことになる。

    これは、あとで問題にする。

    途中から 自然描写が変わってくるところがある。

    二時間ぐらい歩いてから、急に風景が変わってくるところがある。

    それは、もはや、風景ではない。

    点景人物の存在を許さない、京都や奈良のような人間によって出来あがった風景ではない。

    ここを通過することによって、制度的なものが解体させられるようなそんなものがある。

    これは、あと十三湖の辺りでもある。

    ここにも、人間の存在を許さない荒涼としていた風景がある。

    そこを通過して、また「宴」をやる。

    さらに、美しい少女にも出会う。

    芦野公園で切符を切ってもらう少女、あとタケサンの娘にあう。

    可憐な少女に出会う。

    津軽平野では、お兄さんに会いに帰ってくる。

    しかし、上品なピクニックをする。姪っ子の旦那さんにあう。

    ここでは、文化的な話題をする。

    修練農場で、アヤと話をする。

    その時は、まるで、大家のおぼちゃまになる。

    津軽富士の描写が、外側の先ほどまでの描写とは、全く違う。

    「十二単衣の美女」とあるように、と表現までもが、中心的な形容になる。

    お兄さんさんのいる前では、彼は思考も中心的になる。

    西海岸をさかのぼり、、最後の目的のタケさんに会う。

    ここで、自分が身につけた中心的なものを一旦解体する。

    祭りは、運動会。

    ここで、タケさんをやっと見つけて出会う。

    不思議な安堵感を感じ、自分の解放された、心のわだかまり、ストレスから解放される。

    言葉はいらない、人間が解放されたときには、本当に言葉はいらない、となる。

    つまり 言葉のいらないユートピアを夢みるようになってゆく。

    戦後のアナーキズムの自給自足を夢見て行くが、しかし、それが破られてゆく。

    「冬の花火」であったり。

    それらの作品は、ある「女人」に見守られているところが共通している。

    「浦島さん」、「舌切雀」、「津軽」も。

    ところが、戦後の太宰の作品は、その「女性」が、病み、怪我したり、死んでゆく世界が描かれてゆく。

    「斜陽」でも母が死んでゆく。

    「人間失格」の一番の問題点は、「母の死に絶えた世界」を書いている、ということだと、私は思う。

    以下 かけ足で東郷克美講座の完結編です。 

    ここで 私は文化人類学的な枠組みを使いたいと思うのだが

    それは、中心という考え方と、周縁という考え方だ。

    中心周縁理論だ。

    我々を取り囲んでいる空間を創造していただければ良いと思うのだが

    中心といえば 町でいえばお城があるところが中心。

    その周りに 周縁部分がある。たとえば、城下町を創造してもらうと(東京でもいいのだが)

    そこには、権力があり、文化があり、秩序がある。

    そこは、整理されていて得体のしれないものはない。

    ところが、周縁に行くと 遊郭があったり、お寺、墓地、芝居小屋がある

    中心の秩序文化と反対のもの、そういうものは大体周縁部分に追いやられる。

    それを文化人類学の中心周縁理論というのだが。

    得体の知れない混沌、カオス的な世界がある。

    東京でいうと差別的になるかもしれないが、川向うには吉原があったり、芝居小屋があったり

    文化人類学は、この周縁を高く評価する。

    中央は、いつも物事を固定化、硬直化するが周縁は、そのような制度や秩序にとらわれないので、こここには河原乞食もいたり。

    中心は、その周縁のエネルギーによって変わってゆく。

    太宰は 今までは、中心思考、東京思考ということだったのだが、今度の旅は、「東京」という中心的な世界から、「津軽」という周縁的な世界に旅立った。

    そういう旅で、周縁の旅で、自分の出自を発見した。

    さらに、今度は津軽をみると

    彼の生まれたところの、金木は中心であり、彼は、この金木と弘前と青森と浅虫、大鰐温泉しか知らなかった。

    そこで中心理論をあてはめてゆくと、この「津軽」の旅というのは、「東京」という中心から「津軽」という周縁、辺境への旅である。「津軽」の旅は、今までは、金木、兄を中心にしていたが、今回、初めて蟹田という辺境の地へと向かう。

    ここを通って三厩、龍飛へゆく、そのあと金木に行くが、どうも金木はしっくりゆかない。

    小泊が終点であるのだが。

    結論を先に言う。

    この「津軽」の旅も、今までのような「中心」への旅ではなく

    今度 初めて津軽の「周縁」を廻ったのだ。

    最期は、遡って、十三湖、小泊でタケさんに再開してクライマックスになる。

    要するに、「津軽の旅」で、東京という「中心」から「周縁」への旅をした。

    蟹田でまっさきにNさんに会い、龍飛という「果て」に行く 旅から始めた。

    この旅も「周縁的な世界」の発見なのだ。

    人間を周縁的な世界に例えれば、無名の津軽の人たち、つまりは、周縁的な人間に会う。

    そして、これが自分の『育ちの本質』だということを発見する。

    最後にタケさんにあい、この人が、自分の育ての親なのである。

    そうか、だから自分には、こんなガサツな所があるんだ、という自己発見をする。

    「津軽」は、そういう旅だった、と私は考えている。

    蟹田での面白いところは、彼は行く先々で必ず飲み会をする。

    この「宴」は、「祭り」と同じだと言える。

    「祭り」というのは、何か?と言うと、日常的なものをぶっ壊すものだ。

    日常的な労働とかそのようなものを、バーンとぶっ壊すことだ。

    社会的秩序も、年齢的な秩序もないような場所で、そして暴れまくる。

    それは、つまり「周縁的」なものと似ている。

    彼は、至るところでこの「宴」をやるのだ。

    蟹田でSさんのところに行っても

    そして、彼は、終始津軽の「オズカス」として接した。

    意識して純粋な津軽弁を使うように努めた。

    しかし、これは、小説では標準語で書かれている。

    これが、この小説の問題点なのでもあるが。

    要するに、標準語と方言を比較すると、これは中心周縁とも関係してくるが

    標準語はいわば、中心で作られた言語で、方言というのは周縁の言語で

    まさに母語なのである。

    津軽弁で書いても分からない部分、Sさんが言う部分もある。

    これを 実際に、先日の弘前大の講義で 学生に「読んでみてくれ。」と言ったところ、それは急には出来ないといわれ

    「雀っ子」を やってもらったら、これが、ほとんどフランス語のようであった。

    さて、このSさんが、「それ!シュベルトをやれ!」とか

    立て続けにサービスしようとする、ここには洗練された客の接待なんかはない。

    疾風怒涛のごとくの接待だ、といっている、こういう愛情の表現は、関東関西では暴力的に思われる。

    このSさんを見て、「津軽人の宿命」を感じる、そして最後のタケさんのところで

    非常に無愛想な出会いがある。

    純粋な津軽人だから、このようなことになる。

    これは、あとで問題にする。

    途中から 自然描写が変わってくるところがある。

    二時間ぐらい歩いてから、急に風景が変わってくるところがある。

    それは、もはや、風景ではない。

    点景人物の存在を許さない、京都や奈良のような人間によって出来あがった風景ではない。

    ここを通過することによって、制度的なものが解体させられるようなそんなものがある。

    これは、あと十三湖の辺りでもある。

    ここにも、人間の存在を許さない荒涼としていた風景がある。

    そこを通過して、また「宴」をやる。

    さらに、美しい少女にも出会う。

    芦野公園で切符を切ってもらう少女、あとタケサンの娘にあう。

    可憐な少女に出会う。

    津軽平野では、お兄さんに会いに帰ってくる。

    しかし、上品なピクニックをする。姪っ子の旦那さんにあう。

    ここでは、文化的な話題をする。

    修練農場で、アヤと話をする。

    その時は、まるで、大家のおぼちゃまになる。

    津軽富士の描写が、外側の先ほどまでの描写とは、全く違う。

    「十二単衣の美女」とあるように、と表現までもが、中心的な形容になる。

    お兄さんさんのいる前では、彼は思考も中心的になる。

    西海岸をさかのぼり、、最後の目的のタケさんに会う。

    ここで、自分が身につけた中心的なものを一旦解体する。

    祭りは、運動会。

    ここで、タケさんをやっと見つけて出会う。

    不思議な安堵感を感じ、自分の解放された、心のわだかまり、ストレスから解放される。

    言葉はいらない、人間が解放されたときには、本当に言葉はいらない、となる。

    つまり 言葉のいらないユートピアを夢みるようになってゆく。

    戦後のアナーキズムの自給自足を夢見て行くが、しかし、それが破られてゆく。

    「冬の花火」であったり。

    それらの作品は、ある「女人」に見守られているところが共通している。

    「浦島太郎」、「舌切り雀」、「津軽」も。

    ところが、戦後の太宰の作品は、その「女性」が、病み、怪我したり、死んでゆく世界が描かれてゆく。

    「斜陽」でも母が死んでゆく。

    「人間失格」の一番の問題点は、「母の死に絶えた世界」を書いている、ということだと、私は思う。

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