テーラワーダ仏教普及委員会

知ることによって人格は向上する。勉強すればするほど人に迷惑をかける人間でなく、立派な人間になる。心の汚れがなくなる。それがいわゆる、仏教でいう真理です。怒りが消えていく、欲が減っていく、ストレスがなくなる、競争する気持ちが消える、皆と仲良くすることができるようになる、心が平和的になる。そのように、心が清らかになるということ。真理を知ると悪を犯せない人間になる。社会の幸・不幸の変動にも動揺しない。知識探検にも結着がつく。知り得るもの、知るべきものは全て知り終えたと結着がつくのです。苦しみがなくなる。罪を犯さない人間になる、平和になるのです。

2 thoughts on “テーラワーダ仏教普及委員会

  1. shinichi Post author

    法話 No.49  「すべてのものは変化する」~無常の5~ 

    http://www.geocities.jp/dhammini131/howa49.html

    これから世間的な真理。真理は2種類(俗世間的真理・出世間的真理)
    出世間的なレベルに入ります。いわゆる、仏教でいう真理です。
    知ることによって人格は向上する。勉強すればするほど人に迷惑をかける人間でなく、立派な人間になる。
    心の汚れがなくなる。これ大変いいことです。それが出世間の真理です。
    皆さまは、勉強すればするほど精神的にきついでしょう。研究者になっても、自分より他の人に先に発表されると大変なことになるのですから。研究所なんかは、ずい分簡単に情報を盗まれます。
    友達同士、皆で一緒に研究していますから、時々、相手が何をやっているのか分かるし、それでそのまま、そのデータを盗って自分が発表する。そういうのは、心にきついんですよ。
    怒り・憎しみ・競争する気持ち・人を殺したくなる気持ちなどがドンドン増えるのです。俗世間の知識では。

    出世間の知識では逆で、怒りが消えていく・欲が減っていく・ストレスがなくなる・競争する気持ちが消える・皆と仲良くすることができるようになる・心が平和的になる。そのように、心が清らかになるということ。

    出世間の真理を知ると悪を犯せない人間になる。社会の幸・不幸の変動にも動揺しない。
    社会だけでなく、世界も入れなくてはいけない。
    我々、生きている社会は絶えず、あらゆる変化が起きる。環境から見ると地震・台風・洪水・地すべりなど等。
    そのようなことで、我々は怯えたり、心配したり、動揺しますが、でもどうしようもないのです。
    地震はいくら心配してもしても、起きた時は起きた時でどうにもなりません。
    そこで、出世間の知識のある人ならば、そういうものに動揺しない。冷静でいられる。苦しみがなくなる。
    これ大きなポイント、生きる苦しみがなくなる。出世間の真理の場合は、またいくつかありますが。
    知識探検に結着がつく。これはすごいことです。
    知り得るもの、知るべきものは全て知り終えた。と結着がつくのです。これは世間では絶対あり得ません。

    釈尊が俗世間的な真理に対してパーリ語で
    Na abhisamaya na nibbidaya na viragaya na nibbanaya samvattati と、説きました。
    意味は【智慧に厭離に無執着に涅槃に赴くものになりません】

    ですから、世の中の真理、人が発展する事実をいくら勉強してもしても人格の向上はない。ということです。
    厭離とは欲・怒りから離れることです。智慧とは物事の本質を発見することです。
    これらは俗世間的な真理からは出てこないのです。

    このようなわけでお釈迦様は俗世間の時限を破る、涅槃・悟り・解脱に押し上げる真理は「聖なる真理」と名付けたのです。ブッダが語る真理に「聖なる真理」と。ブッダの語る真理は並大抵のものではありません。
    結着がつくのです。苦しみがなくなる。罪を犯さない人間になる、平和になるのです。

    これから、いくらか内容を変えます。
    今まで説明したのは、何でブッダが「無常」みたいな誰でもが知っていいることに「聖なる真理」と言われたのかとその理由でした。しかし、「無常」とはそんなにすごいことかと、まだ分かっていないと思います。

    『常識的変化論』  個人々の勝手な感情的な主観に過ぎないという結論です。
    で、私はこれからケチをつけようとしています。
    一般人も「無情」なら俺も知っているよ。という態度でしょう。本当かなと? 
    この常識的な変化論とは何でしょうか。
    私の結論は、あなたの知っている無常論はただの感情に過ぎない、事実ではありません。

    「変化」は誰だって知っている。では本当に知っているのかと。
    仏教の「無常変化論」は、誰でも知っている当たり前の話しではありません。
    ブッダの教えている「全ては無常です」というのは、どんなバカでも知っている当たり前の話しではありません。人格を抜本的に改革する真理なのです。
    ですから、自分が人格的に生まれ変わって、抜本的に完全たる人格者になっているならば「あっ、ブッダの無常くらいは知っていますよ」と言ってもいいのです。
    無常を知っているのなら、完全たる人格者になっているはずです。
    無常を知っているのに性格はそのままで、だらしがないのなら、それは無常ではなく何かの感情、何か主観なのです。
    で、私たちが知っている「変化」とは何でしょうか。
    仏典に説かれている無常の話は、誰にでも理解できる普通の話しではないでしょうか。それで仏典を読んでみたら誰でも「なるほど、これは分かりますよ」と言うでしょう。だから、お釈迦様の仏教は声聞乗で、ずい分、頭の悪い人に語っている。という人々がいますが・・・。どちらでしょうか。
    「無常」が分かったら、完全たる人格者になっているはずなのですが。人格を改良するはずですが。

    『一般常識の無常』
    世間で言っている一般常識の無常に入ります。これは人間の主観、感情でもあるのです。
    客観的に発見する事実・真理ではありません。やがて分かりますから、今はただそのまま読んでください。

    我々が語る、儚いものだなぁ、全て変わっていくんだぁ、世界は変わるものだ。などというのは、ただの感情、主観です。
    嫌な状況が変わることを期待する。それ無常です。変わって、良い状況になると喜ぶ。でしょう?
    会社で自分の仕事のセクションに新しい人が入ってくると嫌なのです。その人と一緒に仕事をするのが嫌で嫌で1年中そんな気分でいる。これで1年、2年いるのは大変ですよ。心の中で、早くどこかへ転勤してくれないかと思ったりもする。そこでその人が転勤になったら舞い上がって喜ぶ。なぜか状況が変わったのです。変化を喜んでいます。
    なぜ喜んでいるのか、嫌な状況が変わったからです。自分にとって嫌な状況だったら早く変わってくれと。

    子どもが病気になったら、早く治ってと期待する。病気の子ども、というのは嫌な状況なんです。
    お姑さんが病気になったら、良かった。という感じですよ。世界は。
    ですから、人間の発見する無常は勝手でしょう。
    自分にとって、良い状況なら変化だけはさせまいと踏ん張る。変わったら悲しむ。
    世界は変化するのに、今、自分に良い状況、環境でいるのなら、その現状を維持しよう、変わらないようにと必死で踏ん張る。それって「無常論」ですかね。エライ身勝手でしょう。

    それは、また人によって違う考えです。
    私が変わって欲しいものは隣の人も変わって欲しいわけではないでしょう。だから人間の無常はあてになりません。
    私が「あぁ、変わって無常でよかったな」と思うものは、他の生命から見れば、とんだ迷惑かもしれません。
    漁師が大量に魚が取れたら喜ぶでしょう。無常だから、魚はいつかは死ぬし、どうせ平和で生きていられるという
    約束はないし、いろいろな危険にも遭遇しますから。で、網に引っ掛かった。だから魚の人生の無常で魚が死んで
    漁師が喜ぶ。しかし、魚達はそれを喜ぶでしょうか。魚達にとっては最悪な状態。

    戦争で一部の人々はこれくらい人を殺したと喜ぶ。殺された側は大事な人々が何で死んだのか、と言って悲しむ。
    人が死んで、一部は無常によって喜ぶ。一部は同じ無常で嘆き悲しむ。だから、人によって無常論は違いますね。
    普遍的なものではありません。結局は一般常識の知識ですよ。
    個人々にだけ正しくて、他人には正しくありません。

    例えば、冗談の話しですが、いじわるなお姑さんなら早く死んでくれれば、お嫁さんにとっては楽しいことで。家族は幸せでいられるのにと。でも、お姑さんから見れば、この女が離婚して出ていけば息子や孫達と仲よくいられるのではないかと。それぞれ期待している無常が違うんです。
    従って、人が知る無常はいい加減です。真理ではありません。

    クリスマスの時期になると、原宿通りの並木道をイルミネーションしていました。
    余りにもきれいだから、大勢の人々が見に来ました。それは近隣の住民にとっては迷惑でした。勝手に家に入って来られる。ゴミは平気でポイと捨てる。それで中止になりました。ですから、一部には良いことですが、一部には迷惑なものです。

    地震が起きて家が壊れたのは、一部の人たちとっては悲しいことです。しかし、復興しなくてはいけないでしょう。すると誰(何処)かが、儲かるでしょう。仕事がなくて困っていたが、突然、仕事が舞い込む。
    道路は作る、家は作る・・・・。復活するために1兆円、何千万ドルかかる、といって援助するでしょう。
    そのお金は誰かの手にいくでしょう。地震が起きてよかった、戦争があってよかった。と平気で言う人々がいるでしょう。戦争で儲かる。災害で儲かる。ですから一般常識の無常はそんなもので、一部は喜び一部には大変悲しいことで。
    人間の知っている無常はいい加減なものです。

    もっと分かりやすい例で見ると、我が子の成長は大いに喜ぶ。成長が早ければ早いほど楽しい。他の子どもより、
    みるみるうちに成長して、早くもお喋りをするようになり、歩くようにもなる。1歳半なのに文字を覚え、本を読んだり、と言うと大いに喜ぶでしょう。無常が早ければ早い方が楽しいと。
    同じ我が子が思春期になり、暴力を振ったり、逆らったり、家出をすることは嫌がる、悲しむ。どうせ成長が早いのですから、思春期になると、その反応はかなりなもので、それで何でも激しい。そうなると同じ変化ですが、嫌がるんです。元の状態に戻って欲しいと期待する。いわゆる無常に逆らおうとする。
    ある時期は無常で喜んでいたのに、今になって変化は嫌だと頑張る。

    商売が繁盛すると喜ぶ、繁盛のみを期待する。不景気は絶対イヤです。
    そんなのは世の中であり得ないのですけど。でもそのように、ずい分好き勝手に、ものの変化をして欲しいと思う。
    摂取する栄養で身体の成長は期待するが、癌の成長には怯える。癌を持っているなら栄養を取れば、癌も一緒に成長します。大人になりたいが、老いるのは嫌なのです。若者が大人になるということは、老いることです。

    敵の死は幸福な変化ですが、親しい人の死は決して認めない。不公平なこと、あってはならない事が起きたことにする。敵が死んだら、よかったと喜ぶ。親しい人が死ぬと、何で死んだのかと怒る。

    それからまた同じことですが、別な側面です。
    一般常識の無常というのは、一部にしか興味を持たない、いい加減な観察です。無常を全体的に観ない。
    都合によって無常の一部だけを観て、私は無常を知っていると。
    象の尾っぽだけを観て、象のことなら任しておけ、知っているんだと、言っているようなものです。

    1つ大きい問題は、この乏しい観察力です。無常変化は観察すると発見するものです。
    無常は研究して発見するものではない。本を読んで発見するものではない。考察して発見するものではない。
    観察するんです。観るんです。それで、変わっているんだと分かるのです。事実ですから。
    しかし、一般社会の観察は感情的で乏しいものです。

    Reply
  2. ゲバラ

    どんなばかでもとはどのような人たちなのでしょうか?仏陀の教えにはそうしたことが許されているおしえなのでしょうか?
    無知であるといいたいのでしょうか?無知であるということと馬鹿という人をさげすむ言葉は仏陀の教えでは同義語なのでしょか?勉強不足でよく理解できません!
    そのような方々のいう無常論こそ本当に理解されてのことなのか疑問に思います!仏陀の教えは自ら試してみなさいとのこと!なので失礼ながら質問をしてみました!

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