樋口一葉

おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く氣だらう、押かけて行つて引ずつて來るからさう思ひな、ほんとにお湯なら歸りに屹度よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言譯しながら後刻に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ來る氣もない癖に、本當に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて閾をまたぎながら一人言をいへば、高ちやん大分御述懷だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい燒棒杭と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しには技倆が無いからね、一人でも逃しては殘念さ、私しのやうな運の惡るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番か何たら事だ面白くもないと肝癪まぎれに店前へ腰をかけて駒下駄のうしろでとん/\と土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好すらりつとして洗ひ髮の大嶋田に新わらのさわやかさ、頸もと計の白粉も榮えなく見ゆる天然の色白をこれみよがしに乳のあたりまで胸くつろげて、烟草すぱ/\長烟管に立膝の無作法さも咎める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形の裕衣に引かけ帶は黒繻子と何やらのまがひ物、緋の平ぐけが背の處に見えて言はずと知れし此あたりの姉さま風なり、お高といへるは洋銀の簪で天神がへしの髷の下を掻きながら思ひ出したやうに力ちやん先刻の手紙お出しかといふ、はあと氣のない返事をして、どうで來るのでは無いけれど、あれもお愛想さと笑つて居るに、大底におしよ卷紙二尋も書いて二枚切手の大封じがお愛想で出來る物かな、そして彼の人は赤坂以來の馴染ではないか、少しやそつとの紛雜があろうとも縁切れになつて溜る物か、お前の出かた一つで何うでもなるに、ちつとは精を出して取止めるやうに心がけたら宜かろ、あんまり冥利がよくあるまいと言へば御親切に有がたう、御異見は承り置まして私はどうも彼んな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前なぞは其我まゝが通るから豪勢さ、此身になつては仕方がないと團扇を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よの言ひなし可笑しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。

2 thoughts on “樋口一葉

  1. shinichi Post author

    (sk)

    「にごりえ」のはじめの部分。まるでドイツ語のように、ひとつの長文がひとつの段落になっている。

    とはいえ、読点「、」が句点「 。」の役目を果たしていて、とても読みやすく書かれている。名人の落語を聞いているかのように綺麗に流れる。

    「おい木村さん信さん寄つてお出よ、」などという始め方は、今の作家にはできない。

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