柳宗悦

さらに一個の病気を数え挙げておこう。多くの蒐集家は「完全品」への執着が強い。それが一冊の書物にしろ一個の陶器にしろ、罅や傷や汚れを極度に嫌う。そうして完全でないと手を出さない人がある。かかる性質の人が多いのと、無傷なものが比較的少ないのとで、商人は完全な物に高値をつける。購う方では傷物だと難癖をつける。 。。。 あのミロのヴィナスに両腕があったら、よもやルーブルの特別室に入りはしなかったであろう。一個の陶器を選んだとしても、多少のゆがみや貫入が、一層風情を添える場合があるではないか。 。。。 完全なものの方が常にいいという法則は無い。まして完全なものでなくば駄目だという断定は成立しない。完全さと質とは必ずしも同一物ではない。
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御存知の様に、これは蒐集家に限った話というよりは、むしろ一般の感覚だろう。何に起因する発想であるのか不勉強にして知らぬのであるが、例えば萩焼の浸みであったり、伊賀の焦げであったり。面白いことであるが、伊賀花入などを人の手に飾らせると、裏向きに置いて焦げを隠そうとする場合が散見される。特に緋色が綺麗というわけでもない。積極的選択ではなく、消去法による選択。粉引の貫入などもこの手の誤解を受け易い。目跡にしても同じ。高麗茶碗の魅力を象徴する口辺のゆらぎでさえ、これも同罪とされてしまう事がある。とかく完全をモノに、また同時に人へも向ける。割れ易い楽茶碗の存在が在り、キズを抱えた伊賀の存在があり、乾風一つで割れる竹花入が在り、色の抜けた茶杓が在る。時に「茶道具だけは特別」というような説明が下される場合もあるが、元より自然界は歪みがあってこそ「真の姿」である。いやまぁ、私もそうだが、人間だってそんなものだ。垂直な赤松なんて要らんだろう。桜が杉やヒノキの様に真っ直ぐで在るべきか。いや、その杉やヒノキでさえ、日光の偏りによって揺らいでいるもの。万事、自然の訓えに従ったものである。貫入に色が入ってこそ。歳を経て変わらぬ人間など居ないわけで、「松樹千年翠」の言葉通り、表向きは常に緑色。しかし中には千年の栄枯があってこその魅力。不完全なものを積極的に認めて行く姿に茶の道、人の道が在るのだろう。道具に託された言葉の千金を知るべきである。
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銘を尊ぶようになったのは、近代の個人主義の影響に過ぎない。個性の出たもののみが高い美を約束すると考えるに至ったからである。しかし私達は無数の卓越した無銘品の存在をこの概念で説くことはできない。銘への執着は吾々の鑑賞をいたく鈍らせてきたのである。人ばかり見て物が見えなくなってきたのである。そのため物をじかに見届ける力が衰えてしまったのである。幸い物の価値と銘とが一致すればよいが、必ずしも一致するとは限らない。 。。。 吾々は銘で集めるより、物で集めねばならぬ。

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