千田稔

『古事記』の中にあらわれる自然は、神として表現される場合が少なくない。万物に霊が宿っているとするアニミズム(精霊信仰)が、日本の神の根底をつくっていると解釈されてきたからである。
しかし『古事記』は史書である。史書に登場する神々のすべてを、単純にアニミズムという枠内に収めることはできない。なぜならば、純粋な自然の霊への信仰だけでなく、『古事記』という政治的色合いをもった史書に収められている自然と神の関係からは、創作性をぬぐいさることができない場合もあるからである。そのため、本書では、無垢の自然に宿る神と、政治性をおびた人格神的なものとを交錯させながら述べることになる。
本書で述べる「自然」とは、山や海、植物・動物をはじめとする、英語でいうネイチャーを含むのはもちろんだが、それだけでなく、人間をつくっている身体、あるいは肉体もまぎれもない自然的存在である。歩く、走る、歌う、踊る、食べるといった行為は、人間の自然性を純粋に表現している。本来、人間の身体の外にある自然と、身体という自然との間には明確な境界はないのだ。『古事記』にも、歌謡や演劇的語りが、随所にちりばめられている。だが、『古事記』は文字で書かれたために、このような人間の自然性が、臨場感をともなって直接伝わらなくなってしまっている。文字で書かれた書巻の宿命である。

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