原研哉

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これは同仁斎という義政の書斎ですが、彼の当時の感性を端的に物語っています。今の和室といわれるものの源流が、全てここに集約されていると言われています。言わば、和室の原型ですね。畳敷きの四畳半ですが、これ以前は、畳はまだ床に敷きつめられてはいなかった。畳は板の間の一部に置かれて、畳の縁には段差があったんです。
障子もほぼ完成されています。障子は完壁な面光源になって、直射日光は差さない。デスクトップは帳台とよばれるもので、書き物をするところですが、すばらしいのはデスクトップの面に接して全面に障子があって、これがすっと開くんですね。開くと庭の景色がちょうど掛け軸のようなプロポーションで切りとられてくる。帳台の左には違い棚があって、渡来ものや本などをここに飾ったりするわけです。
向かって左手と、カメラ側も襖です。襖、襖、障子、障子、あとは畳と帳台と違い棚。すごく簡素できれいです。本当に簡素極まりない。これが究極の和室です。以後の和室は、数寄屋にしろ書院づくりにしろ、少なからずこういうものの影響を受けているわけです。

One thought on “原研哉

  1. shinichi Post author

    応仁の乱、足利義政、ミニマリズム

    by 原研哉

    http://www.muji.net/lab/report/100203-03.html

    僕はあまり日本史が好きじゃなかったので、学生の頃は授業をあまり熱心に聞いてはいなかったんですが、最近なるほどと思ったのは、応仁の乱で京都が徹底的に焼けたという事実に気づいたことでした。なにしろ10年間を超える戦乱ですから、伽藍も焼ける、仏像も焼ける、絵巻物も、書も、仏典も、屋敷も、着物もあらゆるものが莫大に消失されたわけです。これはたいへんな損失です。貴族は縁故を頼って地方に疎開し、それで連歌が地方に広まったりと、京都の文化が地方に飛び火するという意味では、マイナス面だけではないのですが、京都そのものはボロボロになっちゃうんです。

    この応仁の乱の時の将軍、足利義政という人は、実に政治力はないけれども、美意識は高い人でもあった。美にはすごい執着があった。普請好きらしくて、何度も住まいや庭を造らせたそうです。数百メートル先に戦火が迫っているのに、書を書いたりするような人だったらしい。跡目の相続がややこしくて、こういう乱を引き起こすことになったのですが、結果的にはぽいと息子に将軍職を譲って、自分は東山のほうに隠遁します。自分の好きな、すばらしい屋敷をつくって、好きなものだけを集めて趣味的な生活に浸った。

    当時は相当なものが焼けてしまったということで、人々の心には厭世観というか、諦観というか、ある種のリセットの心理が美意識とともに働いたのかもしれません。その東山のあたりに、ふわっと、簡素で侘びた感じ、冷えた感じ、枯れた感じがいい、というような感性が立ち上がってくるんですね。勿論、義政の感性が主導したと思いますが、ひょっとすると、戦乱と絢爛に倦んだ時代感覚だったかもしれない。まさに極まったミニマリズムが生まれてくるんです。

    世界中から影響を受けながらも、その影響を全部押し返して新たな日本風をうち出していくんですね。それはもうミニマルの極みです。何にもないプレーンをすっと出してきて、これで世界に対峙してしまうという、そんな感覚がこの時代に生まれてくる。

    これは、冒頭で紹介した同仁斎という義政の書斎ですが、彼の当時の感性を端的に物語っています。今の和室といわれるものの源流が、全てここに集約されていると言われています。言わば、和室の原型ですね。畳敷きの四畳半ですが、これ以前は、畳はまだ床に敷きつめられてはいなかった。畳は板の間の一部に置かれて、畳の縁には段差があったんです。

    障子もほぼ完成されています。障子は完壁な面光源になって、直射日光は差さない。デスクトップは帳台とよばれるもので、書き物をするところですが、すばらしいのはデスクトップの面に接して全面に障子があって、これがすっと開くんですね。開くと庭の景色がちょうど掛け軸のようなプロポーションで切りとられてくる。帳台の左には違い棚があって、渡来ものや本などをここに飾ったりするわけです。

    向かって左手と、カメラ側も襖です。襖、襖、障子、障子、あとは畳と帳台と違い棚。すごく簡素できれいです。本当に簡素極まりない。これが究極の和室です。以後の和室は、数寄屋にしろ書院づくりにしろ、少なからずこういうものの影響を受けているわけです。

    こういうミニマル極まりない書院で、侘び茶の開祖である村田珠光と義政は、茶で交わっただろうといわれています。村田珠光という人は、ちょっと冷えた感じがいい、何もないプレーンが素敵だ、ということを言い始めた人です。その後、武野紹鴎という人が、何にもないプレーンなもののほうが、人間の内面を映すにはいい。空っぽの器に心情を託すほうが、単なる複雑さより高尚なんじゃないかというようなことを示しはじめたわけです。

    それを引き継いで完成させたのが千利休です。利休の時代、桃山時代に茶の湯における「エンプティネス」の運用法がひとつの完成をみるわけです。

    生け花も能も茶の湯も、エンプティネスを運用する美意識の所産は全て室町の後期辺りからです。日本美術史でいうところの「国風化」、つまり日本の感覚のオリジナリティというのが、この辺でできあがったんです。僕が向き合っているデザインや無印良品の「素」とか、そういうものをやればやるほど、この辺りにルーツがあるということが分かる。いわゆる簡素の根はここら辺にあるんです。

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