藤原定家

見渡せば花ももみぢもなかりけり
  浦の苫屋の秋の夕暮

5 thoughts on “藤原定家

  1. shinichi Post author

    武野紹鷗(1502年-1555年)は、堺の豪商(武具商あるいは皮革商)、茶人、歌人。

    現代の「わび茶」の概念を決定付けている『南方録』では

    「みわたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」

    という藤原定家の歌を紹鷗の「わび」の心であるとしている。南方録は資料的価値が低いけれども、最初に和歌の書跡を茶席に取り入れたのは紹鷗なのは史実である。『山上宗二記』においては、紹鷗が目指した茶の湯の境地とは

    「枯れかじけ寒かれ」

    であったとされる。これは連歌師である心敬の言葉から引いたものである。なお、「山上宗二記」には、紹鷗の四畳半茶室の図が載っており、紹鷗当時の茶の湯座敷が看取できる。それによると、北向き、上り口にすのこ縁が付き、檜の角柱、張付壁、床は一間床、床框は「クリノ木、カキアワセニクロク十遍計ヌル」、鴨居内法も「常ノヨリヒキ(ク)シ」とある。

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  2. shinichi Post author

    『南方録』は、博多の立花家に千利休の秘伝書として伝わった古伝書。ただし、同時代を著した書籍としては内容や用語等に矛盾点が多数指摘され、現在、研究者の間では元禄時代に成立した偽書として認知されている。かつては、「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えたと考えられてきたが、現在では実際の成立年代である、江戸期の茶道における利休回帰を裏付ける資料として捉えられている。

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  3. shinichi Post author

    『和敬清寂』とは、茶道の心得を示す標語で、意味は、主人と賓客がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶室の備品や茶会の雰囲気を清浄にすることという意である。特に千家ではこの標語を千利休の定めた「和」、「敬」、「清」、「寂」を表す「四規」として重要視している。しかし利休と同時代の確かな資料には見られないことから、学術的には利休の言葉としては認められていない。

    近年の町田忠三の研究「『南方録』成立背景と利休虚像の誕生」(『茶の湯文化学』9号所収/2004)では、「和敬清寂」という言葉を作ったのが大徳寺273世の大心義統(1657-1730)であるという可能性を検討している。

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  4. shinichi Post author

    「わび茶」の完成者としての利休像は、『南方録』を初めとする後世の資料によって大きく演出されてきたものである。偽書である『南方録』では、新古今集(六百番歌合に出詠)の藤原家隆の歌、「花をのみ 待つらん人に 山里の 雪間の草の 春をみせばや 」を利休の茶の心髄としており、表面的な華やかさを否定した質実な美として描かれている。しかしこれらの資料では精神論が強調されすぎており、かえって利休の茶の湯を不明確なものとする結果を招いてきた。同時代の茶の湯を知るには、利休の高弟である山上宗二による『山上宗二記』が第1級の資料とされている。この書によると、利休は60歳までは先人の茶を踏襲し61歳から(つまり本能寺の変の年から)ようやく独自の茶の湯を始めたという。つまり、死までの10年間がわび茶の完成期だったということになる。

    利休の茶の湯の重要な点は、名物を尊ぶ既成の価値観を否定したところにあり、一面では禁欲主義ともいえる。その代わりとして創作されたのが楽茶碗や万代屋釜に代表される利休道具であり、造形的には装飾性の否定を特徴としている。名物を含めた唐物などに較べ、このような利休道具は決して高価なものではなかった点は重要である。

    利休は茶室の普請においても画期的な変革を行っている。草庵茶室の創出である。それまでは4畳半を最小としていた茶室に、庶民の間でしか行われていなかった3畳、2畳の茶室を採りいれ、躙り口(潜り)や下地窓、土壁、五(四)尺床などを工夫した。なかでも特筆されるべきは「窓」の採用である。師の紹鷗まで茶室の採光は縁側に設けられた2枚引きあるいは4枚引きの障子による「一方光線」により行われていたが、利休は茶室を一旦土壁で囲いそこに必要に応じて窓を開けるという手法を取った(「囲い」の誕生)。このことにより茶室内の光を自在に操り必要な場所を必要なだけ照らし、逆に暗くしたい場所は暗いままにするということが可能になった。後には天窓や風呂先窓なども工夫され一層自在な採光が可能となった。設計の自由度は飛躍的に増し、小間の空間は無限ともいえるバリエーションを獲得することとなった。利休の茶室に見られる近代的とも言える合理性と自由さは、単に数奇屋建築にとどまらず、現代に至るまで日本の建築に大きな影響を及ぼしてきた。

    「露地」も利休の業績として忘れてはならない。それまでは単なる通路に過ぎなかった空間を、積極的な茶の空間、もてなしの空間とした。このことにより、茶の湯は初めて、客として訪れ共に茶を喫して退出するまでの全てを「一期一会」の充実した時間とする「総合芸術」として完成されたと言える。

    「利休箸」「利休鼠」「利休焼」「利休棚」など、多くの物に利休の名が残っており、茶道のみならず日本の伝統に大きな足跡を刻んでいるといえる。

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  5. shinichi Post author

    利休の四規七則、つまり




    茶は服のよきように
    炭は湯の沸くように
    夏は涼しく冬は暖かに
    花は野にあるように
    刻限は早めに
    降らずとも雨の用意
    相客に心せよ

    は、学術的には利休の言葉としては認められていない。

    つまり、利休がこのようなことを言ったというのは、事実とは異なる。

    しかしながら、裏千家のウェブサイトなどを見る限り、利休の四規七則は、茶の心の基本中の基本になっており、そうやすやすと『南方録』などの偽本からの演出、つまり嘘偽りであるなどとは認めるわけにはいかない。

    そういう意味から、利休の四規七則は、事実ではないが、真実なのだといえる。

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