藤原定家

花の香はかをるばかりをゆくへとて風よりつらき夕やみの空
大空は梅のにほひにかすみつつくもりもはてぬ春の夜の月
かきくらす簷端の空に数みえてながめもあへずおつるしら雪
消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの杜の白露
駒とめて袖うちはらふ影もなしさののわたりの雪のゆふぐれ

This entry was posted in poem. Bookmark the permalink.

3 Responses to 藤原定家

  1. shinichi says:

    そこにあったはずのものが少なくなっていく。消えてゆく。そして何かの景色がぽつんと残っている。その景色を残して、自分はそこを退出してきた。そこには自分もいない。

  2. shinichi says:

    夕暮れはいづれの雲のなごりとてはなたちばなに風の吹くらむ

  3. shinichi says:

    (sk)

    どんなに素晴らしい文字を見てもやはり

    見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ

    に戻ってしまう。

    __________________

    堀田善衛
    定家明月記私抄

    松岡正剛の千夜千冊

    http://1000ya.isis.ne.jp/0017.html

    見渡せば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋のゆふぐれ

     ここは何もないように見える。見渡しても浜辺には何もない。浦の苫屋がひとつだけぽつんとあるような、寂しい秋の夕暮の光景である。

     しかし定家は、その何もない寂しい光景を「花も紅葉もなかりけり」と詠んだ。実際にはそこに花があるわけでもないし、紅葉があるわけではないのだから「花も紅葉もなかりけり」というのは当然のだが、日本の歌にとっては、またその歌を見る者にとっては、言葉としての「花」や文字としての「紅葉」がそこに出るだけで、それは花や紅葉の色さえ見えることなのである。

     定家はその花や紅葉の鮮やかな色と形を、言葉として文字としてヴァーチャルにつかって、一瞬にして浜辺に日本の歌の歴史の総体を咲かせ、そしてその直後に、たちまちそれらの色や形を、いやそれだけではなく花や紅葉にまつわる記憶の光景をさえたちまち消し去ってみせ、リアルな浦の苫屋の光景に戻してみせたのだ。残ったのは秋の夕暮だけ、そこには定家自身も消えている。それだけではなかった。そうすることで、何がリアルか何がヴァーチャルかは、少なくとも心の中では相対化してしまったのである。

Leave a Reply

Your email address will not be published.