稲懸大平

初めの程は、伊勢詣で何人連れなど書き、国所など麗しく記したりけるを、後には打ち戯れゆきて、さまざまの絵様などを、かきたるなん、多く混じり来ぬる。さるはいと浅ましく、あらぬものの形などを描きたり。さるは烏滸がましくて、顕はには、えこそまねばね。ただ思ひやるべし。又、幟の絵のみにもあらず、物の形をことさらにも造り出て、杖の先などにさして、口々に、大口とていみじきことどもを言ひ囃しつつ、或は手打ちならしなどもして、浮き立ちて、若き男はさらにも言はず、老人老女、また物恥しつべき若き女まで、よろづうち忘れて、物苦ほしく、かたはらいたく、世にうちし心とも見えず、万に戯れつゝ、行き交う様よ、あさましなど言ふも愚かなり。

3 thoughts on “稲懸大平

  1. shinichi Post author

    日本の歴史 17

    町人の実力

    by 奈良本辰也

     町や村から抜けてきた連中は、すっかり解放された気分に浸っていた。因幡の者も近江の者も、その解放された空気のなかで、すぐ友人になることができた。おたがいに冗談口をたたいているうちに、まるで10年の知己を得たようになるのである。

     抑圧された性の解放もあった。旅に出た解放感が、男にも女にも、封建的な性の呪縛を解いて、かれらを原始の性に立ちかえらせるのである。本居宣長の養子大平が書いた『おかげまうての日記』には、そのような性のたわむれを口々に言いはやしながら、浮かれて通り過ぎてゆく年寄りや若者、それに当然恥じらうはずの娘たちも平気でそれに和してゆく姿が記されている。

     それにつれて、京や大坂の道中筋では、報謝ということがしきりに行われていたという。宿は無料で泊めてくれる。食物もただでくれる。銭まで持ってゆけと言う。草鞋が切れれば新しい草鞋をくれる人があり、足を痛めた人には駕籠や馬に乗せて無量で運んでもくれる。笠や茣蓙は、どこでも新しいのが用意され、報謝を受ける人を待っているというのだ。

     しかも、ひとたび堰を切った勢いは、もうどうすることもできない状態になっていた。京から近江にかけて過ぎてゆく行列は、約150万人にものぼったという。わずか1月に足らない間の数字であった。

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  2. shinichi Post author

     寛政11年(1799)2月、稲懸大平(44歳)を養子とする許可が藩から下りた。

     願い出る宣長はこのように言っている。

     「私弟子大平と申者、松坂出生町人ニ而御座候所、実体成者ニ而、幼年より学問執心ニ罷在、格別心懸宜出精仕、和学歌学共段々上達仕候、私義不被召出已然より厄介同様ニ仕、取立遣候処、昼夜随身仕、他出等之節も暫も不離附添居候而、此度之出府ニも召連罷越候候事ニ御座候、私義段々年罷寄候ニ付、此上猶以介抱致貰ひ申度御座候、右之通幼年より倅同前ニ仕、不便を加、年久敷随身仕候恩義も厚ク御座候付、厄介ニ仕遣度御座候間、格別之御慈悲を以私厄介ニ被仰付被下候様仕度奉願候、以上」

      私の弟子大平は松坂の町家の生まれですが、真面目で、幼年の頃から学問に熱心で、人並以上によい心掛けで、努力し、和学も歌学びも段々上達してきた。私も紀州藩に召し抱えられる前からこの大平を、家族の一員のようにして目をかけてきたが、それに答えて、大平も昼夜私の傍にいて、余所に行く時も少しの間も離れず、今回の和歌山行きでも同行してもらった。私も年を取り、これからは面倒も見てもらいたいと思っているが、このように子どもの時から息子同前に扱い、大平には不便な思いをさせて、長く仕えてくれた恩義もあるので、厄介として家に入れたいと思います。格別の慈悲で許可をお願い致します、と言う文面だ。

     同年2月29日付、土屋安足差出宣長宛書簡で、大平を宣長の厄介とする許可が下りたことが報じられる。そして「大平生義、町方之戸籍を離、御家族ニ成候事ニ付、諸事右之通御心得御取扱可被成候」と書く。土屋は通称惣五郎、紀州藩奥御祐筆、大御番格である。

     以後、「親類書」への加筆、大平とその妻の寺請状や送手形など手続きが終わったのは3月であった。

     3月1日、本居家で内祝いが行われた(同日春村宛宣長書簡)。これは大平入家に伴うものであったと思われる。

     3月15日、長瀬真幸宛書簡に、大平が「此度拙者家族ニ相成」と報告される。

     寛政12年正月3日、宣長は机を大平に譲る。事実上の学統継承である。

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