寺岡克哉

現代人の多くは、「物質が原子から出来ていること」もまた、信じて疑わないと思います。今の世の中で、「私は、原子の存在を信じることが出来ない!」などと公言すれば、変人扱いをされてしまいそうです。ところが、以前に私が大学院生だった頃、「君は、原子の存在を信じているだろうが、それを万人が納得できるように証明することができるか?」と、教授から言われたことがあるのです。今ここで白状しますが、私には出来ません。つまり私は、原子の存在を盲目的に信じているに過ぎないのです。
「科学」と言えば、一見すると「盲目的な信仰」から程遠いもののような気がします。そして「科学」と「宗教」は、お互いに対立するものであり、相反するものであると、大多数の人が信じていると思います。しかし、「科学的な証明」はあまりにも複雑で、普通の人にはなかなか理解できません。本職の科学者でさえも、自分の専門以外の分野になると、なかなか理解できないほどです。だから、「この事実は、科学的に証明された!」と、その専門分野の科学者に言われれば、他の人はそれを信用するしかないのです。そのような状況なので、大多数の人間が、科学を盲目的に信仰してしまっているのです。つまり、大多数の人にとっては、科学が宗教になっているのです。これが、私の言う「科学の宗教化」です。
「宗教」を信仰する人間が「神の存在」を信じるのと、「科学という宗教」を信仰する人間が「原子の存在」を信じるのとでは、その本質的な意味合いにおいて、ほとんど差がないように私には思えるのです。

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13 Responses to 寺岡克哉

  1. shinichi says:

    科学という宗教       

    by 寺岡克哉

    http://www2.odn.ne.jp/seimei/essay65.htm

     現代の物質文明社会では、「科学」というものが「宗教化」しているように、私は感じています。
     しかしこれは、怪しげな新興宗教が、科学を利用しているという意味ではありません。
     私の言う「科学の宗教化」とは、「科学を盲目的に信仰する」ということです。
     これは、私も含めて大部分の人に、当てはまるのではないかと思います。科学者といえども例外ではありません。

     その一例として、例えばある人に、「電波は存在するか?」と質問をしてみます。すると、現代の常識人であれば、まず間違いなく「電波は存在する」と答えるでしょう。
     しかし、電波は見ることも触ることも出来ないものです。
     だから、「どうして電波が存在すると言えるのか?」と、さらに質問をすれば、ほとんどの人が答えに困るのではないでしょうか?
     例えば、「テレビやラジオ、無線、携帯電話などが電波を使っているから、電波の存在はそれで既に証明されているのだ!」と、答える人がいるかも知れません。
     しかし、我々が実際に見たり聞いたり出来るのは、テレビやラジオなどの映像や音声であって、「電波そのもの」ではありません。だからそれで、「電波の存在」を証明したことにはならないのです。
     その証拠に、例えば、「未知の波動や奇跡の力によって、放送局が映像や音声を送り出しているのだ!」と言われても、それに反論するのがなかなか難しいのです。
     つまり、大多数の人が「電波の存在」を信じているのは、科学者たちが言うことを、「盲目的に信じている」からです。
     「電波の存在は、科学的に証明されている。だから我々は、電波の性質を実際に応用することが出来るのだ!」
     「そして事実、テレビやラジオ、無線、携帯電話などを、我々は作り出したではないか!」
     と、科学者や技術者たちが言うのを、大多数の人間が疑いを持たずに、信じ込んでいるのです。

     かく言う私も、「電波の存在」を確実に証明することは出来ません。
     ところで私は、大学院生として、物理学の研究室に10年ほど在籍していたことがあります。実はそのとき、私はよく、電波をオシロスコープで観測していたのです。
     (オシロスコープとは、波形を見る測定器のことです。よく病院では、心臓の波形をオシロスコープで見ています。ピッピッと言いながら、オシロスコープの画面上に光の波線が写し出され、心臓が停止すると、ピーと言いながら直線になるやつです。)
     しかし、電波の波形をオシロスコープで見ても、実際に自分が見ているのは、オシロスコープに写し出された「波の形をした線」であって、「電波そのもの」ではないのです。
     そして私は、オシロスコープの使い方は分かっていても、「どうして電波が存在すると、オシロスコープが波形を写し出すのか?」は、よく知りません。
     だから、「オシロスコープとは、電波の波形を写し出すものなのだ」と、いうことを、「盲目的に信じる」しかないのです。
     一応そうしておいて、後は色々な電波を実際に観測し、その経験を積むことによって、「電波の存在」を確信して行くのです。
     例えば、電波を出す装置(発信器)の近くでは、確かにオシロスコープで電波が観測されること。そして、アルミ箔で電波を遮ったり、発信器から遠く離れたりすれば、オシロスコープの反応が確かに消えること。
     また例えば、電波を出す装置(発信器)を自分で作れば、確かに予定した通り(予定した波長や振幅)の電波が、オシロスコープで観測されること。あるいは逆に、予定した通りの電波が観測されなかったことから、発信器の設計ミスや故障が発見できること。そして、発信器の設計ミスや故障を直せば、やはり予定した通りの電波が観測されるようになること。
     このような経験を色々と積んでいくと、だんだんと電波の存在が、肌で「実感」できるようになって行きます。そしてついに、電波の存在を「確信」するようになるのです。
     しかしそれでも、私のこの「確信」は、「電波が存在する」ということを盲目的に信じているに過ぎないのです。なぜなら、私はオシロスコープの原理を、完全に理解している訳ではないからです。

     ところで現代人の多くは、「物質が原子から出来ていること」もまた、信じて疑わないと思います。今の世の中で、「私は、原子の存在を信じることが出来ない!」などと公言すれば、変人扱いをされてしまいそうです。
     ところが、以前に私が大学院生だった頃、「君は、原子の存在を信じているだろうが、それを万人が納得できるように証明することができるか?」と、教授から言われたことがあるのです。
     今ここで白状しますが、私には出来ません。つまり私は、原子の存在を盲目的に信じているに過ぎないのです。
     少し言い訳をしますが、「原子の存在」を証明するためには、化学、原子スペクトル、X線回折、半導体、量子力学などの、かなり高度な知識が要求されます。しかしそれでも、それは「原子を直接に見た」わけではありません。色々な実験による「間接的な観測データ」が、「原子の存在を想定した理論」と、一致するというだけなのです。
     最近になって、特殊な顕微鏡(走査型トンネル電子顕微鏡)により、原子が一つ一つの粒子として観測されるようになりました。しかしそれでも、それは原子を実際に見ている訳ではなく、「電気信号を画像に変換したもの」を、見ているに過ぎないのです。

     私でさえこうなのですから、いわんや世間一般の大多数の人は、「原子の存在」を盲目的に信じているに違いないと思うのです。
     「科学」と言えば、一見すると「盲目的な信仰」から程遠いもののような気がします。そして「科学」と「宗教」は、お互いに対立するものであり、相反するものであると、大多数の人が信じていると思います。
     しかし、「科学的な証明」はあまりにも複雑で、普通の人にはなかなか理解できません。本職の科学者でさえも、自分の専門以外の分野になると、なかなか理解できないほどです。
     だから、「この事実は、科学的に証明された!」と、その専門分野の科学者に言われれば、他の人はそれを信用するしかないのです。
     そのような状況なので、大多数の人間が、科学を盲目的に信仰してしまっているのです。つまり、大多数の人にとっては、科学が宗教になっているのです。これが、私の言う「科学の宗教化」です。

     「宗教」を信仰する人間が「神の存在」を信じるのと、「科学という宗教」を信仰する人間が「原子の存在」を信じるのとでは、その本質的な意味合いにおいて、ほとんど差がないように私には思えるのです。
     最近の新興宗教が、科学的な処方を取り入れようとするのも、以上のことが原因になっているような気がします。

  2. shinichi says:

    生命の肯定

    by 寺岡克哉

    文芸社

    交通事故死者1万人、自殺者3万人、テロと報復、生物・化学テロ…。閉塞の時代に問う「大生命」の人生観。

    ______________________________

    人間は、生まれたからには必ず死ぬ。
    そして、死を免れることは誰にも出来ない。
    私もあなたも、いつかは必ず死ぬ。
    もしかしたら、明日死ぬかも知れない。

    死んだ人間には生前など存在しない。生前の業績、徳、罪、財産、地位、家族、友人など、何もかもが一切存在しない。つまり、最初から生まれて来なかったのと全く同じ状態である。

    死は、自然の摂理によって与えられた絶対の真理である。全ての人間は必ず死ぬという意味で、自然法則的には全く同等の存在である。

  3. Anonymous says:

    「目に見えないものの価値」

    現代に生きる現代人は確かに目で見え、耳で聞こえ、匂いを嗅いで、更には手で触って確認してこそ、事物を認識している。しかし、認識の範疇を更に拡大して見れば、単に肉的五感で感得し得ない、物理化学的手法や心理的手法を用いて認識し得るものも確かに存在している事実を否定出来ない。先生のお話しの中には出て来る電波は其の代表例である。波の存在を目くじら立てて疑い否定する人は今の時代誰一人も居ない。おっしゃる様に媒体により其の存在を確認出来るからである。電波ばかりでなく五感で感得し得ない存在の方が、五感で感得し得るものより遥かに多い事に気付かされる。そして後者の方が内的価値が大きい事に気付く。地球に存在する光子や酸素、窒素、酸素、水素、何れも生命にとって無くてはならぬ物質である。しかし、いずれも五感で感知しづらい側面を持っているが明らかに存在して否定出来ない。
    今日の量子論は原子は素粒子に分析出来る。更に素粒子の起源はエネルギーを起源としていると解いている。さて、そうなると、通常、私達が考えている物質の概念が根本から見直さなければならない事になる。なぜなら、物質は単に目に見え触れるだけのものではなくなって来ているからである。処で通常私達が言っている心と言えば、やはり目で見る事が出来ない。心も無形、原子も無形、はたまた物質の究極であるエネルギーも無形である。私はここに何らかの共通分母を感じざるを得ないが、現代の科学はそこ迄語る事はない。又今日の哲学は心の究極を未だ解明する事は出来ない。人類の叡智はこの究極的根源を求めて止まない。

  4. Anonymous says:

    心の根源を求めた宗教と体の根源求めて来た科学の行き着く処とは何処なのか。人類はこの問い掛けにそろそろ解答を求めなければならない時期に来ていると考える。即ち唯心論と唯物論の戦いに決着を付けなければならない時がが迫っている。政治的には民主主義と共産主義との戦いに決着を付けなければならない時期に来ていると言う事である。即ち、心と体、宗教と科学、唯心論と唯物論、民主主義と共産主義、此れらの課題は一貫している。即ち人間とは何かと言う課題に集約、還元出来るからである。従って人間を分析検討する事で問題解決の糸口を捉える事が出来る。しかし、この様に言えば、反論もあろう。人間の分析検討は今に始まった事では無い、古来から人間はその事の為に探求し苦労して来たのではないかと?しかし、苦労し苦悶した結果がこの状態である。この状態とは何かと言えば、相変わらず飢餓、争い、殺戮、格差、不平等は後を絶たない。そして自然
    の脅威は今も続く。問題はその人間の分析検討。否「人間の再分析、再検討」が求められるのである。即ち次元を変えての再検討、再分析が求められる。続く。

  5. Anonymous says:

    人間とは何か?

    人間を分析すると機能性を持つ心と物質性を持つ体からなる。人間の物質性とは何か?人間の体を分析すれば細胞から成る分子の集合体であり、分子は原子の結合体である。つまり人間の体は質量の結合から成っている。一方で人間は心をその機能性として持っている。即ち心の機能性とは知性、情感性、意欲性を意味する。知性とは認識する能力であり、情感性は喜怒哀楽を司る機能であり、意欲性は欲望を司り決意決断を意味する。人間はこの与えられた知情意の機能性を駆使して科学を発展させ環境を整備して利便性を獲得して来た。又芸術はいわゆる文化を発展させ宗教哲学は人間の倫理道徳を高めた。ざっくり人間とは上記の如くである。
    さて、人間は単に物質的な側面だけを分析すれば科学的視点から、その概念を捉える事が出来る。しかし厄介なのはその心の側面である。心はその上記の如く知情意の機能的側面以外に、心を自由に扱う事が出来るいわゆる自我意識を持っている。この自我意識は人間固有な物である。即ち動物には無い特性であり、他在と区別し自己を意識する性質である。この自我意識は理性を基礎とする自由意識から発せられる。そしてその自由意識は一度欲望とリンクするとその思考と実践に於いて悪にも善にも変貌する。善悪に就いてはここでは論じない後述する事にする。
    いずれにせよ、人間は心と体の二重性を持っている事が理解出来た。続く。

  6. Anonymous says:

    それでは、何故人間於いて二重性があるのか?果たして人間の二重性は人間固有の物なのか?猿はどうだろか?猿を分析すると猿にも人間同様心と体がある。猿の体はその生理的機能性と構造は殆ど人間と変わらないとされる。では猿の心とは何か?猿も人間が餌を与えたり愛して可愛がったりすれば、可愛いしぐさをみせてくれたり、癒やしてくれたりもする。又何か簡単な算数や人間のモノマネもこなす事が出来る。即ち猿は人間と対応しその生態から言って明らかに人間と同様、知情意の機能性を持っていると見て良い。ただし人間の知性や感情性や意欲、取分け知性に関しては猿のそれとは次元が違う。そして猿には自我意識は無い。植物はどうだろか?植物にも知情意の機能部分は備わっている。しかし人間や動物の様に顕著では無い。むしろ知情意の機能よりも規則性の機能がより顕著である。即ち生命力と言った規定性が主である。鉱物や分子原子は殆ど規則性で規定されている。ここで興味深い実験を紹介する。植物に微弱な電流を流し針が反応する仕掛けを作り実験した結果。人間の感情に植物が反応した結果をまとめた。(バクスター効果)
    以上、人間同様、殆どの存在物に於いて存在の二重性がある事が分かる。即ち心と体の二重性、即ち相対性の原則に規定されている事が分かる。折しもアインシュタインは理論物理学に於いて相対性理論を発表している。
    続く。

  7. Anonymous says:

    「存在の相対性原理」
    前述に於いて存在の二重性に就いて証した。この存在の二重性は客観的事実であり疑う事が出来ない真理で在る。従って、以後の論述の基準となり、真実を証す上での重要な原点になる。
    さてここで、もう一つの真実に触れなければならない。それは何故人間に男と女の両極性が有るのか?これはもまた疑う余地の無い真理である。最も最近ではLGbTと称して男なのか女のかその本質を曖昧にして、性の多様性を強調し男でもなければ、女でもない文化が横行しているが、その良し悪しは後述するが、自然界の基本は人間に於いては男と女、動物に於いてはオスとメス、植物に於いては雄しべと雌しべ、更には、物質を構成している分子は陽イオンと陰イオン、原子は核+と電子−、これもまた普遍的事実である。余談であるが、私は小さい頃より何故この世は男と女なのか?何故僕が男なのか?この事が素朴な疑問であり、解決し得ない真理だったのである。即ち、男と女、陽と陰の関係性は心と体同様、相対的関係性を持っている。では心と体と陽と陰の関係性は如何なる関係なのか?その前に重要な事が抜けていたので改めてここで述べて置く。即ち心と体は如何なる関係か?これは存在の根源を探る上えに於いて重要な鍵を握るものである。即ち心と体の関係は主体と対象の関係性ある事を明晰に述べたい。体は心の命令に従い動じ静ずる様に成って居る。心で計画を練り体で実践し目的を成し遂げるのである。動物は本能と言う人間で言う心の機能を主体に行動している。植物は生命と言う心の機能部分を主体にして対象である個体を維持している。例えば、ひまわりは太陽の動きに合わせ首を移動させる。根は地中にある水と栄養分を求め根を伸ばすのである。分子は主体としての物理化学的機能性とその対象としての質量を持っている。
    即ち全ての存在は主体と対象の相対性の原理に依って規定されている事が理解出来る。
    次に存在の陽と陰の関係、人間で言えば男と女の存在論的関係性は如何なる関係であろうか?結論から言えば陽陰の関係は主体と対象の関係であり当然人間に於ける男と女の関係は帰納的に見ても主体と対象の関係である。
    次に、それでは心と体そして男と女の存在論的関係は如何なるものか?即ち機能と物質、そして陽と陰の関係は如何なる関係か?結論から言えば陽陰は心と体の属性である。即ち存在の本質はあくまでも心と体であり、機能的側面と質量的側面が事物と存在の本質的実体である。ただし、存在の現れかた即ち現象として陽性と陰性、或いは人間の場合、男と女に表象される。従って、事物や存在の実体を言を言う場合、心と体、精神と物質、機能と質量を指す。そしてこの「相対性の原理」は自然や存在に於いて普遍的に規定された言わば、宇宙の原理原則なのである。
    続く。

  8. Anonymous says:

    「授受作用」の法則

    存在の本質は心と体の相対性原理だと論述した。しかし、存在界には相対性の法則ばかりでなく、その相対性の法則を基本にしたもう一つの法則があった。それが授受作用の法則である。即ち存在物は全て心と体の相対性に依って成り立っている。言い方を変えれば精神と物質の相対的関係性で成り立っているのである。それが事物の本質である。その事は前述した
    。さて、事物が存在する為には力が必要になる。それは物理学の基本となるニュートン力学の運動法則で明らかにされた。彼の運動法則には慣性の法則、運動の法則、そして作用、半作用の三大法則があるが、存在には必ずある力が作用しなければならないと言う事である。言い方を変えれば、存在を認めると言う事はその背後にある力を認めると言う事である。
    即ち「存在と力」は一つの存在の両側面である。つまり存在がある処に力かなければならないし、力がある処に必ず存在があるのである。さてそれでは何故、存在ある処に力があるのか?それは、主体と対象がお互いが授受作用をしているからである。即ち必ず主体は対象に対して先に授け対象は受ける。次に対象が主体に対して授けると主体はそれを受ける。この作用を授受作用と言う。全ての存在は例外なくこの授受作用無くては存在する事が出来ない。即ち全ての存在は授受作用を通じて生存、作用、繁殖の発展運動をしているのである。従って「授受作用の法則」は存在論的真理である。ここで自然界には様々授受作用に反する事象が幾つもあるのではないかと反論する人もいるだろう。例えば、自然界で良く目にする弱肉強食の場面。ライオンがシマウマを捕食したり、ライオンがオス同士で争う場面を見ると反論したくなるが、オス同士の争いはより強い種を残す為であり、そのグループの秩序の維持の為である。人間に於ける争いは自然界の摂理ではない。人類の争いは、人間が本来の位置を失い堕落したからである。この事は後述する。いずれにせよ、自然界には授受作用の法則のみが厳然と存在していると言う事実だけである。最後にもう一度整理すると自然と宇宙の根本的法則と原則は「相対性の法則」と「授受作用の法則」のみである。
    続く。

  9. Anonymous says:

    「存在目的」①

    存在目的に就いて論ずる。そもそも存在に目的は無いと主張するのが唯物論の考え方である。即ち存在の根源を物質と捉え
    、そこに法則性は認めるがその法則性に目的を認め無い立場に執着しているのが唯物論である。何故か?その法則の背後に目的を認めてしまったら、唯物論は根本から崩壊するからである。現代科学は基本的にはこの立場をとっている。そして教育の現場ではこの現代科学を基礎に教育が成されている。即ち唯物論教育が教育の中心理念になっているのである。従って学校を卒業すれば、多かれ少なかれ唯物的考えに洗脳され、誰彼関係なく唯物論的人間が完成すると言う訳である。そしてこの現実は多くの指導者達も気づいていないのが現状である。そもそも、学校指導者の多くが唯物論者達である。さて話しは教育論迄展開してしまったが、存在の本質の問いかけは結局は教育の問題まで反映すると言う事であり、もっと言えば、現代社会の考え方の基礎にこの唯物論が横たわっているのである。その結論、現代社会は数知れない多くの犯罪社会を完成させてしまった
    ここで話しを戻し、結局、存在の根源をどの様に捉えるかに依って物の価値観が根底から変わってしまうと言う事であり、その結果、人生観、社会観、世界観、歴史観に迄左右し連結される重大な問題が内在している根源的問題である。
    従って、物事の本質をどう捉えるか?存在の根源が何かを明晰、判明にする事が急務である。即ち事物の根源、存在の根源は物質なのか?ここにメスを入れなければならない。そこで先ず物質とは何か、を見てみる事にする。辞典を調べると

    哲学)感覚によってその存在が認められるもの。人間の意識に映じはするが、意識からは独立して存在すると考えられるもの。
    科学)物体をかたちづくり、任意に変化させることのできない性質をもつ存在。空間の一部を占め、有限の質量をもつもの。

    と表記されている。これに対して「相対性の法則」「授受作用の法則」の観点から分析解明する事にする。

    科学)空間の一部を占め、有限の質量を持つものと言っている。確かに肉眼や触感で感知可能なのであらから物質である。しかし、果たしてそれだけか物質の本質なのだろか?ここで、前にも述べたが、今日の量子論は素粒子の最小単位をエネルギーと明記している。さて、そうなると一般的に持っている我々の物質の概念が根底から覆って来る。勿論、光や空気は目で見えないが常識的には通常物質と判断しているが、更にその究極にエネルギーがあった事は一般的には余り知られていない。しかし、物理の世界では常識になっている。
    人間の常識が如何に科学に対して無知であるかを物語っている。即ち通常我々が一般的に使用している常識が如何に曖昧であるかを知らなければならない。常に常識を疑い客観的観点、科学的観点に立った視点が求められる。

    哲学)意識に反映され、意識から独立している客観的実在と明記している。果たしてそうだろか?今日迄の哲学宗教はデカルト
    やカント以来、意識に関する事のみを論じて来た。即ち心の実在を論じて来たのである。しかし、ここに来て果たしてその心の実在がなんであるのかを探り得たのだろうか?残念ながら否である。数多くの哲学宗教はあったが未だ嘗て心の実在が何なのか不明なのである。即ち心の実体が不明のまま、その心から独立しているのが物質と言われても整合性がない。
    続く。

  10. Anonymous says:

    「存在目的」②

    引き続き意識の実体、心の実体に就いて論ずる。即ち今日迄の哲学宗教は簡単に言えば唯心論である。何故なら物質的科学法則を一切無視し、ただ心の有り様のみを論じて来たからである。ここに今日迄の哲学宗教の問題点或いは限界点を指摘せざるを得ない。この指摘は今の社会や教育の問題に於いて無関係でない。その一つが倫理道徳の低堕落である。殺戮犯罪がもはや法や一般常識を越えて日常的に行なわれているではないか。この現実を哲学宗教に携わる者達はどう考えているのだろうか?ただ観念論を振り廻しているだけですまされるのか?
    意識や心の問題は物質的問題以上に深刻であり重要である。何故なら「相対性の原理」により心は体の主体だからである。
    従って、心の実体とは何かをここに於いて明晰にしなければならない必然性が出て来る。
    「相対性の原理」により全ての事物は主体と対象の相対性に依る。従って対象である物質は主体である心に従ってこそ調和が維持されている。即ち主体である心に体が従ってこそ人間としての人格が保たれ、環境も人間か主体の位置で良く管理してこそ環境自然に感謝出来るのである。即ち心は単に心のみを追求して科学や物質を無視した唯心論はもはや過去の遺物である。即ち哲学宗教はもっと科学的思考をもっと多く取り入れるべきである。即ち心の実体を科学的手法を用いて解明すべきである。
    逆に言えば、科学はもっと哲学宗教的手法を取り入れるべきである。即ち物質の根源や宇宙の起源に就いて、その背後にある意思や目的を認めるべきである。今日
    、アメリカを中心に「ID理論」が叫ばれている。これは従来の生命の起源を単に物質と捉える謂わば「進化論」に対して「インテリジェンス デザイナー」即ち生命誕生の背後に、あらかじめ宇宙と生命を計画し設計した存在を認める考えである。
    これの良し悪しは別として、「ID理論」
    は既存の唯物論的価値観を根底から覆す正にパラダイムシフトである。何故なら
    「相対性の法則」から見ても充分整合性が取れているからである。即ち無形の心である計画や設計が主体的に策動し、対象である有形の体である生物に関わったからである。従って「ID理論」は今後その普遍的価値が認められるに違いない。
    続く。

  11. Anonymous says:

    「存在目的」③

    ー進化論の功罪ー
    ここで、どうしても進化論に就いて論じて置かなければならない。前述した如く進化論は、唯物論をパラダイムとしてダー
    ウインが「種の起源」で全ての生物は突然変異と弱肉強食の自然淘汰に依って進化したと仮説を立て、未だにこの仮説が学校教育の現場で公然と行なわれている。そしてその影響は計り知れない。
    さてここで進化論の功の側面を見てみる
    。ダーウインが誕生した当時のヨーロッパはフランス革命後、当時の主導理念であったキリスト教が腐敗し形骸化し、それに変わって神に頼らない理性を中心とした人間中心主義いわゆる啓蒙主義が台頭した。啓蒙主義は啓蒙思想を背景に持つ
    。そして啓蒙思想は形骸化した神を中心とした信仰態度に対する反発からのものであった。即ち理性と合理性を排除した信仰態度を痛烈に批判して誕生したのが啓蒙思想である。従って啓蒙思想は唯物論
    をその母体とした。取分け当時の機械的唯物論が主導理念であった。ダーウインはこの影響を基礎に進化論を展開して行く事となる。さて、ここで話しを戻し進化論の功の側面であるが、既に論述した様に啓蒙思想は形骸化したキリスト教に対する痛烈な批判であった。それは何を意味するのかと言えば、唯心論に対する批判を意味している。理性と合理性を一切無視したその信仰態度に対する批判である。ダーウインは盲目的信仰と切り離し理性と生物学的側面からのみ生物の起源を論じた。それは今迄の過去の概念になかった新しいアプローチである。即ち信仰にのみ囚われていた既存の価値観との離別を意味していた。事物を理性と科学で追求する幕開けだったに違いない。
    その後、科学的なものの見つめ方は自然や環境ばかりでなく哲学にもその影響を与えた。デカルトは数学者でありその合理的思考は理性論を哲学の分野に紹介した。勿論、ダーウインばかりではないが
    ティドロ、フォェルバッハはその流れを
    汲む。いずれにせよ、彼らは人間に盲目的信仰の呪縛から理性と科学に目を向けた功労者であるのかも知れない。
    しかし、その功労虚しくダーウインの真理探求の手方は余りに独善的であった。科学は客観的真理である。従って客観性を無視した真理なるものは、それこそ自然淘汰されるのである。
    続く。

  12. Anonymous says:

    「存在目的」④

    さて、今日の最先端科学は存在の背後に目的論的アプローチを与えている。それが前述した「ID理論」である。またアインシュタインをはじめとする理論物理学である。
    勿論、今日の科学が物質の根源と宇宙の起源を解明したのかと言えば嘘になる。しかし、その前段階に迄レベルは到達している事は間違いない。
    そこで、「相対性の原理」を武器にこの本質を解明する。即ち、前述した様に今日の量子物理学は物質の根源をエネルギーと明記している。それではそのエネルギーの背後には何があるのか?実験に依れば物理的真空に振動を与えるとある決まった原子が飛び出す。それも連続的ではない、段階的に飛び出すのである。しかもその波動に応じ決められ原子が飛び出すのである。これは一体何を意味するのか?
    即ち原子はランダムに飛び出すのではなく、ある規則性に則って飛び出すのである。それは恰も音階に従って音が飛び出すのと同じである。音階は決められた音律に従い音が出て音楽が成っている。同様にエネルギーの背後に物質形成に於ける設計が無ければどうしてエネルギーから原子形成に至るプロセスで決められた型が生じるのか?説明がつかない。ここで唯物論的思考では全ては偶然の産物であり、偶然には後も先も無いと強弁して終わりである。果たしてこの態度はより客観性を求める科学の真の態度であろうか?
    ここで、唯物論と唯心論の考え方の違いに就いて述べる。例えば雷である。唯心論者は雷が鳴れば、これは神の何かの怒りであるから鎮めてもらう為に神に祈るのである。しかし唯物論者は大気と地上の間で起こる放電現象と見て軒下に隠れるのである。この様に思考の捉え方に依って全くその行動迄違って来るのである。
    さて、話しを戻すが今日の科学はエネルギーの背後に意思がある事を捉えようとしている。又、「ID理論」はそれをある意味認めた事を公言にしているのである。
    さて、以上の観点をまとめると、存在の根源は少なくとも唯物論でもなく唯心論でもない。即ち存在の根源的本質は無形の実体である。つまり無形なるエネルギーの主体であり、無形なる意思の主体と言う事が言える。それは相対性の原理から推測可能だからである。即ち主体と対象の関係性や原因と結果の関係性から見ても論理に合う。即ち人間と宇宙の存在はあくまでも対象的実体存在であり、それらを計画意図した存在の主体が無ければ理論に合わない事が分かる。それでは存在の究極的実体とは如何なる存在か?以上の観点から究極的実体は心と体の中和的主体であると断定出来る。即ちエネルギーの主体であり、心即ち理性と法則の主体であると言う事。それが中和されている実体であると言う事である。言い方を変えれば、心と体の同一存在の両側面である。従って究極的実体は既存の価値観である唯心論でもなければ唯物論でも無い。即ち究極的中和的実体である故に唯一論或いは統一論である。

  13. Anonymous says:

    「存在目的」⑤

    ここで、「相対性原理」と「授受作用の原理」の観点から改めて、存在目的に焦点を合わせ論じる。今日迄人類は人間は何の為に生きるのか?その目的とは何かを求めた。或いは真の価値とは何かを求めて来た。しかし、一様にその答えを未だ見い出し得ていない。何故か?それは人間自体が結果体であるからである。即ち結果体に動機と目的があるのではない。主体の中にその動機と目的があるからである
    。つまり、人間はあくまでも結果的実体であり対象的実体である。従って存在の動機と目的は主体的実体と原因的実体の心と体にその根源的核心がある。即ち原因が分からす結果を正確に理解する事は困難であるのと同じである。
    それでは、人間にとって主体的実体であり原因的実体とは何か?それは存在に対する主体であり原因を意味する。何故なら人間は自然万象の全ての要素を具備している。即ち自然界に存在する構造、機能、要素を全て人間は具備しているからである。それゆえ人間をして小宇宙と呼ぶのである。従って、人間は全宇宙の代表であり万物に対する主体である。それでは万物に対する主体である人間の原因者、主体者は誰であるのか?「神」である。
    しかし前述した様に、ここで言う神観は唯一論、統一論の観点に立った神観である。即ちユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教を意味し、一方で科学的に第一原因の本体を意味する。
    更に言えば、人間にとっての主体者は父母である。即ち神と人間の関係性は父子の関係である。ここに於いて、長い間争って来た「唯物論」と「唯心論」の戦いに終止符が降ろされた。
    それでは一体、存在の目的、即ち「存在目的」とは何かを明らかにする。前述した様に存在目的は原因者の中にある。即ち原因者がなんの為に人間と宇宙を創造したのかが解れば良い。即ち神の「創造目的」が従って存在者の「存在目的」である。「存在目的」は正確には「被創目的」である。それゆえ、神が如何なる動機と目的を持って被造物を創造されたのかを正確に知らなければならない。それらが鮮明と明晰を持って理解されてこそ、人間と万物の真の存在目的と真の価値や意義が理解される事になる。即ち人間とは何か?或いは死後の問題、人間と自然環境の問題が見えて来るのである。
    続く。

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