井上靖

未知のどんな風景に接しても、長年見たいと思い続けて来たものを見ることができても、そうしたことは自分の見聞に何かが加わっただけのことであって、もともとそれを見るか、見ないかだけの問題である。そうしたことより、やはり旅先においての慌ただしい人との出会いや、別れは、旅から帰ったばかりの私の心に、いちおう気持ちの上で整理しておかなければならぬこととして遺されているようである。厄介なことに、それは日が経つにつれて消えて行き、ついには跡形のないものになってしまうものである。ただ旅から帰った何日かの間だけ、それが持つ本来の意味を失わないで、爽やかに心の中に坐っていたり、ひっそりと置かれていたりする。旅におけるかりそめの、やがて記憶から消えてしまう人との別れが、暫く自分を一人にして置きたいのである。

3 thoughts on “井上靖

  1. shinichi Post author

    わが一期一会

    by 井上靖一

    1974年5月5日から1975年1月26日まで、毎日新聞に39回にわたって書かれた随筆をまとめたもの。別離について、旅情について、詩について、人生について、シルク・ロードについて、最近思ったこと、感じたことなどが書かれている。

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  2. shinichi Post author

    こういう勝手なことを言えるのも、私が小説家という極めて自由な形の職業についているからである。そしてまた、小説を書く上に、ものを考える時間が一番大切だからである。暇な時間ができたから、さあ、ものを考えようといった、そういう考え方でなく、自然に向こうからやってくる思いを、ごく自然に受けとめて、その中に入って行くことができるようなそんな時間が欲しいのである。

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