原研哉

古来より日本はエンプティネスを運用してきました。昔の日本人は自然の中に神様がいると考えていて、その神様を呼び入れるために空っぽの神社をつくりました。中身は空っぽだけど、ひょっとしたら神様が入るかもしれないという場所です。つまり日本人は、そこにある可能性を拝んできたのですね。それが日本のエンプティネスの源流です。室町時代に生まれた銀閣寺や茶の湯、また日本の国旗の赤い丸も同じ流れの中にあります。それらはすべて、どんな意味も自在に受け入れる空っぽの器として、あらゆる可能性を内包します。
一方、シンプルという概念は150年ほど前に生まれました。それ以前の世界では、国を治める絶対的な力の象徴として、あらゆるものに複雑な文様が刻まれていました。中国の龍や渦巻きの模様、イスラムの幾何学模様、バロックやロココ様式など、世界は複雑性に満ちていました。しかしそんな情勢も、社会の中心が王から個人へ移ることにより一変しました。力の表象としての過剰な装飾は消え、モノと人間の関係性を最短距離で結ぶかたちが合理的だと考えられるようになりました。そこにシンプルが誕生したのです。

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4 Responses to 原研哉

  1. shinichi says:

    日本はシンプルではなくエンプティネス。

    それはあらゆる自在性を受けとめる空っぽの器。

    by 原研哉

    http://www.ndc.co.jp/polylogue/report120918/

    この世界には、デザインされていないものは存在しません。この椅子の先についたゴムだって、このペットボトルのキャップだって、誰かにデザインされている。つまり、すべての場所、すべての環境に人間の叡智が蓄えられているのです。そのことに気づくことで、世界に対する見方は一変します。きしみはじめた世界を生き延びていくため、デザインは人類共通の教養としてますます大事になってくると思います。

  2. shinichi says:

    日本のデザイン

    美意識がつくる未来

    by 原研哉

    2    シンプルとエンプティ ─ 美意識の系譜
     
        柳宗理の薬缶

        シンプルはいつ生まれたのか

        なにもないことの豊かさ

        阿弥衆とデザイン

    世界が「力」によって統治され、「力」がせめぎ合って世界の流動性をつくっていた時代には、文化を象徴する人工物は力の表象として示された。・・・そのような環境下では、簡素さは力の弱さとしてしか意味を持ち得なかった。

    しかしながら、決定的な変化が近代という名のもとにもたらされる。近代社会の到来によって、価値の基準は、人が自由に生きることを基本に再編され、国は人々が生き生きと暮らすための仕組みを支えるサービスの一環になった。・・・

    その流れに即して、物は「力」の表象である必要がなくなった。椅子は王の権力や貴族の地位を表現する必要がなくなり、単に「座る」という機能を満たせばよくなった。・・・

    資源や労力を最大限に効率よく運用しようとする姿勢に、新たな知性の輝きや、形の美が見出されてきた。これがシンプルである。

    *

    長次郎の「楽茶碗」に出会ったのは京都の楽美術館である。その衝撃は今でもくっきりと脳裏に刻まれている。黒くて丸みを帯びた茶碗の魅力に吸い寄せられ、展示台のガラスケースが鼻息で曇るほど見つめてしまった。まるですべての意味やエネルギーを吸い込んで黙するかのような無光沢のかたまり。膨張・拡大するのが宇宙なら、おなじ宇宙を凝縮へと向かわせると、こんな風になるかもしれない。形は簡潔だが、これは「シンプル」とは呼べない。合理性では到達できない、別の美意識がそこに息づいている。

    その簡潔さは形の合理性を探求した成果でもなければ偶然の産物でもない。「何もない」ということが意識化され、意図されている。空っぽの器であることによって、人の関心を引き込んでしまう求心力として「エンプティネス」は体得され、運用されていたのだ。・・・

    その理由はおそらくは応仁の乱という大きな文化財の消失が京都を襲ったことに起因するのだろうと考えている。

  3. shinichi says:

    原研哉著 『日本のデザイン ー 美意識がつくる未来』 (2011 岩波新書)

    メザニン号漂流記

    http://d.hatena.ne.jp/TOOFAR2/20111027/p1

    2009年から岩波の『図書』に連載されてきたエッセイをまとめた新書。当初、著者は本書のタイトルとして『欲望のエデュケーション』がふさわしいと考えていたそうです。それじゃ新書のタイトルとして何だかわからんでしょう、ということで岩波の編集者が『デザイン立国』にしたらと逆提案。結局『日本のデザイン』という題名に落ち着いたとのこと(「あとがき」より)。

    内容からみると『デザイン立国』の方がしっくりきそうな部分があります。さまざまな意味で、潮がひきはじめた日本という国が、まだ「未来」にむかってもっているとみられる「デザイン」の力。それをあらためて見つめ直してみようという本。

    ちょうど、アーレントの『人間の条件』を読み終えたところなので、原研哉という人を「労働」「仕事」「活動」の三様に則して分類してみると、「仕事」をする人と「活動」する人の両面を上手にブレンドしてもっている人といった印象。つまり、インダストリアル・デザイナーとして「工作人」であると同時に、「『もの』ではなく『こと』の創造に携わってきた」と自らを定義しているように、デザインを通して多数の人々とコミュニケーションをなすことで、デザインの価値、在り方を発信してきた人といえるかもしれません。

    親しみやすい語り口で書かれているので2時間もあれば読了してしまいます。とびきり新しい概念が示されているわけではありません。しかし、実際にデザインの現場に携わってきた著者らしい実感に裏打ちされた部分が多く、いくつか示唆に富んだコンテンツが書き込まれています。

    たとえば、これからの「家」をめぐる考察。

    ・・どうやって自分の生き方にぴったり合った「住まいのかたち」を獲得すればいいのだろうか。不動産会社のチラシによって喚び起された欲望ではなく、おお、これぞ我が暮らしと、手応え十分に覚醒できるような家をどうやって探し当てたらいいのだろうか。それはさして難しいことではない。目をつぶって「へそ」を指せばいい。自分にとって一番大事な暮らしのへそを、家の真ん中に据えればいいのだ。
     たとえば、風呂が好きなら、2DKの風呂のように控えめな位置ではなく、一番日当りのいい場所に、立派な風呂場を設ければいい。さらに言えば、家全体が風呂のような空間をしつらえてもいい。じめじめした暗い空間ではなく、明るく爽快で、開放的なスパのような居住空間である。

    原研哉という人は、この本の「観光」という章で、旅館の「もてなし」などにもふれているように、温泉が、風呂が好きなのでしょうねえ。わかります。私もこの「風呂のような家」というのはいつか建ててみたい。原がいうように、人によってはこれが、「ベッドだけの家」でも良いのだろうし、「キッチンのような家」でもいい。この提言は、昭和時代にこびりついた「nDK研究」(西山夘三)に端を発する画一的な日本の居住空間思考をさらっとリセットしてくれる力があります。

    高級旅館といわれる宿に共通している「簡素さ」。「簡素極まった空間」でこそ、人の感受性は高まる。

    栃木県・那須の超高級旅館「二期倶楽部」に関与した原らしい洞察。これは浴室にもいえることで、例えば、本書とは関係しませんが、軽井沢・星野リゾートの本丸「星のや」の内風呂は真っ白な無音空間と真っ暗な暗室風呂が名物。余計な装飾はない。そこでは人肌より少し高めに調整された源泉が、感受性で開かれた毛穴の中まで染み通ってくるような快がえられます。

    古来、「力」の顕示から生み出された複雑で豪奢な中華・西洋のデザイン。そして「力」が不要になった後の社会に登場し、いまや身の回りのデザインの主流となっている「シンプル」さ。「複雑さ」の時代があってこそ「簡素さ」の時代が訪れた。原は太古の遺跡のもつ簡素さは「まだ複雑さを経由していない」プリミティヴな美として、現代の「シンプル」さと区別します。軽いエッセイだから、むしろ、こんなデザインの歴史的転換のダイナミズムがストレートに伝わってきます。

    ヨーロッパでは150年くらい前にみられるようになった「シンプル」の価値。原は、日本ではその価値が、欧州よりずっと昔、足利義政の時代に、「エンプティネス」つまり「何にも無い」という価値の発見から、「簡素さ」の美として受け継がれてきたと指摘します。それが明治維新、敗戦、高度経済成長という生活上の大きな変化の中で、いつのまにか埋没し、簡素さの逆、つまり過剰な所有欲から生じる見苦しい空間美意識に化けてしまった。

    しかし、退潮の時期を迎えた今の日本こそ、「捨てる」ことで簡素さへの美意識を復活させようとしている。著者のこの観測はやや楽観的にもみえますが、ひところ「断捨離」などという言葉が主婦たちの間で流行ったように、「もたない生活」が確かに認知されてきているようにも感じます。もう「モッタイナイ」の時代ではなく、「そもそもいらないよ」という時代へ。そういうことなのでしょう。

    「デザイン立国」というテーマでみた場合、最も印象的なのは「未来素材」と題された章。ここでは日本の大手繊維メーカーの必殺技ともいうべき驚愕の新素材がデザインとしてどう起立するのか、実際にプロジェクト(TOKYO FIBER/SENSEWARE)に携わった著者によって具体的に紹介されています。

    旭化成の「スマッシュ」をつかったマスク、東洋紡のスプリング構造体「ブレスエアー」、三菱レイヨンの光ファイバー「エスカ」、帝人の超極細繊維「ナノフロント」、ユニチカの高分子素材「テラマック」、クラレの導電性繊維「クラロンCE」、東レの炭素繊維「トレカ」。ネーミングだけでも凄そうな素材たち。動画サイトでいくつかいまでも観ることができます。しかし、実際にこれらのプロダクツを触知できたらどんなに楽しいだろうかと思わせる内容。特に日産キュープを「笑う車」に変身させた新素材。写真をみただけで笑えてしまう。

    ところで、「ものづくりニッポン」とか「クール・ジャパン」という言葉を私は好みません。前者はすぐに大田区や東大阪あたりにみられる「町工場の職人たち」の人情噺的イメージにくっつくし、後者は結局、「萌え」の吐き気に還元されやすい。本書ではこういう常套句的発想は回避されていて、前述の未来素材にみられるように、もっと現実的にこの国がもっている「モノ」とデザインの力を知らしめてくれます。

    以前、あるメーカーに勤めていたとき、クリエイター、デザイナーの人たちにクライアントとして接する機会が多くありました。接していてこちらに「驚き」をあたえてくれる「できる」デザイン人に共通していたのは、著者が以下に指摘している室町時代のデザイン集団「阿弥衆」のような感覚でした。

    美と感覚を交換させて日々を過ごすことと、時の力に請われてこれを供していくことの間には、必ず微妙な葛藤が生じてくる。時の力は自分たちの技や才能の発露をうながす土壌すなわちクライアントであるが、美を差配する現場に精通する人々に養われてくる感覚は、常にクライアントの思惑を超えて過度に成熟する。この過度なる感覚の成熟や横溢をこそ文化と呼ぶべきかもしれない。

    陳腐な「ものづくりニッポン」ではなく、真の先端技術と「.阿弥」(拡張子としての「阿弥」)的先駆性が合体し、それを「簡素な高級旅館」のセンスで世界に提供すること。まとめると「日本のデザイン」のこれからの力はこんなアスペクトをもって出現してくるのかもしれません。

  4. shinichi says:

    (sk)

    原研哉の「日本のデザイン」、特に第2章の「シンプルとエンプティ ─ 美意識の系譜」

        柳宗理の薬缶
        シンプルはいつ生まれたのか
        なにもないことの豊かさ
        阿弥衆とデザイン

    は、とても良かった。

    デザイナー、恐るべし。。。だ。

    Alex Kerr が「美しき日本の残像」のなかで指摘していた「首をひねりたくなる光景」が日本中に現れてきた理由が、はじめてわかった気がした。足利義政の時代からの「エンプティネス」の流れである簡素さが、明治維新に入ってきた「シンプリシティー」によって姿を変え、敗戦と高度経済成長のなかでの過剰な欲望によって「首をひねりたくなる光景」に変質してしまったのだ。

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