塩谷喜雄

人々が原発に抱いていた漠然とした不安は、福島原発の事故によって、圧倒的な現実となった。10万人を超す人々が地域社会と生活を奪われ、人生に多くの困難を抱え込まされている。
いわれなき理不尽な不幸を人が受け入れるには、真実を知ることが最低条件だと思う。天災ではなく、明らかな手抜かりと対応の失敗による事故なのに、事故現場はすぐ眼前にあるのに、避難民が納得できるような事故の全体像はいまだに「報道」されていない。メディアが流すのは、刑事責任が問われる当事者の発表をただなぞった、「広報」の類がほとんどだ。
圧倒的な現実として露呈した原発システムの破綻、その実像をとらえて、分析して、評価するのが、科学ジャーナリズムの役割である。そこに切り込まなければ、原発を包む黒い霧は晴れない。何やらまがまがしい印象だけが独り歩きして、事故前と同じように、遠くにかすんで内実は不明の巨大な伏魔殿が、そのまま存続することになる。
推進と廃止の二項対立から距離を置くという名目で、各原発の個別具体的なリスクを見極めず、原発システム全体に共通する構造的な欠陥もほとんど見逃してきた科学ジャーナリズムは、これだけの圧倒的な現実もまた、やすやすと看過し、広報の担い手に徹するのだろうか。
3月11日に福島第一原発で何が起きたのか。すべてはここから始まる。ここをすっ飛ばした収束・復興議論は、いかにもっともらしくても、いかに厳かでも、科学的、技術的には無意味である。

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