何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。
時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にかその市になっているのだったら。――錯覚がようやく成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。
檸檬
by 梶井基次郎
青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/424_19826.html
(sk)
現実の「私」自身を見失ったなかで見るのは、幻想なのだろうか。それともそれはバーチャルか。
丸善の棚に本当に檸檬を置いたとすれば、それは現実だということになるのだけれど。。。
でも、そもそも丸善の棚に檸檬を置いてなんかいなければ、すべては妄想が作り上げた絵空事ということになる。
丸善の棚に置かれた檸檬が爆弾なのだという想像は、実在する「私」にしかできない。想像した「私」は、間違いなくそこにいる。
「私」の作り上げたバーチャルな世界。その世界も、そこにある。
「檸檬」は、とても好きな小説だったのに、今では内容を全く思い出せないのです。