JR東海

wabi-bi磁器の活況を横目に、伊万里の隣町で静かに陶器を焼き続けてきたのが唐津だ。唐津焼の真骨頂は安土桃山時代に完成し、江戸時代に花開いた「茶の湯」の茶器にもっとも現れている。いわゆる「わび茶」の「わび」を表出する作品群で、伊万里焼伝統の華麗で完成された美しさとは対極に位置する。釉の発色は質素で、しかし使うほどに風合いを増す素朴な土の世界。眺める人、使う人がやがて器を完成に導く、完成一歩手前の境地に佇む世界だ。

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  1. shinichi Post author

    ~唐津・伊万里~唐津の「わび」・伊万里の「美」|九州の旅行、ツアーなら、JR東海の『旅行へ行くなら、新幹線。』

    http://n-kyushu.jr-central.co.jp/kanko/saga/002/002_ksim_kw/

    陶磁器文化の出発点。唐津・伊万里。

    唐津はかつて人口密集都市だったことがある。1591年、豊臣秀吉がここに名護屋城を築き、周辺に諸国大名の陣屋を配した。秀吉は翌年から朝鮮に出兵。兵員は最大で20万人、駐屯は10万人に及んだというから、その人口過密ぶりが伺える。

    この文禄・慶長の役(1592年~1598年)の戦の折に、遠征軍各藩が朝鮮の陶工を日本に連れ帰った。これ以降、日本の焼きものは大きく発展する。そのため、唐津焼や伊万里焼の中には中国様式の影響を色濃く残すものもある。唐津と伊万里は、朝鮮半島と中国大陸の影響を受けながら日本独自の陶磁器文化を築き上げたと言えるだろう。

    磁器のはじまりと古伊万里

    それにしても、朝鮮の陶工はどのような技術を持ち込んだのか。その端的な例が磁器だ。17世紀に入ると有田の泉山で李参平が白磁鉱を発見し、初めて白磁を焼く。それまで日本に硬質で白い光沢をもつ器はなく、管轄する鍋島藩(佐賀藩)はこれを藩の産業として手厚く保護した。こうして焼かれた磁器製品は現在、李参平以後しばらくのものを「初期伊万里」と呼び、製品として完成度が増す江戸時代のものを「古伊万里」と呼んでいる。

    ここで紛らわしいのが「伊万里焼」という呼称。江戸時代、有田を中心に三川内(長崎県佐世保市)や波佐見(長崎県東彼杵郡)など、伊万里港から出荷された焼きものはすべて「伊万里焼」と呼ばれ、その名が定着した。しかし、積出港の地名を製品に冠する時代は、鉄道での陸上流通網が整備される明治とともに終わり、現在は産地名がそのまま焼きものの呼び名となっている。有田は有田焼、波佐見は波佐見焼などのように。

    こうした理由で、近年及び現在、伊万里で焼かれる焼きものも「伊万里焼」と呼ばれ、これは過去における総称としての「伊万里焼」とは性質が異なる。過去の「伊万里焼」の多くは実質「有田焼」であり、大半は「古伊万里」を差していると思った方がいいだろう。

    古伊万里の美をかつての商家に展示

    その古伊万里の魅力を堪能できるのが「海のシルクロード館」。伊万里の街には積出港の風情が残る。伊万里川のほとりに、かつて焼きものを商う白壁土蔵造りの商家が立ち並んだ。「海のシルクロード館」はその一軒を利用して古伊万里を展示する施設だ。

    焼きものの積出しが始まるのは1624年。「海のシルクロード館」には、ぽつぽつと不純物が白磁に浮き出した貴重な初期伊万里の皿などと共に、当時の運搬船「弁財船」の模型や船箪笥も展示されている。

    また隣接する旧犬塚家住宅は「陶器商家資料館」として開放され、建築のディテールに目を向けると商家のつつましやかな暮らしぶりが浮かび上がる。2階の客室には、買付けに訪れた商人が快適に逗留できるよう様々な工夫が凝らされ、船による流通がいかに長期の準備期間を必要としたか、その時代に戻ったかのように実感できる。と同時に、日本陶磁器のトップブランド伊万里焼の商いがいかに町を活気づけたかも偲ばれるのだ。

    隣り合い並び立つ唐津・伊万里の美意識

    磁器の活況を横目に、伊万里の隣町で静かに陶器を焼き続けてきたのが唐津だ。唐津焼の真骨頂は安土桃山時代に完成し、江戸時代に花開いた「茶の湯」の茶器にもっとも現れている。いわゆる「わび茶」の「わび」を表出する作品群で、伊万里焼伝統の華麗で完成された美しさとは対極に位置する。釉の発色は質素で、しかし使うほどに風合いを増す素朴な土の世界。眺める人、使う人がやがて器を完成に導く、完成一歩手前の境地に佇む世界だ。

    唐津焼の原点「中里太郎右衛門陶房」

    その伝統を、1615年に唐津藩御用窯となって以来400年、受け継ぎ発展させているのが「中里太郎右衛門陶房」だ。JR唐津駅にほど近い住宅地にあり、白壁に沿い、現れた木の門を入ると和の庭園。茶の世界では、もてなす際の心の美しさが求められるというが、その心そのもののように美しい庭だ。

    木の階段を登るとふだん使いの器が並ぶギャラリーがあり、そこから再び庭を眺めて渡り廊下を渡った先に、十三代と十四代中里太郎右衛門の作品が展示される部屋がある。草木を一筆書きのような線で描いた土肌の「絵唐津」、鉄釉の黒と藁灰釉の白との出会いが景色を作る「朝鮮唐津」など、唐津焼様式を代表する抹茶茶碗や「叩き作り」の壷が置かれている。

    「叩き作り」とは、途絶えていた技法を十二代太郎右衛門が復活させたもので、壷などの大きな作に見られる古唐津の成形法である。壷にしても茶碗にしても、十三代と十四代では作風が異なり、伝統の上に築かれる芸術的個性の表出を存分に堪能することができる。

    路地を行けば、今も薪を使う連房式登窯が3つ並ぶ陶房があり、隣接して大正時代まで使われた登窯「唐人町御茶垸窯」も雑草に覆われた姿を見せる。窯もまた「わび」の世界にあるようで、唐津焼の魅力に包まれる思いだ。

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